70 決戦前
スッツデール帝国首都から1400㎞以上離れたここ大陸北西部では、春の半ばが過ぎたと言えど、草木の息吹は微塵も感じられない。吹き付ける風は天幕を靡かせ、突き刺すような寒さが外套の隙間から襲ってくる。
エルドレンは駆けてきた馬から飛び降りて、それを待機していた部下に預けると、ひときわ立派な天幕の布を開く。
「エル、おかえりなさい。」
ラウルはペンを置いて、席を立つ。
「ああ、留守中、問題はなかったか。」
「滞りなく。そういえば、ユーリはまだ外に?」
ラウルは主人に同行していた従者の姿がないことを疑問に思いつつ、食器を取ろうと戸棚の前に向かう。
「いや、あいつはカヴァリア連邦まで向かっている。」
「ええ、いったい何で……。」
トレーに出していた3つ目のカップを戸棚に戻しながら、ラウルは茶の準備を進める。
「結局父上の助言通りになりそうだ。」
エルドレンは外套についた露を払い、骨組みに垂らされたロープに引っかける。足元にある簡易的な金属製のストーブから出る熱で、少し温まったものの、体の芯はまだ冷え切ったままだ。
「というと、予定通り皇帝が仰られていたクレウゲン侵攻を進めるって訳だ。一応エルには大義名分もあるし、悪くない選択だな。」
「スッツデール帝国が規律を守るなら、占領についてはあまり心配していないさ。」
溜息交じりのエルドレンは、広いテーブルの前にある椅子にどっかりと腰かける。遠くからシュッシュッという沸き立つやかんの音がして、ラウルがその場を離れる。
「地図か。」
エルドレンは机上に残された地図を見つめる。シェレンディア帝国は大陸の北東部のほとんどを手中に収めているが、西端だけはスッツデール帝国の飛び地となっている。それは海の覇者であったかの国が寄港地として利用してきた歴史がある。
だが、スッツデール帝国が敗れ、海軍を重視しないフィストラル王国が宗主国となった際に、その西端にある地方、クレウゲンは今や小さな集落が立ち並ぶだけの都市である。本国からの支援なしには、陸の覇者であるシェレンディア帝国が占領するのは容易だろう。
「あと、3時間だな。」
エルドレンは服の内側から銀のチェーンを引っ張り出し、懐中時計を眺める。宣戦布告の通知から72時間が経過した後に開戦するのがこの世界の決まりとなっている。だが、スッツデール帝国がフィストラル王国に侵攻した際、これは守られていない。
湯気の立つ金属のカップをトレーに乗せて、ラウルが奥から現れる。
「ちなみに、メアリー様には会えました?」
「ああ。」
エルドレンは宣戦布告の通知を運ぶ使者に交じってスッツデール帝国を訪れていた。
「だが、あの場でメアリーを救出するのは彼女に断られてしまったよ。」
メアリーと会ってから、もうすぐ3日が経とうとしていた。
「と言うことは、フィストラル王国王妃と皇太子である、メアリー様の伯母様と従兄を人質に嫁がされたという噂は本当だったという訳ですか。」
「まあな。」
額に手を当て、天を仰ぐエルドレンはふーっと深い息を吐く。そんな彼の前に、ラウルは紅茶の入った金属製のカップを置く。
「紅茶をどうぞ。ジャムもあるけど。」
エルドレンは紅茶だけ受け取って、首を振る。喉を伝って、体の中から温められる。
「先祖と同じ轍は踏まないよう、ゆっくりメアリーを囲ってきたのに。」
今度は彼の吐き出した息から、白い吐息が立つ。
「なんだ、懸念はそこか。いつか生まれるエルの息子に謝ればいいさ。」
のんきに笑うラウルに、エルドレンは鋭い視線を向ける。
「ああ、娘が良かったって?」
そんな問題ではない。だが、大口を開けて笑うラウルは、きっと自分が抱えている後ろめたさや不安を感じ取り、それを吹き飛ばしてやろうと冗談を言っているのだろう。
「『スッツデール帝国に勝利して、戦利品としてメアリー王女を手に入れればよいではないか。』」
父である皇帝が事も無げに言い放った言葉が思い出される。自分が先祖と同じシェレンディア王族としての不名誉は被っても、メアリーを物のように扱いたくはなかったのに。
だが、シェレンディア帝国第1皇子として、メアリーを助ける方法はこれしかない。
「さあ、皆を招集して、港に向かおうか。」
エルドレンは立ち上がり、残りの紅茶を一気に飲み干す。外套を着こみ、外に出ると、ここに到着したときと打って変わって、厚い雲の間から差し込む陽がまるで光の柱のように降り注ぐ。
「運が良いな。」
穏やかに靡く自軍の旗を眺めながら、エルドレンは海の彼方のその向こうの島を見据えていた。




