73 夜風
「何があった。」
エルドレンが高台に設置した司令部の天幕に入ると、部下たちが一斉に振り向く。
エルドレン率いる部隊は大陸北西部の端、ここクレウゲンの侵攻をほぼ完了させていた。電撃的な開戦であったため、3日の猶予ではフィストラル王国に割いている人員も動かせず、本国からの支援も間に合わなかったようだ。
数日遅れて、月明りに照らされたスッツデール帝国の海軍の船が水平線の先に現れ、陸地に向けて大砲を打ち込むも、ここは高低差のある土地だ。弾の無駄遣いとしか思えない行為を繰り返すばかりで、ろくな海軍をもたないシェレンディアの軍ですら、その行為に皆首をかしげていた。
それからまた数日、その船が諦めて去ったのと引き換えに別の嵐がやってきた。
「岸壁に身なりの豪奢な男がおりまして拘束しました。おそらく、スッツデール帝国の者かと。」
北岸壁を警護する第3部隊長の男が、入り口にいたエルドレンのもとへ駆け寄り、経緯を説明し始める。
その間、身動き一つしない背を向けたままの大男は、手に縄を縛られたまま、地面に膝をつけて異様さを放つ。海を割るように、エルドレンが人の間を進むと、金髪の髪に深緑の瞳を持つ男が瞳だけを動かし、こちらの動きを追う。
「アンドルー皇帝。」
エルドレンがその男に声をかけると、幕の中ではどよめきが起こる。
「皆、彼はスッツデール帝国の皇帝だ。非礼は止せ。」
エルドレンは小刀で男の手縄を外し、簡易の椅子に座らせる。
「戦が片付いたとは言え、停戦の取り決めはまだだ。お前たちは持ち場に戻れ。」
上司である彼の声に、蜘蛛の子を散らすように部下たちは立ち去っていく。
「縄を外してよかったのか。」
「所持品の確認は済んでいると聞いたが。」
エルドレンはアンドルーの横の椅子を引き、腰掛ける。置かれたポットから紅茶を注ぎ、隣の彼の前に置く。
「なんだ、コーヒーではないのか。」
アンドルーは捕虜の身でありながら、出されたものに文句を言う。そんな彼を無視していると、横からこちらを覗き込んでくる。
「なあ、シェレンディアの皇太子、俺の首を落とさないのか。確か、お前の一族は惚れた女に対しては苛烈なところがあったはずだ。」
「どこの噂だ。」
エルドレンは努めて淡々と、冷静さを装う。だが、カップの中にある水面が揺れる。
「お前の女を奪ったのはこの私だぞ。」
アンドルーはその新緑の瞳をこちらに向けて、煽ってくる。ああ、嫌と言うほど知っている。本当に殺されたいのかこの男は。
「いいな。その目。」
「私にはそういう趣味はないが。」
エルドレンは目を逸らして、会話を続ける。
「まさか皇帝が何も理由なく、部下も付けずにのこのこと敵陣地までやってきた訳ではないだろう。」
「そのまさかだ。」
アンドルーは口の端を上げるも、目は全く笑っていない。彼は素直に事情を話す気がないと見た。エルドレンは溜息を吐く。
「それにしてもメアリーはいいな。」
黙り込むエルドレンをいいことに、彼は饒舌に語り出す。
「薄明りの月で照らされた亜麻色の髪に、火照った頬。うす桃色の上唇は濡れ、うす掛けのシルクが体の線をなぞり、横たわる彼女のその小さな胸が波打つ。」
アンドルーの口からは閨を想像させる言葉が並び、思わず叩ききりそうになる衝動を、筋肉を強張らせて辛うじて抑える。
「元婚約者をあなたがどうしようと、私にはもう関係ないが。」
エルドレンは顔色を変えずに、平然と言う。だが、アンドルーは年下の彼を楽しそうに眺め、頬杖をつく。
「体の筋肉に緊張が見られる、嘘だな。」
彼はエルドレンの肩を小突きながら、クスクスと笑う。その拍子に、がたつきのある椅子が音を立てて揺れる。
エルドレンは何も答えないまま、席を立ち、天幕の布を開けて外に一歩踏み出す。
「おい、私をひとりにしていいのか。」
背後から声がかかる。
「部下を呼んである。それに理由は不明だが、お前はここにいることに意味があるんだろう。生身がいいのか、骸がいいのかはわからんが。」
「へえ、ただの皇子って訳でもなさそうだ。」
エルドレンはアンドルーの言葉に振り向きもせず、天幕を後にする。冷たい夜風が血が上った頭を冷やす。意味不明なスッツデール帝国軍の行動に、皇帝の挙動。何か情報が得られるかと思ったが、頭の片隅に彼女のことがちらついて冷静になれない。
このところ、休みなく動いたせいで、頭が十分に働いていないようだ。ぼんやりとした頭のまま、自分の天幕までの道を進む。
アンドルー皇帝にメアリーは嫁がされている。深い仲になっていたとて、別におかしいことではない。ただ、それを元婚約者、それも惚れた女性を手に入れるために容赦ない行動を繰り返してきたシェレンディア王族の前でわざわざ口にするのはおかしい。自殺志願者でもない限り、そんな無鉄砲なことはしないだろう。
アンドルー皇帝を殺せば、メアリーは手に入れることができる。そんな悪魔のささやきが脳をちらつく。かぶりを振って頭を抱えていると、書類を抱えたラウルと出会う。いつもどおりウエーブのかかった茶髪が揺れるが、艶はなく、瞼の下には薄いクマを作っている。
だが、そんな彼は疲れ様子を見せず、戦地に似合わぬ様子でエルドレンの肩を組む。
「エル、皇帝とのお茶会は楽しめたか。」
「ラウル、お前は俺のこの顔を見て、そう思うか。」
「いいや、まったく。」
ラウルは横でケラケラと笑う。
「何か嫌なことに巻き込まれている気がする。」
エルドレンは白い息を吐き出して、空に煌めく星空を見上げた。




