77 幸福な時
「スヴェンナ。そういうことは、この小劇場で1番の踊り子になってから言いなさいよ。」
ミシェルにお小言を言われたスヴェンナは、舌を出してふざけた態度を取る。ミシェルに首根っこを捕まえられ、スヴェンナが手足をばたつかせて暴れていると、外がにわかに騒がしくなる。
「ちょっと、お客様。」
その声とほぼ同時に、ドアが勢いよく開かれる。赤い絨毯の敷かれた廊下から薄暗い舞台の裏手へ光が差し込み、キラキラと薄汚い埃が舞う。
それをものともせず、むしろ散りばめられた宝石の中を歩くかのように、美しい金色の長い髪に少し淡い緑の瞳を持つ女性が現れる。彼女は一目見てわかる上質なドレスを身に纏い、コツコツと靴音を鳴らす。
「こんなところにいたの?」
ぷっくりとした唇を震わせ、ペリドットのような瞳がアンドルーを射抜く。その声は母、アンドルシア王妃だった。彼女は顔がバレないようにか、扇から目元だけを出して近づいてくる。
「本当に、いいところの坊ちゃんだったんだ。」
スヴェンナは口をあんぐりと開けたまま、アンドルーを見つめる。ミッシェルは急いで姿勢を正し、スヴェンナを下ろして、彼女にも無理やり礼を取らせようとする。だが、スヴェンナは緊張感なく、アンドルーにすり寄ってきた。
「ねえ、あなたいいところの子なんでしょ。」
「まあ。」
アンドルーは小さく息を吐く。日陰者とは言え、皇子という身分が分かると、金や権力を欲する人間がうようよと近づいて来た。彼女もそんな奴だったか。
自分にはよくわからないが、先ほどスヴェンナが見せた舞台に対する眼差し、情熱、そしてその素直さに圧倒されつつも、何か失くしていた気持ちが芽生える、そんな気がしていたのに。自分の心がぎゅっとしぼんでいくようだ。
「じゃあ、私の将来に賭けてみない。いつか、スヴェンナは大成して、あなたにいいもの見せてあげる。」
スヴェンナはいたずらを計画した幼い子どものように、にししと頬を上げる。それは、薄汚い大人たちが見せる笑顔ではなく、同世代の友達に見せるような気安い、それでいてアンドルーにはない『何の疑いもなく輝かしい未来を見据えた』瞳を見せていた。
そんな彼女を映すアンドルーのエメラルドのような瞳は、母の後ろから差す光に照らされか、燦然と輝く。
「ふふ、おもしろい子ね。」
いつの間にか、こちらを見下げる母がいた。2人の会話が聞こえていたのかいないのか、彼女は普段から想像できないほど、とても楽し気に見える。
アンドルシアはまるで踊るように長いレースの裾をくるりと回し、アンドルーの手を取る。
「じゃあまたね、スヴェンナちゃん。」
ああ、聞こえていたのか。アンドルーは母に手を引かれながら、劇場を後にするのだった。
◇
母の助言もあり、私はスヴェンナのパトロンとして金銭面のみならず、精神面も含めて支援していた。母にとっても息子に付き添う名目で舞台へ行き、密会を重ねられるから、よかったのだろう。
あくまで身分は隠したまま、ルイとして彼女と接していた。それは出会いから10年経っても変わらなかった。その知らせを聞くまでは。
とある日の夜更け過ぎ、私たちはいつものようにスヴェンナの部屋、そのベットの上で過ごしていた。
彼女はこの10年の間に、この帝国一の踊り子として有名になっており、舞台の閑散期の夏には海外への遠征もこなすほどの売れっ子になっていた。
月明かりが2人の体を照らす。スヴェンナはドレープのあるドレスを纏うかのように、薄いシーツで身を隠す。
「あのね、ルイ、驚かないで聞いてほしいの。」
「なあに。」
体がだるく、もう眠ってしまいそうなアンドルーはいい加減な返事をする。
「実は。」
彼女はアンドルーの手を取ると、自分のお腹の上にそっと手を這わせる。
「今日はもういいって。」
先ほどの続きを請われたのかと思い、アンドルーは首を横に振る。
「違うの。」
スヴェンナの強い口調に思わず目が覚める。アンドルーの手の上から、彼女の柔らかい白魚のような手が重ねられる。
彼女の温かさに触れている部分に注意を払う。ドクンドクンと彼女の鼓動以外に、別の動きを感じる。
――中に何かいる。
「つまり……。」
アンドルーははっとして、スヴェンナと見つめ合う。
「そう、子どもができたの。あなたと私の子よ。」
「でも、君はフィストラル王国大劇場一番の踊り子になると言っていたのに。」
スヴェンナと家族になれることは喜ばしいが、自分が彼女の夢を奪ってしまったようで気が引けてしまう。
「それは、子どもを産んでも叶えられるもの。」
「……そうか、ありがとう。」
多くは語らないものの、アンドルーの家庭の複雑さを察していたスヴェンナは、泣いて喜ぶ彼の様子に目を細める。
「それでね、ルイ。あなたは良いところの坊ちゃんでしょう。私は帝国一の踊り子とは言え、第1夫人にになれるとは思わない。だけど、第2夫人でいいから家族として認めてほしいの。」
「そうだな。」
このときアンドルーは呑気に考えていた。スッツデール帝国の皇族は元宗主国の影響もあり、表向き第2の妻、つまり側室は持てない。
だが、自分は日陰者であり、皇位は兄が継ぐことは誰の目から見ても明らかだ。必要とされない皇子であるならば、身分差はあれど、彼女を妻として迎えることも容易であろう。
「むしろ第1夫人として娶りたいくらいだが、流石に私の一存では決められないな。」
「まあ、嬉しい。でも、無理はしないで。自分の立場は理解はしているから。」
珍しくしおらしい様子を見せるスヴェンナを抱き寄せる。
「家族に相談してみるよ。」
アンドルーは彼女を撫でながら、その頭越しに太陽が少しずつ天に昇っていく様子をずっとずっと眺めていた。
そうして、鳥のさえずりが聞こえる頃になって、アンドルーは彼女に見送られながら家を後にする。まだまだ薄暗い中、朝ごはん用だろうか、パンの焼ける香りがあたりに漂う。
霞が勝っていた世界が色づき、花壇に咲く小さな花々が自分たちのことを祝福しているようだ。今思えば、この帰り道が一番幸福で、満たされた唯一の時だったかもしれない。




