115 波の音
「エルドレン様の部屋の隙間に手紙が差し込まれていましたよ。」
従者であるユーリは手に簡素な手紙を携えて、部屋の中まで進む。懐の小刀で端を切り落としてから、まだ眠たそうにベットに横たわるエルドレンに手渡した。
「メアリーからか。手紙にしなくったって、直接来てくれたら構わないのに。」
そう言うと、エルドレンは上体を起こし、受け取った封筒から便箋を取り出す。
「記憶が混乱しているのに、無理やり抱擁をしようとしてきた人がいて、思わず突き飛ばしたら元婚約者だったので気が引けたのでは?」
「元じゃない。」
眉根を寄せたエルドレンは鋭い眼光をユーリに向ける。
「失礼しました。ですが私は事実を言ったまでです。」
いつも無理な仕事ばかり振ってくる主人の嫌がる顔を見れたせいか、ユーリはどこか上機嫌のようだ。彼のそんな言葉は無視されて、エルドレンの視線は便箋に書かれた文字へと移る。
「そんな顔しなくても。メアリー様から『しつこい男は嫌いなので、あなたとは婚約しません』とでも書かれていたんですか?」
いつもの反撃だとばかりにユーリはさらに続ける。あり得ないだろう予想をつけてやったのに、エルドレンは能面のような顔を向け、便箋を投げてよこした。
「いやいやまさか……え?」
目の前のエルドレンは頷きを返す。それとほぼ同時に、彼は空中に舞いそうな勢いで毛布を弾き飛ばし、夜着をまとったまま部屋を飛び出した。
「待ってください。」
「待てるか。」
エルドレンははだけそうになる布を手で押さえ、時折現れるメイドたちはその恰好に驚いた声を上げる。後ろをついて来たユーリが申し訳なさそうに頭を下げながら移動する。
介抱の必要や投薬の都合もあって、メアリーが滞在する部屋はエルドレンたちの部屋から離れた位置にあった。扉の前に着くと、エルドレンは勢いよくそれを開く。
普通は女性の部屋に許可もなしに飛び込めば、非難する声で絶えない。だが、中からは何の物音も聞こえない。
「メアリー、君はどこに。」
そう呟いたエルドレンの視線の先、メアリーが昨日まで過ごしていた部屋は、すでにもぬけの殻だった。
◇ ◇ ◇
波の音。塩気を含んだ温かな風が、メアリーの亜麻色の髪を撫でる。
「メアリー様、あまり長居されると髪が痛みますよ。」
「ええ。」
メアリーは先ほど購入したつばの長い麦わら帽子を深くかぶる。
「エイダごめんね。」
「メアリー様。」
泣きそうな主人の声に、エイダは主従を忘れて軽い抱擁を交わす。メアリーたちは予定に反して、ラウスト王国には向かっていなかった。
メアリーはエイダにありがとうと小さく呟くと、その抱擁を解き、くるりと振り返って道を進む。
「エイダはどこまでも着いていく所存ですが、一体どうなさるおつもりですか。」
「当面は何の縛りもなく暮らしてみたいわね。だけど、どうしてもお金が足りなくなったら、何処かの貴族の家庭教師に名乗り出ても良いかもしれないわね。」
「メアリー様なら問題なくこなせましょうが……。」
エイダは何か言いたげな様子だ。おそらく『体のことについてはもう一度調べた方が良いのでは?世継ぎが望めない体ということが本当だとしてもエルドレン様に確認を取るべきなのでは。』というところだろう。
この道中、ラウスト王国ではない行先の船に乗り込んだところから、メアリーは心の内をエイダに明かした。アンナから命は助かったが結婚に支障があると言われたこと、優しいエルドレンはそれでも結婚しようと言ってくれるかもしれないが、彼が愛する国に迷惑をかけなくないと。
エイダもアンナから子どものことは慎重になった方がいいかもしれないとは言われたが、それは短期的な話だけで、服毒の期間が短いほど影響が少ないと言う話を聞いた。そうメアリーに伝えてなだめても、主人は頑なに首を振る。
『もしそれが本当だとしても、受け止めるべき事実は本人に言うのが筋でしょう。本人に優しい嘘を吐くことはあっても、その逆は何の意図があるのかしら。私たちはアンナに恨まれるようなことはしていないし、アンナの機転によってエーデルを救うこともできた。彼女が私を陥れる理由などないのではなくて?』
数時間前にそう漏らしたメアリーの横顔をエイダは見つめる。大陸中央~北側では珍しくない容姿だが、ここ南部では色素の薄い彼女は目立つだろう。
だが、カヴァリア連邦にほど近いこの国に限っては、黒髪に濃い瞳の者も多数見られたが、メアリーと似たような淡い髪色の女性も多い。昔から商業の経由地として発展してきたこの地は、容姿、言語、文化が混ざり合う多民族国家であり、この王国は身を隠すにはもってこいだった。
「ただ、家族のことを思うと寂しいわね。」
その桃色の瞳には両親や兄弟たちだけでなく、エルドレンの姿も映していそうに思えた。




