第7話 南の声
それは南の声だった。
発音が違う。
語尾が違う。
息の置き方が違う。
俺が軍で聞かされた南の放送音声よりも速く、軽く、そして生きていた。
だが、朝鮮語だった。
俺の言葉に、彼女は反応した。
彼女の言葉に、俺の身体は反応した。
それだけは否定できなかった。
運河沿いの黒い水が揺れている。
灰鼠の死体から流れた血が、水面の油膜に混ざり、赤黒く広がっていた。
女は投げナイフを拾い、布で拭いた。
動きは素人ではない。
ただし、軍人ではない。
重心が軽い。逃げる方向を常に残している。敵を殺すための動きというより、舞台の上で倒れずに見せるための身体の使い方に近い。
足首が柔らかい。肩に余計な力がない。視線がよく動く。
俺は短刀を下げなかった。
彼女も、ナイフを完全にはしまわなかった。
ハルが俺たちを見比べた。
「今、何語だ?」
ソユンはハルに向き直り、英語で答えた。
「私の故郷の言葉です。彼もたぶん、同じあたりの人」
「同じあたり?」
ハルは俺を見る。
「ソック、お前、知り合いじゃないのか」
「違う」
俺も英語で言った。
ソユンも同時に言った。
「違います」
ハルは眉を上げた。
「仲が悪い知り合いに見える」
「違うと言った」
ソユンが俺を睨んだ。
「ちょっと。韓国語じゃないと余計に怖いんだけど」
「怖がらせるつもりはない」
「その顔で?」
彼女はそう言ったが、目は笑っていなかった。
俺を観察している。
軍服。
靴。
手。
背中の布巻き。
腰の短刀。
言葉。
発音。
俺が彼女を測っているように、彼女も俺を測っていた。
ハン・ソユン。
釜山出身。
アイドル練習生。
階級なし。
その三つの情報は、俺の中でうまく並ばなかった。
釜山。南。敵性地域。
アイドル。宣伝芸能。大衆操作。
練習生。軍属ではない。
階級なし。民間人。
だが、彼女は投げナイフで灰鼠を殺した。
民間人の動きではない。
「なぜここにいた」
俺は朝鮮語で聞いた。
ソユンは一瞬、ハルたちを見る。
彼らには俺たちの言葉がわからない。
それを確認してから、彼女は答えた。
「運河沿いの酒場で歌ってるの。昼は荷役人とか倉庫番相手に一曲歌うことがある。今日はその店に行く途中」
「酒場」
「そう。夜だけじゃ食べていけないから。昼は使い走りもする。伝票を届けたり、客を呼びに行ったり、酔っ払いを避けたり」
彼女は灰鼠の死体を見た。
「この道は近いけど、最近は鼠が出るから嫌だった。まさか本当に飛びかかられるとは思わなかったけど」
「この倉庫の依頼を知っていたのか」
「少しだけ。酒場に来る荷役人が愚痴ってた。鼠が増えた、倉庫番が金を出したがらない、って」
それで、倉庫番長の嫌がる点を読めたのか。
俺は彼女を見た。
先ほどの倉庫番長との立ち回りは、短い期間で覚えたというより、数か月かけてこの街の嫌な匂いを吸った者の動きのように見えた。
「お前は、ここにどれくらいいる」
俺は聞いた。
ソユンは少しだけ口を結んだ。
「三か月くらい」
「三か月」
「正確な日付はわからない。こっちの暦、まだ完全には読めないから。でも、季節が少し変わったくらいはいる
「どこから来た」
「だから釜山。正確には、その時はソウル。練習室」
「所属事務所は」
「それ聞く?」
「身元確認だ」
「最悪」
彼女は額に手を当てた。
「所属事務所を言ったら、あんたわかるの?」
「わからない可能性が高い」
「じゃあ聞かないでよ」
「確認項目だ」
「軍人って全部そうなの?」
俺は答えなかった。
その沈黙で、彼女は何かを理解したらしい。
顔から苛立ちが少し消え、代わりに別の警戒が出た。
「本当に北の軍人なの?」
「朝鮮人民軍」
「うわ……」
「うわ、とは何だ」
「いや、だって、現物初めて見たから」
現物。
俺は眉を動かした。
彼女はすぐに両手を少し上げた。
「悪口じゃない。いや、半分くらい悪口かもしれないけど。とにかく、私は軍人じゃない。工作員でもない。スパイでもない。練習生。歌って踊る方」
「なぜ武器を使える」
「この世界で覚えた」
「三か月でか」
「死にたくなかったから」
その答えは短かった。
俺は彼女の手を見た。
指に小さな傷がある。
爪は短く切られている。手の甲には新しい擦り傷。
前世からの武器訓練ではない。
こちらへ来てから、急に身につけた痕跡だ。
彼女は軍人ではない。
だが、弱くもない。
ソユンは俺の視線に気づいた。
「何?」
「手を見ていた」
「普通に気持ち悪い」
「怪我の種類を確認した」
「もっと気持ち悪い」
彼女はナイフを腰に戻した。
「で、あんたはいつ来たの」
「昨日」
ソユンの顔が変わった。
「昨日?」
「ああ」
「昨日来て、もうギルド登録して、灰鼠狩ってるの?」
「登録は今朝だ」
「早すぎるでしょ」
「飯がない」
彼女は口を閉じた。
その言葉は、この街では説明になるらしい。
ハルがしびれを切らした。
「おい、二人だけで話すな。何がどうなってる?」
ソユンは現地語に戻った。
