12 イヴァナの夜
メアリーはナイトウェアに身を包み、ランプに火を灯して本を読み進めていると、乾いたノックの音が聞こえてきた。振り向くと、いつもの軍服ではなく、白いシャツにラフなパンツを身に着けたエルドレンが立っていた。
「夜分遅くにすまない。最後の夜だから、メアリーの顔がどうしても見たくなって。」
「いえ、いえ、構いませんわ。」
エルドレンの甘い言葉に、日中の出来事を思い出したメアリーはまた顔が火照りそうになる。
「それにしても皇太子は大変なのですね。そんなに護衛の方を引き連れるなんて。」
以前、エルドレンがラウストの王宮に来た時も感じていたが、連れて歩く護衛の数が多い気がするのだ。シェレンディアの文化かとも思ったが、彼の弟であるイシュタルは違っていた。ならば、戦が続く国の前線に立つ皇太子ともなれば狙う輩も多いのかもしれない。
「いや、いつもはこんなに多くないんだが、君の兄上からの命令もある。」
「シリル兄上からですか?」
「皇太子殿下には前科がありますからね。」
横に控えていたラウルが軽口を叩く。前科?婚姻前の令嬢でも連れ込んだことでもあるのだろうか。花簪の件と言い、メアリーが知らないだけで、エルドレンに色男の設定もあったのかもしれない。
「ラウル!」
エルドレンはこれまでの優しい彼からは想像できないような形相で、ラウルを睨みつける。他方で、彼の怒っている顔も綺麗だわと、メアリーは整った横顔に見とれていた。
「私も王族ですし、婚姻前のお遊びなど咎めませんわ。」
「いや、いや断じてそういうことでは。」
そういうことでないなら、どういうことだろう。あまり問い詰めるのも野暮だろうか。
「でも、政略結婚とは言え、あまり側妃の数は多くないといいのですけど。」
彼の青い瞳から目をそらし、メアリーの声は尻すぼみになる。前世の常識に当てはめて考えると、一夫多妻などあり得ないが、この世界、特に王族では正妃以外に数人の側妃を設けることは珍しくない。
メアリーの両親は仲睦まじく、子供も3人生まれているため、ラウスト国王に側妃はいないが、シェレンディア国王には3人の側妃がいると聞く。
「大丈夫、僕はメアリーしか愛さないから。」
安心して、そう言ったエルドレンは喜びを頬に浮かべていた。
◇ ◇ ◇
煌々と星空がゆらめく頃、エルドレンの執務室では、弟であるイシュタルがひじ掛けを背にしてソファに寝ころび、紅茶を啜っていた。その口元は楽しそうに歪んでいる。
「ご機嫌な兄上を見ると寒気がするよ。」
イシュタルは挑発するように大げさに腕をさするが、エルドレンは机の上の書類たちに向き合い、目線を送るに留めた。傍目にはわからないかもしれないが、弟から見ればその相好は崩れている。
「今日は多少の無礼を許してやれそうだ。」
「え、怖いな。」
イシュタルはアメジストのような瞳をぱちくりと瞬かせる。
「で、何しに来た。まあ、イヴァナの花まつりを見に来たと言う冗談はいらないがな。」
「わかっているくせに。」
「……。」
エルドレンは聞こえていないかのように手元のペンを走らせている。
「兄上が数年前、小箱に入れて連れ去ろうした女の子ってどんな子なのかなって。」
「お前、絶対メアリーに話すなよ。」
弧を描いたイシュタルの口を見て、エルドレンは溜息をつく。
「僕だってこれ以上シェレンディアの王族に悪い噂が立つのはごめんだよ。僕も一緒だって思われたくないし。」
「俺は父上ほどではないが。」
「父上もおじい様ほどではないって言っていたけど?」
年下ながらも口達者なイシュタルに、エルドレンは返す言葉が浮かばず、唇を噛む。イシュタルは母に似たようで、口を開けば止まらない。同じ母から生まれたはずなのにこの差には驚きである。
「それに教会で嘘つくのはよくないよ、兄上。」
「嘘はついていない、そういった考え方もあるだけだ。」
「そうやって体よく軟禁するって宣言かと思って笑っちゃった。小箱の次は、教会の棺にでも入れるのかってね。教会が静かになったから、ユーリも心配して思わず中を覗いたんだって。」
だから、あの時入り口で物音がしたのか。従者にさえ、婚約者相手のことは信頼されていないようだ。そもそも、ユーリは自分の従者であるのに、イシュタルにべらべらと子細を話しすぎだ。
「そうそう、今日姉上と食事をしたときに、花簪の話をしたよ。『短期間でこんなガラス細工をつくれる職人たちがいるなんて、イヴァナは素晴らしいですね。』って。あの簪は1か月で作れるレベルじゃないよね。いつから作らせていたのさ。」
「発注自体は半年前か。」
「え、半年前って婚約の打診を送った頃でしょ。婚約が受諾されるかもわからないのに発注したの?本当に?信じられない。」
イシュタルは口を大きく開けて、顔を歪ませる。エルドレンの行動が全く理解できないらしい。
「いつか、お前も理解する日が来るさ、父や俺のように。」
エルドレンはつぶやき、そもそもと続けた。
「デザインは花まつりを一緒に見に行きたいわと言われた、ずっと昔のあの日から考えていたからな。それに比べれば些細な事さ。」
エルドレンは窓から抜ける月の光を背に浴び、口の端を上げて笑っていた。




