56 帝国にて
東の帝国、シェレンディアではエルドレンがメアリーからの手紙を手にしていた。封筒の中から青いきらめきを放つ指輪が転がり落ちる。
「今からは早馬を走らせたところで間に合いませんよ。」
いつの間にかラウルが後ろに控えていた。壁に上背を預けて、茶色いウェーブのかかった髪を垂らし、気だるげにこちらを見ている。
「わかっている。」
エルドレンは航路と陸路を経て、こちらまでやっとたどり着いたであろう手紙を力任せに握る。その手は震え、血のにじみそうなほど爪が肉に食い込んでいた。
「エル。」
ラウルが声をかけるが、エルドレンは皮肉気な笑みを浮かべるだけだ。
「私では頼りにならないとメアリーに思われたかな。」
メアリーを手に入れたと思っても、するすると抜け落ちていく。エルドレンは額に手を当てて、長い睫毛を下げる。
「珍しく弱気ですね、明日は槍でも降るかな。」
ラウルは怒られるのも承知で、冗談を口にする。小さいころから一緒に過ごしてきたが、逆境に置かれようとも弱音を吐くような男ではなかった。
「ありがとうな、ラウル。」
こちらの意図を読み取ってか、エルドレンは目線を下げたまま、ぶっきらぼうに言う。
「いいえ。」
ラウルは地図を机上に敷き、主人の指示を待つ。時計の秒針が時を刻む音が部屋に響く。
「……今出せる兵力は。」
エルドレンが口を開いた。ラウルは頬を上げ、それに応じる。
「東は少数ですが、中央と西方には予備兵力もあり、1万ほど出せそうです。」
「1万か。西方守備隊は。」
「問題ありません。」
瞼が上がり、その澄んだ青の瞳が光る。その奥には目が逸らせないほどの闘志が宿っていた。
「ラウル、あの時の提案乗ってやるよ。」
◇ ◇ ◇
西の帝国、ここスッツデール帝国の大広間にメアリーはいた。かつての宗主国、フィストラル王国に歯向かった皇帝とはどんな人物なのだろうか。
「面を上げよ。」
声が若い。メアリーが顔を上げると、金色に光る髪に深緑の瞳を持った青年がいた。豪華絢爛な玉座に、王冠やファーのついたガウン、宝石をこれでもかと散りばめた剣、顔に足らぬ威厳を補うかのように大量の装飾品を身に纏う。カヴァリア連邦の皇子が気品のある豪奢さとすれば、目の前の彼は成り上がりの商人が急に大金を手に入れたかの様相だ。
年齢はエルドレンやシリル兄上よりは1まわりは上だろうか。ラウストの若い王女を欲しがるなんて、もっとおじさんかと想像していたけれど、その予想は外れたようだ。
「名は?」
「メアリー・フォン・ラウスト、ラウスト王国第1王女でございます。」
彼はメアリーを靴から頭の先まで嘗め回すように見ると、フンと鼻で笑う。
「シェレンディアもカヴァリアも欲する少女と聞いて気になっていたが、まだ小さいではないか。あれらも私と同じで血が欲しいだけか。」
「はあ。」
皇帝は曖昧な返事をしたメアリーから視線を逸らし、顎で侍従に命令する。
「こいつに北の部屋を与えてやれ。」
「偉大なる皇帝陛下、お言葉ですが。」
「私が命令したのだ。聞こえなかったのか。」
侍従たちは飛ぶように広間を飛び出ていき、メアリーはその後ろ姿を見送った。正面に向き直ろうとしたところで、首元に冷たい何かが触れる。
「おい、謁見中にどこを見ている。」
鞘に入った小刀で首元を無理やり上げられる。玉座からメアリーが控える場所までは距離があるのに、皇帝からは足音がしなかった。
「考え事とはいい度胸だな。」
「いえ、私は皇帝陛下を何とお呼びすればよろしいかと。」
努めて冷静に言葉を紡ぐメアリーに、彼はエメラルドのような瞳を揺らし、薄い唇を噛む。
「……ルイ。」
皇帝はためらいがちに言葉にした。その姿は先ほどまでの威厳もなく、なんとなく幼く見える。それに、スッツデール帝国の皇帝の名はアンドルーと聞いていたが、どういうことだろうか。
「皇帝陛下のお名前はアンドルー様ではないのですか。」
「その名を呼ぶな!」
急な大声とともに、彼が握る小刀に力が入る。鞘に入っているとは言え、首元を突かれることになり、メアリーは勢いよく咳き込む。
「すまない。」
平坦な声が2人だけの大広間に響く。彼は小刀を腰に戻し、振り返ることなく足を進める。敷き詰められた赤い絨毯が音を吸収し、軽い音を立てた。
その場に残されたメアリーは侍従が迎えに来るまで、何もない玉座を見つめていた。




