111 堪えられぬ堰
夢の中のメアリーは流れ込む記憶に混乱しながらも、折り合いをつけようともがいていた。自分の記憶なのだから当たり前だが、視点は自分のものなのに、第3者として誰かの記憶を覗き込んだかのような感覚になる。
例えば、その記憶によるとシリル兄上にはメアリーを溺愛していたという意外な側面があった。他にも、メアリーが記憶をなくしているだけで、同世代の子どもたちとも顔を合わせていたようだ。記憶を探れば、ハルラムたち兄弟には何度か会ったことがある。
メアリーの記憶喪失は主だった皇室や王室には共有されているのか、その後のメアリーが『初めまして』と声をかけても、彼らは不審な挙動を見せず、自分が疑念を抱くこともなかった。誰も自分にそれを告げることなく受け入れられたこと、まだ幼い頃だったため、記憶の断片化が起きても違和感なく生きてこれたのだ。
それはいい。
気がかりなのは、6歳の頃、エルドレンと2人で王宮の外へ逃避行をしたのだ。子どもの計画なんて粗雑なもので、終わりはあっけなく、すぐに捕まってしまった。それでも、外の世界に出てみたかったメアリーは満足していた。
ところが、翌日の聴取の時間がつらかった。2人で計画して外に出たのに、ラウスト王国の聴取官は偏見があるのかメアリーには優し気に、エルドレンには苛烈に責め立てる。自国の聴取官だから王女に贔屓目なのかもしれないが、それを差し引いても目に余る様相だった。
メアリーも必死で聴取官に訴えかけるも、エルドレンに脅されたのでは、誘拐されたのではと聞き耳すら持ってもらえず、彼を守れなかったことにずっと負い目を感じていた。秘密の逃避行を経て、勝手に彼のことを友のように思っていたが、失望されてしまったかもしれない。メアリーはエルドレンを見送ってなお、自分の不甲斐なさに落ち込んでいた。
だが、しばらくしてから、両親からエルドレンと文通をしてみないかとの提案があった。メアリーには願ってもない提案だったが、あちらは迷惑をかけられて、文通も本当はしなくないのではないだろうか。メアリーはそう思いこんでしまい、初めの内は緊張しながら筆を取ったことを覚えている。
でも、何度かやり取りするうちに、手紙の内容やその筆跡からエルドレンがメアリーと文通をするために、必死でラウスト語の読み書きを覚えてくれたのだと気づいた。それからは、メアリーも彼に対して素直な気持ちを表現できるようになっていった。
そんなエルドレンに対して、メアリーは理由があるとは言え、急に断りもなく文通をやめてしまったのだ。先ほど抱きしめようとしたエルドレンを突き放してしまったのは、彼が纏う香りを嗅いだ瞬間、その当時の後悔や申し訳なさが脳裏に蘇り、自分が彼の抱擁に値する人間だとは思えなかったのだ。
それにあの時拒んでいて良かったのかもしれない。アンナとエイダの会話では、将来の子どもにも影響があるかもしれないなんて話していたのだ。やむを得ないとは言え、一度別の人間に嫁いだというだけでも、彼との婚姻に障害がある。世継ぎにも影響があるかもしれない毒を盛られた女など、エルドレンも娶りたいと思うだろうか。
シュレインは体が大きめであるものの、その行動からエーデルと歳の離れた兄弟だと思っていた。だから彼らが2歳差しかないなんて信じられなかった。命は助かったが、こんな体では話が変わってくる。
エルドレンは優しい人だ。メアリーがアンナと協力して彼が飲むはずだった毒を無毒に変えた恩で、予定通りシェレンディアに嫁いでよいと言ってくれるかもしれない。だが、その発端はメアリーのアンドルーとの白い結婚を完全に破棄するためであり、純粋にメアリーが彼を助けた訳ではない。
それに、エルドレンの両親や家族、国民感情を考慮すれば、おいそれとその手を取ることができようか。メアリーは、子を望めないアンナの苦しみが少しだけ分かった気がしていた。
◇ ◇ ◇
「あら、目が覚めた?」
「おはようアンナ。迷惑かけてごめんね。」
アンナはメアリーに軽く頷きを返すと、締め切られていたカーテンを一気に開け始める。
「わあ、アンナ。急に眩しいわよ。」
「太陽に当たらないと。そんなことを言えるなら、もう体調はすっかり良さそうね。」
彼女は最後のカーテンを開けると、くるりと振り返る。
「体の動きは問題ない?」
メアリーはその指摘を受けて、右腕、左腕、毛布をめくって体をねじり、左足、右足の順にそっと床に触れる。立ち上がろうとすると、思わずよろめいた。
「脚の感覚はしっかりと残っているでしょ?」
「ええ。」
「寝ている間に軽く確認させてもらったわ。1人で立ち上がれないのは、単に寝込んでいた間の筋力の衰えによる一時的なものよ。」
メアリーの脇の下にアンナは腕を通し、歩行を補助してくれる。ぽすんとソファに置かれると、その足でアンナは呼び鈴を鳴らし、正面に座る。
「あのね、アンナ。私の体ってどういう状態かしら。」
眠る直前に聞いていたアンナとエイダの会話が気になり、メアリーは踏み込んだ質問をする。アンナは一瞬脳裏に浮かんだ言葉、嫉妬にまみれた感情から飛び出そうとした言葉を飲み込むべく、少しの間を置く。
「……どう、と言うのは?」
「マシュベリーもこの毒にやられてシュレインが生まれたんでしょう。もしかしたら、私もその影響が残っているのかしらと心配になって。」
子どもを成せないアンナに対する遠慮なのか、メアリーはテーブルに向けて視線を送りながら、祈るように両手を重ね合わせる。
「嫌な話題だったらごめんなさい。」
そういったメアリーの気遣いは普段なら気にも留めないだろう。だが、睡眠不足と過労の重なったアンナには苛立ちを助長させるものでしかなかった。
「この状態になって初めてアンナの気持ちが少し理解できた気がする。この先どうしようって思うの。」
メアリーのその一言はアンナの心の堰を決壊させた。




