109 涙
自分の知らない記憶が急に頭に流れ込んできて頭が割れるように痛い。メアリーは亜麻色の髪を乱して、枕にこすりつける。こんなにすっぽりと抜け落ちていた記憶があったのに、何故今まで気が付かなかったのだろう。
そうこうしているうちにアンナが額に濡れたタオルを乗せてくれる。それがどこか心地よく、メアリーはうっすらと開けていた瞼を閉じた。それを寝てしまったと思ったようで、そばを離れたアンナとエイダが会話をし始めた。
「メアリー様って、もしかして記憶を失ったことがあるの。」
「ええ。9歳になった頃でしたでしょうか。熱を出した後、急に彼女の兄を含めた同世代の方々の記憶を失ってしまって。」
「特定の期間や特定の人物でもなく?不思議ね。」
アンナは首を傾げる。
「シリル殿下は極度のシスコンだったのに、鳴りを潜めたように大人しくなりました。また、忘れられるのが怖かったのかもしれません。」
「侍女がそんなこと言ってもいいの?」
「今後は頼れる兄上として生きていくと誓ったそうで、メアリー様への口止めはされています。でも、その他の方に言ってはいけないとは言われていませんから。」
「一理あるのかしら。」
シリル兄上がメアリーを溺愛している記憶はなかった。ゲーム内でも彼のキャラクター説明にそんなことは書かれていなかったように思う。だが、新たに流れ込んできた記憶をいくつか引っ張ってきてみれば、その中の兄上はいつでもどこでもメアリーを連れて行っては、膝の上で亜麻色の髪を撫でられた記憶が浮かんできた。
「ちなみにこの毒の影響は?」
エイダが声を潜めてアンナに尋ねる。
「毒の摂取量は多かったけれど、吐かせて、今は解毒薬も飲ませたから命の心配はしなくてもいいわ。ただ、解毒薬の副作用か、封じられていた記憶の扉が開けられてしまったようだけれど。」
「今後メアリー様が生活していくのに影響はないのかしら。」
「体を動かす分にはね。ただ、子どものことは慎重になった方がいいかもしれないわ。マシュベリー様って一度流産して、その後シュレイン様を生んでいるの。そのシュレイン様は年齢に見合わぬ幼さで、それもおそらく毒の影響よね。」
確かにシュレインはエーデルよりはるかに幼く思えた。だが、年齢の割に体が大きいだけで、年の離れた兄弟ではなかったのだろうか。メアリーは聞き耳を立てる。
「だってあの子エーデルの2歳下なのに、いつまでたっても文字は読めない、排泄もしばしば失敗するような子だったと聞いているわ。」
シュレインは8歳だったの?自分の記憶を掘り返してみても、確かにあそこまで幼い行動は繰り返していなかった。メアリーも彼のことはちょっとのんびり屋の5歳児くらいだと勝手に思い込んでいた。
「アンナさん、メアリー様の結婚にも何か影響があるかしら。」
ベッドに沈むメアリーには悪い考えが浮かび、アンナの回答を想像して固唾を飲んだ。
「シェレンディア帝国の第1皇子なら、お世継ぎが必要よね。私はもともと子どもを産めない体だから、参考にはならないかもしれないけれど――」
そんなアンナの言葉は木の扉が開く音に遮られる。
「あれ、メアリーが目覚めたって聞いたんだけど」
「まだお取込み中?」
サラとステラテアの声がする。後ろにはきっとポリーもいるのだろう。
「いえ。一度目覚めたのですが、まだ体調が少し悪いみたいで。」
「もう一晩したらよくなるんじゃないかしら。入ってきてもいいわよ。」
アンナの許可を得て、サラたち一行は部屋にぞろぞろと足を踏み入れる。
「そうだわ。あなた達メアリー様と付き合いが深いのよね。メアリー様が9歳の頃に記憶を失ったきっかけって何か知らないかしら。」
「アンナ様、お2人はそのころのメアリー様とは面識がないのです。」
「あら、そうだったの。何か助けられたらと思ったけど残念ね。」
エイダが補足すると、アンナは引き下がる。だが、そう声をかけられたサラとステラテアは慌てていた。
「今メアリーが14歳なのよね。なら、ゲーム世界でいえば今から5年前……。」
サラとステラテアは顔を見合わせる。
「何か気づいたことがあるの?」
アンナとエイダが2人を凝視するも何も言えない。おそらく世界では、主人公がゲームを始める時期に合わせてメアリーは記憶を失っているのではないかと2人は気づいたが、ゲームのことは彼らには説明できない。
「いえ、ちょっと用事を思い出して。」
「メアリー様も目覚めてないようだし出直すわ。」
2人は息ぴったりに、そそくさと部屋をあとにする。急に静まり返った部屋の中、メアリーは枕に水滴を落としながら、そのまま眠りの海に沈んでいった。




