105 朝陽の差し込む部屋で
最悪だと思った。だが、エルドレンはそれと同時に良かったとも思った。
例の逃避行の一件で、聴取する人間はシェレンディア王族に関する噂を鵜吞みにして、エルドレンを責め立ててきた。自分にとっては慣れたものであったが、隣でその話を聞いていたメアリーには怖いと思われたかもしれない。事実、文通を始めた頃はエルドレンに対する壁が文字から透けていた。
だからある意味、メアリーが自分に対する記憶をなくしてまっさらな状態であるのは好都合だった。それに自分だけでなく、メアリーに婚約を申し込みそうな同年代たちの記憶を失っているので、出発点は皆同じなのだ。
ただ、兄であるシリルのことまで忘れているのは意外だった。妹のことをかわいがっていた彼の逆恨みではないと思いたいが、エルドレンからの婚約の申し込みはどこかで長期間握りつぶされていた。
2年前にメアリーとエルドレンを引き合わせたのはシリルであったが、彼曰く、メアリーから断りを入れさせるためのものであったらしい。エルドレンからの手紙を見た時点では、寝込んでしまったらしいが、直接エルドレンに会ってからは彼女は婚約に乗り気だったらしい。ここは母譲りの顔には感謝しよう。
何度も回り道をして、やっと彼女が自分のもとに来てくれたのだ。過去のことは忘れていても良い。ただただ目を覚ましてほしい。エルドレンはベッドに横たわるメアリーの前髪を撫でると、そのまま彼女の口元に手をかざし、呼吸をしていることを確認する。
朝陽がメアリーの横顔を照らすも、眩しいと彼女が瞼を開く様子はない。エルドレンがメアリーの顔を見つめたままでいると、部屋の扉が開き、背後から女性の声がする。
「まだ、看病されていたのですか。」
アンナはお盆を手に持ち、窓際の脇机にそれを置く。彼女はメアリーの看病を一手に引き受けており、ノックなしに入室することが許されている。
「ああ、眠れなくて。」
「眠った方が良いですよ。メアリー様が起きてきたときに、エルドレン様が倒れていては元も子もないでしょう。」
エルドレンは彼女に窘められて、顔をしかめる。
「あの、僕も入ってよいですか。」
その声に振り向くと、エーデルが扉から顔をひょっこり覗かせる。1週間ほどは自分を除いて、身の回りの世話をする者以外の面会を禁止にしていた。だが、アンナの介抱の成果も相まって、メアリーの容体は少し落ち着いており、あとは彼女本人の治癒力に期待するしかない状態であった。
「いいよ。その代わり君の話をしてくれ。」
「わかりました。」
少し緊張した声色で応えたエーデルは、エルドレンの横に簡易椅子を運んで、そこにちょこんと座る。心配するようにメアリーの顔を覗き込む彼もまた青白い顔をしていた。
「ちゃんと眠って、食べた方がいいぞ。」
エルドレンの言葉に、アンナはもの言いたげにこちらを見つめてきたが、それは無視する。
「僕のせいなんです。メアリー様は危険を冒して僕を助けてくれたのに……。」
エーデルは懺悔室にでも入ったかのように、両手を組み、顔を伏せて言葉を紡ぐ。
「君たちには何があったんだ。」
メアリーの容体を心配してばかりで、エルドレンには自分の周囲以外の状況把握に努める余裕などなかった。だから当然、メアリーたちが向かったサザランカ領で起こったことは何も知らないのだ。
小さくうずくまる少年の背をエルドレンは抱く。エーデルと呼ばれるこの少年は当初から自分を責め立てていた。謎の黒装束の女も急に現れるし、エルドレンにとってあの夜は未だ謎に包まれたままだ。
エーデルがその小さな唇を食み、肩を震わせる。小さな白い細い手は、服の裾を掴んだまま離さない。メアリーの額の汗をぬぐい、その様子を見ていたアンナが口を挟む。
「その話、エーデル様からではなく、私からしてもかまいませんか。」
◇ ◇ ◇
「2人をここから連れ出すだけではいけないの?」
メアリーは塔の上、アンナとシュレインに囲まれていた。
「プリンセスは用心深いのです。」
メアリーの本当の身分を知ったアンナは先ほどまでの荒い言葉遣いから丁寧なものになる。
「マシュベリー皇太后のことよね?知略がお上手なのかしら。」
「昔はそうだったようだけど、今はそれほどではないの。ただ、彼女の言葉を借りれば、『保険は何重にもかけておくべき』というところなのです。」
「心配性ということ?」
メアリーは首を傾げる。
「そうとも言いますね。現に、私がこの領地を離れる場合は教会にいる司祭に告げるよう言われていますから。」
「それは、アンナの行動を把握するため?」
「いいえ、私がここを離れるときはプリンセスを裏切る時か、重大な問題が発生した時くらいでしょう。司祭に連絡をせずにここを離れても、私の姿が見えなければ私が裏切ったと判断してエーデル様は殺されるかもしれませんし、エーデル様を連れて逃げればすぐに追われるでしょう。いずれにしてもエーデル様の身が保障できません。」
アンナはまるで弟をかわいがるかのようにエーデルの頭を撫でる。彼も彼女に懐いているようで、少し恥ずかし気に頬を染めるだけだ。
「失礼だけれど、アンナとエーデルは他人よね。」
「その通りです。ですが昔から、私はこういう子は放っておけなくて……。プリンセスには見透かされているのです。」
アンナは睫毛に影を落とした。窓からは月の光が差し込み、薄暗い室内を照らす。メアリーは彼女の指先に手を伸ばし、重ねるようにその手を掴む。
「それならいい案があるわ!」




