2 婚約者の来訪
婚約の顔合わせの日はすぐにやってきた。私は手紙を受け取った日以降、たどたどしいシェレンディア語の発音を習得するのに精いっぱいであった。
前世を思い出した日以降、なぜかどの言語で書かれた文章であっても難なく読め、聞いて理解できるようになっていたから、勉強するのは書いたり、話したりするだけで済んだのはありがたい。原理はよくわからないが、きっと言葉が理解できないとゲームが進められない故のご都合設定なのだろう。
ここ最近は、せわしない日々を過ごしていたこともあり、当日になって相手がどんな人だろうか、怖い人ではないかと改めて心配になってくる。メアリーはドレッサーの前の置時計をちらちらと見ながら、亜麻色の髪を指にぐるぐると絡ませた。
「メアリー様、やめてくださいまし。折角、かわいく結ったのですから。」
エイダは髪結いをしていた手を止め、メアリーの手を握り、ゆっくりとそれをほどいていく。指から伝わる温かさに少しだけ心が落ち着く。
「髪飾りはいかがされますか。」
エイダが小さなジュエリーボックスを目の前に差し出した。
「折角エルドレン様に婚約の品として事前にサファイアの髪飾りを送っていただいたのですから、そちらにしてちょうだい。」
メアリーがまるで満点の星空を思わせる青の宝石に美しい銀細工があしらわれた髪飾りを指さすと、エイダは少し不服そうに頷いた。
「でもメアリー様、無理やり結ばれたような婚約なのですから、顔合わせくらい意趣返しとして、相手の瞳に合わせた髪飾りにされなくてもよいと思います。」
「いいのよ、エイダ。確かに怖い噂は耳にするし、私も先月は真に受けて倒れてしまったけれど、本当のことを知らないだけかもしれないわ。それに、この婚約が本当に維持されるかもわからないし。」
メアリーはその淡い桃色の瞳を揺らした。
数か月前、メアリーはシリル兄上から聞いてしまったのだ。ラウスト王国の穀物地帯にほど近い直轄領で収穫量が例年と比べ大幅に下がってしまったことを。原因は未だはっきりしないようだが、おそらく3年後の飢饉につながるものだろう。そう遠くない将来、戦争回避のためにこの婚約も破棄され、別の国に嫁がされるかもしれない。
「シェレンディアはなかなか他国の王族から嫁入りしてもらえませんからね、こちらから願い下げることはあっても、破棄するなんてことはありませんよ。」
鏡越しのエイダはまるでご御冗談をというそぶりで、手際よく道具を片付け始めている。
その時、ノックの音とともに、
「メアリー王女殿下、エルドレン・シェレンディア皇太子殿下が応接間でお待ちです。」
と部屋の外から若い男性の声が聞こえた。
◇ ◇ ◇
メアリーが応接間の前に着くと、重厚なドアがゆっくりと開かれ、柔らかな光が差し込む。窓側に佇む人がいるが、逆光で彼の表情は伺えない。メアリーは中へと進んで、美しいカーテシーを披露する。
『ラウスト王国第一王女、メアリー・フォン・ラウストでございます。』
初めてのシェレンディア語の実践は、緊張で舌が上手く回らない部分もあった。一般的な会話としては及第点だろうが、王女としては少々不足があったかもしれない。
恐る恐る顔を上げると、少年はこちらを振り向いた。その澄んだ青色の瞳を細め、白銀の髪をさらさらと揺らす。歳は15歳ほどであろうか、その齢に似つかわしくない真っ黒な軍服に身を包んでいる。彼は胸元の勲章を揺らしながら、こちらに向き直って手を差し出した。
『シェレンディア帝国皇太子、エルドレン・シェレンディアだ。』
エルドレンはシェレンディア語で自己紹介するも、メアリーの様子から言語の不自由さを悟ったようで、
「これからよろしく頼むよ、メアリー。僕のことはエルと呼んでね。」
と流暢なラウスト語に切り替えて話しかけてくる。メアリーの発音をたしなめられるかと思ったが、気にもとめていないようだ。
「エル様、こちらこそよろしくお願いいたしますわ。」
メアリーはにっこりと笑顔で握手に応える。ただ、内心は心臓をバクバクさせていた。
エルドレンの髪は窓から抜けた光によりキラキラと照らされ輝く。陶器のように滑らかな肌に、夜明け空を映したかのような瞳は絵画の様だ。何て美しい人だろうか。
その時ふと、妹が『お姉ちゃんの推しになるのはこの人だよ』とゲームの画面越しに見せてくれた、彼その人ではないかと直感する。まじまじとその顔を見つめると、髪や瞳の色だけでなく、三白眼の瞳、切れ長のアイライン―愛らしさが残るものの、凛とした彼の面影が残っている。
『ポリティカル・ラヴァネス』の小冊子では攻略対象でないためか、彼の名前は明かされていなかったので、会って初めて気が付ついた。
「これは尊いわ…。」
メアリーはにやけが止まらず、ドレスの裾で口元を隠しながら、小声でつぶやく。この成長していくご尊顔が拝めるなら、今からでもシェレンディアの軟禁くらい受けてやるわ。メアリーがそんな妄想をしていると、エルドレンがこちらに一歩近づいてくる。
「婚約の承諾から三月も経たずして、押しかけるようなことをしてしまい大変申し訳ない。実は諸事情がありまして、少なくとも3年ほどこちらに来ることも、婚姻することもできないと思うのです。」
「といいますと?」
エルドレンは困ったように眉を下げて、話を続ける。
「皇帝である父上から命令された仕事がありまして、東部の遊牧民族を抑え、街を軌道に乗せるまで東部にいなければならないのです。これが今回の婚約の条件でもありまして。」
メアリーはそれを聞いてうなだれてしまった。
この世界では婚約を結んだのち、1年程度で婚姻するのが一般的であるため、メアリーは王国の混乱に巻き込まれずに、シェレンディア帝国に嫁いでしまえると踏んでいた。ただ、3年後の婚姻となると、王国の混乱はもとより、この婚約が続けられるとも限らないのだ。
エルドレンは何を思ったか、すこし考えるそぶりをしている。
「では、婚約者様、お待たせしてしまう非礼を詫びて、一つお願いを叶えてあげましょう。もちろん、私がかなえられる範囲で、ですが。」
その薄い唇は弧を描いた。彼は自国の悪い噂も承知しており、彼女も心の内では嫁ぎたくなどないと考えているだろう、嫁いでくれるなら、多少の宝飾類を強請られることくらい織り込み済みだと高を括っていたが、目の前の幼女はそんなものは望んでいなかった。
「では、エル様。少し時間をいただいてもよろしくて?」




