122 新月
エルドレンがホテルの前に降り立つと、深夜であるにも関わらず、それに気が付いた従業員が走り寄ってきた。506号室のメアリーに用事があると告げると、男は足早に去っていき、エルドレンは馬を係りの者に預ける。王女が滞在するにしては簡素なホテルではあるが、どうやら従業員の教育は行き届いているらしい。
少し前に振り出した雨で石畳の窪みに水が溜まり、天にかかる細長い月を照らしだす。それを踏みつけるように足を進め、エントランスに近づくと、壁からふっと人影が現れた。
「エルドレン様、こんばんは。こんな夜更けにはメアリー様に会わせられませんよ。」
「君か。」
エイダは黙って頷くと、突然現れたエルドレンの姿に驚く様子もなく、手紙のスズラン模様に隠された住所、その地に建つホテルへと招き入れた。どうやらホテルにも話は通っていたようで、エイダがフロントにアイコンタクトを送ると、ベルボーイが部屋の鍵を持って現れて、エルドレンの荷物を受け取り、運ンでいく。
「一番良いお部屋より、メアリー様の部屋に近い方がよろしいかと思いまして。」
エイダはベルボーイから受け取った、510と書かれた鍵を見せる。
「それでかまわない。」
エルドレンのその声とともに、エイダはカチャリと部屋の扉を開ける。
「ユーリ様かラウル様はまだいらっしゃらないのですか?」
「ラウルは公館に寄っているからしばらくすればここに来るだろう。ユーリは船旅で来る。」
「では4日後辺りでしょうかね。」
シェレンディア帝国からここネイシタブ王国までは船旅で7日ほどかかるが、カヴァリア連邦から山脈を抜けて、陸路で向かえば3日で抜けられる。理論上では確かにそうだ。しかし、一般的に船旅か、ラウスト王国を抜ける平地のルートが一般的になっていることを思えば、それがいかに無茶な行程か想像できるだろう。
そんな無謀なルートで駆け抜けてきたエルドレンたちもさることながら、問うこともなくエイダも自然とその行動を受け入れている。というよりもむしろ、うちの愛しいメアリー様のためにはそれくらいのことしますよねという心情からくるものだろうか。
濡れた外套をエイダに預けて、エルドレンはどっかりとソファに腰かけた。ここ数日の疲れと、冷えた体がゆっくりと温められ、睡魔が襲う。ここで眠る訳にもいかず、彼は天を仰ぎ、目をこする。
「どうぞ。眠気が飛ぶ方が良いかと思いまして。」
エイダが湯気の立つ濃い目の紅茶を差し出す。
「このスズラン模様の手紙は君の差し金だろう?」
「早速本題ですか。」
彼女は話を急かす男は嫌われるぞと言わんばかりの表情だ。エルドレンは何も語らずに、温かなカップに口をつける。
「エルドレン様には8年前のお約束を守っていただこうかと思いまして。」
「と言うと?」
「私をシェレンディアの侍女として、メアリー皇太子妃の筆頭侍女として雇っていただけますか?」
「もちろん。」
エルドレンはその意図に気が付き、ふっと笑みをこぼす。
「なるほど、そういう訳で私にはメアリーの居場所を明かしてくれたのか。」
「いえ、スズラン模様のお手紙はラウスト王宮と、シェレンディアの王宮にお送りしました。具体的にはシリル殿下とあなた様に。」
エイダはいたずらっぽく笑う。
「どちらが先にメアリー様に気が付いてくださるかで決めようかと。どちらも気が付かなければ、このまま2人で生きて行こうと思っていました。私の本懐はそれでも果たせますから。」
「ほう。」
「ただ――。」
エイダは片耳のピアスを揺らすが、もう片方の耳にはその金色は光らない。エルドレンがメアリーに贈った花簪がシェレンディア帝国に届いたのは、彼女が意図したものなのだろう。手紙が届くまでの時間差を、ヒントで埋めようとしたというところか。
「メアリー様はシェレンディア、いえ、エルドレン様のことを思われてここまで逃げてこられましたから。」
それはメアリーがアンナから聞いたという、毒の副作用、世継ぎが望めないかもしれないという言葉を信じているということを示していた。
「それなんだが。」
エルドレンはアンナからの手紙を彼女に差し出した。
そこには、メアリーへの謝罪と、毒の詳しい副作用、メアリーには適切に対処したからほとんど影響がないと考えてよいと書かれている。
「やっぱりですか。」
さっと読み終えたエイダは、そうは言いつつも胸を撫でおろしているように見えた。
「そうでなくても、私はメアリーを迎え入れるつもりはあったが。」
「エルドレン様はそれでよくとも、メアリー様が後ろ指を指されながら生活をされるのは気が引けますから。」
エイダはシェレンディア王族のことをよく理解しているようで、自分がメアリーのことを探しに来ないだとか、娶る気がないとは全く思わなかったらしい。
「明日、メアリーに会わせてもらおうか。」
「このお手紙はメアリー様にお渡ししておきますが……。」
メアリー様だってこの手紙を読んで、『はい、そうですか。』とすぐに切り替えられるものではないだろう。エイダは胸ポケットに折りたたんだ手紙を突っ込んだ。
「いいんだ。こちらにも考えはあるから。」
良からぬことを考えているのはわかるが、その青い瞳の奥は一介の侍女には何もわからないのであった。




