102 幾重もの
「エーデル?何故ここに?」
マシュベリーは大きなその瞳で何度も瞬きを繰り返す。
「母上に会いたくて。」
エーデルのその声色はメアリーが彼と出会ったときのものではなくなっていた。メアリーに背を向ける彼の表情は読み取れないが、何かに取りつかれているように母へと向かっていく。
混乱はしているものの、マシュベリーは抱きとめるようにしようとする。ただ、その手はキリアンに拘束されているので、胸を大きく突き出しただけに過ぎない。
「え?」
その声とともにマシュベリーの瞳は大きく開かれる。遠目からわかるほど、その口からは噴水のように血が吐き出され、呪いのこもった目をエーデルに向けた。
「人殺し。」
「その呪いはもう僕には聞かないよ。現実からもう目は背けたくないんだ。」
エーデルは吐き捨てるようにそう呟く。重力に耐え切れなくなった彼女の体はナイフから抜けて、地面に倒れ伏した。
自分を責め立てた女の何とあっけないことか。エーデルはその塊をじっと見つめていた。
自分だってわかっていたのだ。エーデルから侍医に相談しなくとも、皇帝が口にしているものはきちんと把握されている。ただ、もし自分があんな行動を取らなかったら、父は長生きできていたのかもしれない。母は父を殺していないはずだと思いたかったのかもしれない。そう考えると現実を直視するよりも、母がそうするように、自分で自分を責める方が気が楽だったのだ。
「お兄ちゃん……。」
シュレインは蚊の鳴くような悲痛な声を絞り出す。
「シュレインごめんね。でも、父上の敵は僕が取るべきだから。」
エーデルは言葉が出ないシュレインに畳みかける。
「母上が殺したんだよ、父上を、ウィリアム皇帝を。だから、お前を皇帝にはしてやれない。」
「母上が、僕が皇帝になるべきだって言ってたもん!」
拘束されながらも、シュレインは体を動かす。彼を拘束していた軍人も親にすがろうとする子の行動を哀れに思ったのか、拘束を緩め、彼は母に抱き着いた。それを目の前でじっと見つめるエーデルは体1つ動かさない。
「いいや、シュレイン。お前はマシュベリーの子だから。」
「お兄ちゃんだって一緒じゃん!」
「いや、エーデルは私の子だ。」
エーデルの肩を抱くようにアンドルーがその背から現れる。彼は、虫の息のマシュベリーを見て、ためらいもなく一刺しする。
目の前に現れた銀色の刃にシュレインは後ろに仰け反り、背を打って、下からは湯気の立つ液体を滴らせる。
「死体が突き刺されて、漏らす皇帝は聞いたことがないな。」
アンドルーはシュレインの様子を見て鼻で笑う。
「叔父さん……。」
蝶よ花よと大切に育てられたであろうシュレインは、そんな態度は取られたことがないのか、それ以上の言葉を紡げずにいる。
「死体、とは、ひどい、わね。」
もう動かないかと思われたマシュベリーだったが、這いつくばった姿勢のまま頭だけを少し上げる。
「皇太后、まだお話できたとは光栄です。」
息も絶え絶えのマシュベリーに、満面の笑みのアンドルー。勝者は決まったかに思えた。
「言ったでしょ、保険は、何重にも、かけておく、ものよ、って。」
彼女は渾身の力を振り絞り、エーデルのナイフを奪い取る。
しまった。
アンドルーはエーデルを付き飛ばし、片手を犠牲にする覚悟でその間に割って入った。だが、そのナイフは自分に振り下ろされることなく、シュレインの胸を一突きし、マシュベリー自身の首を掻ききった。
「は?」
アンドルーを含め、その場にいた人間は彼女の行動を理解できない。エーデルという切り札を失ってもなお、マシュベリーとシュレインは修道院送りを望める可能性も残っていたのだ。
「痛いよ。痛いよ。お兄ちゃん、助けて。」
その声はだんだん遠く、小さくなっていく。
メアリーはその凄惨な現場を目にしてしまったせいか、意識が遠くなり始めていた。思わず倒れそうになった彼女を、ラウルが抱きかかえるも、彼女の手は草原の葉を掴む。
物音に振り返ったエルドレンはメアリーの様子に驚いた。王族として多少の耐性があるとは言え、メアリーとかかわりのあった幼子が目の前で亡くなればショックもあるのだろう。そう思い、ラウルに代わって、彼女を腕の中で抱えると違和感があった。
「メアリー?」
前髪を上げると、その額に熱を感じる。ショックを受けたというより、まるでこれは――。
その時、マシュベリーの呪いのような遺言を思い出す。
『保険は、何重にも、かけておく、ものよ、って。』
まさか。
アンナもエルドレンの様子に察したものがあったのか、メアリーの元に駆け寄る。手早く脈をとり、首元に手を当てる。
「急いで解毒しないと。」
「できるか。」
「私が昔、少量盛られた毒だとは思います。ただ、成分が分からないことには何とも。」
アンナは小さく首を振る。
「死人はどうにもできないしな。」
アンドルーは地面の肉塊をボールのように転がす。それはもう魂が抜けたように、力も抜けていた。
「それに、マシュベリーとメアリー様が出会ったのは半日前。本来あの毒は少量で遅効性の作用を出して、毒の症状だと思わせないようにする東方の薬だと聞いたことがあります。」
アンナは診察を続ける。
「私の場合は、自己回復を助ける薬を飲み続けることで、数年をかけてだんだんと良くなりましたが、短時間で症状が出たことを考えると、かなりの量を盛られているかと。私と同じ方法では、命が危ないかもしれません。」
「僕のせいだ……。」
エーデルはポロポロと涙をその頬に伝わせる。
「城にいないと思ったらみんなここにいたのね!」
黒装束の女が突然現れる。
「ポリーさん、大変なのよ!」
「え?」
ポリーは顔にかかった黒いチュールを上げながら、ふよふよとアンナに近づく。
「作戦は今日って聞いたから、アンナの身代わり役は今晩まででいいかと思ってサザランカ領を出てきちゃったんだけど何かまずかった?」
「いいえ、エーデルたちも合流できたし、そのことは感謝しているわ。」
「じゃあなに?」
アンナはそれに答えることなく、メアリーを指さす。そこにはエルドレンの腕に抱えられたまま、ぐったりとしている。
「メアリー!?」
ポリーは叫び声を上げて、メアリーの元に駆け寄るも、エルドレンたちシェレンディアの人間にはポリーの姿も声もわからない。周りの人間の様子から、何者かがそこにいるのだろうことはわかっても、皆点でバラバラな方向に足を向けている。
「あ、そっか。」
ポリーが手を叩くと、急に現れた女性にエルドレンが後ろにたじろぐ。
「あら、こんにちわ。」
ポリーが声をかけるも、彼はなお黙ったままだ。それは彼女の急な出現に腰が抜けた訳ではない。透けていない彼女はメアリーに瓜二つだったからだ。




