76 夜更け
メアリーは夜更けに抜け出して、少し離れた天幕に足を踏み入れる。
「ああ、君か。」
目の前のアンドルーは、少し見ない間にやつれた印象を受ける。その深緑の瞳には生気がなく、テーブルの上にはいつの食事だろうか、乾燥しきったパンが一口齧られただけでそのまま皿に乗っている。
彼は事前に情報を得ていたのか、メアリーが現れたことにさして驚く様子もない。コツコツとテーブルを叩き、座るように促される。
だが、メアリーは席には座らず彼に近づいていく。そして、アンドルーの頬に手を添わせ、エメラルドのような瞳をじっと見つめる。
「ねえ、ルイ様。あなた、もしかして死のうと思っている?」
メアリーの問いに、アンドルーはピクリと眉を上げた後、天幕の入り口に視線を送る。他の人間には聞かれたくないことがあるのだろう。
メアリーはその場を離れ、幕を半分だけ開けて、守衛に煙草の小箱を握らせる。アンドルーに隠れて会いに行くことを伝えると、スッツデール帝国から同行してくれたジャンが渡してくれたものだ。
「表の守衛はしばらく席を外すわ。」
「そうか。」
2人の間にあるランプの火がジッと焼ける音がする。アンドルーの口は一文字を結んだままだ。
「あのね、ルイ様。私の戯言だと思って聞いてほしいの。」
メアリーは机の端を撫でて、席に座る。いつの間にか彼が茶を入れてくれたのであろう、ティーカップを手に取る。紅茶を飲む文化がないからか、かなり濃く煮出されたそれを見て、メアリーは口の端を上げる。
「笑うなよ。」
「いえ、微笑ましくて。」
アンドルーは不機嫌そうにするも、その様子にメアリーは少し緊張がほぐれる。
「ルイ様は自分が行方不明になれば、敵方に身を隠されたエーデルとシュレインが見つかると思ったんじゃないかなって。」
メアリーは肘をついて、頬杖をつく。
「エルドレンから聞いたの。よくわからないけど、ルイ様はエーデルのことを大切に思っていて、彼が跡を継げば自分はどうなってもいいって考えたのかなと。」
アンドルーは大口を開けて笑う。だが、その目は笑っていない。
「もう終わったことだ。いいだろう。ひとつ昔話でも聞かせてやろう。」
◇ ◇ ◇
スッツデール帝国の17代皇帝とフィストラル王国の姫の子、それがアンドルー・スッツデールの出自だ。母は側室の子であったが、元宗主国と縁を持つ意味は大きく、何事もなければきっと大事に育てられただろう。
だが、アンドルーは腹違いの兄とは違い、日陰者として生きてきた。それは、元宗主国に良い感情を持たない皇帝は母の元へほとんど通わず、その中で生まれたアンドルーは不義の子と疑われたからだ。
具体的には母と仲の良かった、バジール・アリューシャン公爵、貴族でありながら武器商人とも呼ばれる悪名高い噂の絶えない男との子だと。反論しようにもアンドルーは母に似た髪、目の色だったため、何も証明できるものはない。
本当に不義の子なのか、当てつけなのかはわからないが、母は父からの寂しさを埋めるようにその男との密会を重ねた。2人きりだと言われないようにするためか、いつもアンドルーも一緒に連れていかれていた。その舞台が、スヴェンナ、世間ではフィストラル元国妃と呼ばれる彼女との初めての出会いだった。
◇
開演前から大人たちの会話に飽き飽きして、半個室になったテラス席を抜け出す。人の少ない方、少ない方へと足を進めるうちに、舞台の裏手まできてしまったのか、大道具が山積みにされた廊下のような場所に出る。
舞台の開演直前、踊り子だけでなく裏方も慌ただしい。1人子どもが増えたくらいでは、誰も気にしない。それに、意外と同世代くらいの子どもも周りにいる。
「あら、坊ちゃん。舞台を覗きに来たのかしら?」
少女の声が聞こえ、アンドルーは肩をびくりと震わせ、後ろを振り向く。
「遠慮しないでおいで、こっちこっち。」
小鹿のような明るい髪、深い海を思わせる瞳。それは明るさの中に、人を引き付けるような闇を持つかのようで、アンドルーは彼女から瞳を逸らすことができない。固まってしまったアンドルーに少女は首をかしげている。
「あたし今、ここの下積みさせてもらってるの。何か言われたら友達だって言ってあげるから。」
そういうことではないのだが。全く引く様子のない彼女に押し切られ、アンドルーはその場に腰を下ろす。
「綺麗だろう。あれが姉さんなんだ。」
彼女の指さす方向を見ると、舞台裾から綺麗な衣装を着た美しい女性が見える。
「あれが君のお姉さん?」
「違うよ、姉弟子のミッシェルだ。こんなところまで来るから舞台に詳しいのかと思ったら、かの有名なミッシェルを知らないなんて。」
それを皮切りに、彼女の舞台講義は止まらない。舞台が終わり、ミシェルと呼ばれた少女が舞台袖から下りてくる。彼女はこちらを見つけると、バサバサと音を立てそうな睫毛を揺らす。
「へーぇ。良い男になりそうね。」
近づいて来たミシェルからは濃い化粧の臭いがして、アンドルーは思わず咳き込む。
「むやみやたらにお客さんを連れて来るのはやめなさいって言ったでしょう?」
「違うよ、ミシェル。こいつは、えっと、お前、名前何?」
「もう。」
ミッシェルは少女を嗜めながら、こちらに目を向ける。
だが、本名は流石にまずい。アンドルー皇子はほとんど表に出ておらず面は割れていないが、名前だけは知っている者もいるだろう。アンドルー、ええと、アンドルーはだめだから、
「そう、ルイです。」
「そう?」
おかしかったのか、スヴェンナがくすくすと笑う。アンドルーはムッと頬を膨らませる。
「じゃあ、あなたは?」
アンドルーの声に彼女は立ち上がり、一歩前に出て恭しく礼をする。表舞台から漏れた光が彼女の背中を差し、まるで後光のように彼女を照らす。
「あたしはスヴェンナ、いつかフィストラル王国大劇場一番の踊り子になる女だよ。」
まるで女神が舞い降りたかのように、スヴェンナは満面の笑みで微笑んだ。




