60 怪しげな人影
部屋を去ろうとする侍女が扉を半分閉めたところで、内側から声がかかる。
「塔での捜索は無理しないでね。」
「大丈夫ですよ、すぐに見つけて参りますから。では、メアリー様、おやすみなさいませ。」
どうやら、侍女は塔にまつわる噂を信じて、捜索に出かけようとしているらしい。夜の場内を進む彼女のランプの灯がガラスに反射し、人影が幾重にもゆらめく。
しばらく待てば、廊下を曲がったようで、絨毯を踏みしめる革靴の音も聞こえなくなる。元々使用人の少ない城内は、皇帝の外出によりさらにひと気がない。明かりも落とされ、静寂に包まれた廊下にいれば、外で揺れる木々のさざめきさえ聞こえてきそうだ。
一部始終を息をひそめながら見ていた彼は、そっとメアリーの部屋に近づいた。ドアの鍵穴に耳を当てると、すうすうと心地よさそうな寝息と布ずれの音だけが聞こえてくる。ラウストの王女様は慣れない場所にきても快眠らしい。いや、平和ボケしている大陸の民だからだろうか。
彼は慣れた手つきで静かに鍵穴に針を差して開錠し、ゆっくりとドアノブを回す。部屋の中に足を進めるとジャリジャリという小さな音がする。何か、とても小さなものが足底に触れた気がした。彼女が持ってきたネックレスの糸でもほどけて、ビーズが転がってしまったのだろうか。
だが、この程度なら大丈夫、物のあたりがついたら足音は消せる。それに、大人が5人ほど眠れそうなほど広い寝台の真ん中でメアリー王女は気持ちよさそうに瞼を伏せたままだ。
彼は寝台に手をつき、寝台の上に乗り上げる。想定よりも固い感触だ。どうもラウストの人間は固いマットレスが好きらしいが、そんなものをスッツデール帝国ですぐに用意できる訳もなく、メアリー王女の指示で何か板状のものを搬入させていたのはこのためか。木造船の甲板の上と変わらないベッドなど、ラウスト人の思考は理解しがたい。
だが、こちらとしては身が沈まず、軋みもなくて好都合だ。四つん這いになって、そっと彼女のもとへたどり着こうとしたときだった。
「っ……!」
手に鈍い痛みが走る。砂利の上に強く押し付けられたような痛みだ。思わず目の前にかざすと、手のひらには血が滲み、月光に照らされてキラキラと光っていた。
「それはガラスよ、ブシュロン。」
桃色の瞳がこちらを凝視する。
「起きていたのですか。」
彼は膝立ちになり、メアリーを見下ろす。皇帝の妻になる人間の寝所に潜り込む侍従など、普通は王女が皇帝に告げ口をすれば命はないだろう。だが、その声は平坦で、全く焦る様子もない。
「皇帝からの差し金だからそんなに冷静でいられるのかしら。」
メアリーは薄明りに照らされて光る小刀の先を見つめる。
「おっと、メアリー王女殿下はお若いのに賢いのですね。」
ブシュロンはにまにまと笑う。それは皇帝からメアリーの殺害命令があったと肯定していることになる。じゃあ、そろそろ頃合いかしらね。メアリーは3度瞬きをしてから、部屋の入口に目を向ける。
「そう、ならあそこにルイの姿があるのはどういうこと?」
メアリーの言葉にブシュロンは首がもげそうなほどの勢いで振り向く。
「そんなはずは――」
その瞬間、彼の世界は逆転する。膝立ちで不安定にな体勢のまま肩に衝撃が走り、頭からベッドの端に落ちたのだ。
そのまま手をついて、後転するかのように転がる。再度、皇帝の姿を捉えようとしたが、ドアは開いていない。つまり、
「騙したな!ラウスト人が!」
ブシュロンは声を荒げる。寝台に足をかけた時、チカチカした光と衝撃が走る。先ほどの痛みがぶり返したのかと、頭に手を当てると真っ赤な鮮血がべっとりとついていた。いや、こんなに血が流れるほどの痛みではなかった。
面を上げた時には、塔に行ったはずの侍女の2発目の拳が炸裂する寸前だった。




