110 呼び水
「失礼します。アンナです。」
入室を許可する声が聞こえて、アンナはドアノブに手をかける。差し込む隙間から、少しやつれた男性の姿が見えた。
「疲れているところ悪いな。」
そう発言したエルドレンの方が疲れていそうだ。アンナは軽くお辞儀をしてから部屋を見回すと、従者の男性が彼の対面にも紅茶を用意し始めたのが見えた。要はアンナもそこに座れと言うことだろう。
おそらく聞かれることはわかっている。アンナは皇室や王室の人間って面倒よねと内心呟きながら、ふかふかとしたソファに身を預けた。
「お聞きになられたいことがあれば、私の答えられる範囲でなんなりと。」
「そう警戒しないでくれ。」
アンナの少し棘のある言葉に、エルドレンは眉を下げた。彼はメアリーの元婚約者だったと聞く。一度スッツデール帝国の皇帝に嫁いだ元婚約者を助けて、正式にその婚姻を白紙とするために、アンドルー皇帝と協力して城を制圧したのだ。
婚姻の白紙には皇帝の玉璽が必要だが、それは手に入った。だが、仮にメアリーが毒のせいで子が為せないとすれば、彼はメアリーを捨てるのではないだろうか。皇族や王族は純粋に愛だけでやっていけるものではない。
アンナは子どもが望めないとわかった後、婚約者から捨てられた自分の過去を思い出していた。下位貴族ですらそうなのだから、もっと高貴な身分の人間は顕著だろう。ぼんやりしていると正面から声をかけられた。
「メアリーの命は助かったとみていいのだろうか。」
「ええ、それについては保証します。」
「記憶は。」
矢継ぎ早に質問をされるも、本質を突く質問には至らない。アンナもここ数日の介抱の疲れもあってか、少し苛立ちを感じていた。
「過去になぜか封じられた記憶を思い出したようですが、全てを思い出したかはわかりません。」
「そうか……。」
記憶を取り戻したと聞いても、エルドレンの顔はなぜか悲しんでいるように見えた。
「思い出されたくない記憶でもあるのですか。」
アンナが問うと、部屋の置時計の秒針が動く音がする。沈黙は肯定だろう。
そんなことよりも本題に入ってはどうか。不敬かもしれないが、この場を既に立ち去りたくなっていたアンナは核心めいた疑問を投げかける。
「メアリー様へ盛られた毒の影響がどれほどあるかは聞かれなくてよろしいので?」
「命があるならそれでいい。」
エルドレンは顔を逸らした。その頬は少し紅潮しており、皇子として大人びた顔を見せていたところから一転、少年の横顔のように感じられた。
「私がこんなことを申し上げるのも失礼かもしれませんが、シェレンディア帝国は比較的新興国とはいえあなたは大国の第1皇子なのではありませんか。」
側室でも取るから、彼は位の高いメアリーを妻にできればよいということだろうか。ある意味、アンナはそう発言されるのを待っていたのかもしれない。だが、エルドレンは予想外の言葉を口にする。
「世継ぎの心配か?その時はその時だ。何も問題はない。君は知らないかもしれないが、私には弟もいる。正式には婚約者ではないが、相手はいるようだから弟に皇位を譲っても良い。」
「はあ。」
アンナはエルドレンの発言についていけない。この世界の常識から考えれば、彼は突拍子もないことを口にしている。アンナがちらりと隣に控える従者の様子を伺うが、彼もまた驚いた様子がない。
「まあ弟はそういうことを嫌がるから、私が皇帝を継いでもいい。ただ、その場合は弟夫婦の許しを得て、彼らの息子を養子にするだろうな。」
「正気ですか。」
親族の子を養子に取ることはままあるが、それは結婚当初から想定するものではない。絶句するアンナに対して、隣にいた従者が口を挟む。
「シェレンディア王族は難儀なものですから。」
「?」
アンナが首を傾げると、従者が耳で囁いてくる。彼曰く、シェレンディア王族は狂ったようにその妻を愛する傾向にあるらしい。娘が娶られないように、社交の場では同世代の令嬢からは距離を置かれることもしばしばあるのだとか。
それでも狙った令嬢を手に入れ続けられているのは、彼らの美貌が為せる業なのかもしれない。アンナは整ったエルドレンの美しい顔をじっと見て、溜息を吐く。
ああ、メアリーが羨ましいな。美術品のように美しい男性でなくていいから、私も令嬢としての幸せを手に入れたかった。ただ、私は子が為せないという一点だけで、何も手に入れられなかったのに。アンナは自分の心にどす黒い感情が渦巻き始めたことに気づかない振りをした。