「彼、私と同じ故郷の言葉を話します。でも知り合いではありません」
ハルは俺を見た。
「なんだ、同じ故郷のやつなのか」
俺は、即座に否定する。
「違う」
「どういうことだ?」
俺は答えようとして、やめた。
説明に時間がかかる。
そして今、ここはまだ依頼中だ。
倉庫番長が遠くでこちらを見ている。
追加報酬の話もまだ終わっていない。
繁殖母の証拠も提出しなければならない。
周囲には鼠の穴が残っている。
ソユンも同じことに気づいたようだった。
彼女は倉庫番長を見て、顔を切り替えた。
ほんの一瞬だった。
苛立ち、警戒、疲労。
それらを全部、表情の奥へ押し込む。
代わりに、柔らかい笑顔が出てきた。
俺はその変化を見た。
速い。
訓練された顔だ。
軍の政治将校が演説前に作る顔とも違う。
酒場女が客へ向ける笑顔とも違う。
もっと精密で、相手が何を見たいかを先に読んでいる。
ソユンは倉庫番長へ歩いていった。
「失礼します」
英語だった。
発音にはまだ異国の癖がある。
だが、声は明るい。聞き取りやすい。
倉庫番長が少し戸惑う。
「何だ」
「今回の依頼、危険度一で出されていましたよね」
「それがどうした」
「でも、繁殖母がいました。灰鼠も三から五ではなく、少なくとも八。倉庫内の薬品樽の付近に巣がありました。荷を守るためにも、ここで追加報酬に同意しておいた方が早いと思います」
倉庫番長は鼻で笑った。
「君は誰だ。依頼参加者ではないだろう」
「通りがかりです」
「なら口を出すな」
「はい。本来ならそうです」
ソユンは一度、素直に頷いた。
そのため、倉庫番長は次の言葉を失った。
彼女は続けた。
「ただ、私はさっき灰鼠を一匹処理しました。つまり、倉庫の外にまで被害が出ていました。もしこのことがギルドに伝わると、依頼範囲の設定ミスだけでなく、周辺通行人への危険放置として扱われるかもしれません」
倉庫番長の顔色が変わった。
わずかに。
ソユンはその変化を見逃さなかった。
「もちろん、そんな面倒な話にしたいわけではありません。皆さん忙しいですし、荷の積み替えも遅れます。だから、ここで追加報酬を少し上乗せして、繁殖母の処理完了、外部被害なし、という形で記録した方が、全員にとってきれいだと思います」
倉庫番長が黙った。
ハルが小声で言った。
「何だ、あれ」
俺は答えた。
「交戦中だ」
「誰と?」
「あの男と」
「笑ってるぞ」
「だからだ」
ソユンは笑っていた。
だが、俺にはわかった。
あれは笑顔ではない。
武器だ。
倉庫番長は唇を曲げた。
「追加で銅貨五枚」
ハルが怒鳴りかけた。
ソユンが先に言った。
「十枚」
「五枚だ」
「では、外部被害の件もギルドで確認してもらいましょう」
「七枚」
「十枚。あと、薬品樽周辺の鼠穴封鎖は別依頼にした方がいいです。このままだと再発します」
「君は商会の者か?」
「いいえ」
「ならなぜそんなことを」
「再発したら、また誰かが安い報酬で呼ばれるからです」
倉庫番長は黙った。
その沈黙は短かったが、負けを認める沈黙だった。
「……銅貨十枚。今回限りだ」
「ありがとうございます」
ソユンは軽く頭を下げた。
倉庫番長は不機嫌そうに去っていった。
ハルは口を開けていた。
「お前、何者だ」
ソユンは肩をすくめた。
「三か月、酒場で歌ってると、嫌な客への対応を覚えるんです」
「歌で追加報酬を取れるのか?」
「歌じゃないです。相手が何を嫌がるかを見るんです」
俺は彼女を見た。
相手が何を嫌がるかを見る。
狙撃と似ている。
ただし、狙う場所が違う。
*
追加報酬は、すぐには支払われなかった。
倉庫番長は「ギルド経由」と言い残した。
つまり、まだ揉める余地がある。
それでもハルは、さっきまでより少しだけ顔色が良かった。
「銅貨十枚は大きい」
彼はそう言った。
「まだ受け取っていない」
俺が言うと、ハルは苦笑した。
「それでも、取れる可能性ができた」
ニックはソユンへ近づいた。
「助かった」
「私も灰鼠に飛びかかられたので、半分自分のためです」
「それでも助かった」
ニックは少し照れたように言った。
ソユンは笑った。
今度の笑顔は、さっきより少し本物に近かった。
俺はその違いを覚えた。
営業用の笑顔。
警戒の笑顔。
少しだけ本物の笑顔。
顔が多い。
この女は、いくつもの顔を持っている。
兵士なら危険だ。
民間人なら、生き延びるための技術だ。
分類はまだできない。
ハルが言った。
「ギルドへ戻る。ソユン、お前も来るか?」
「行きます。どうせ報酬の話になるなら、私がいた方が早いでしょ」
ハルは俺を見た。
「ソック、いいか?」
「俺に聞くな」
「いや、二人、同郷なんだろ」
「同郷ではない」
ソユンも言った。
「かなり違います」
ハルは首を傾げた。
「同じ言葉なのに?」
ソユンは少し困った顔をした。
「同じ言葉だから、余計に違うんです」
ハルはますますわからないという顔をした。
俺は少しだけ、その説明を認めた。
同じ言葉だから、違いが見える。
北と南。
同じ単語を使っても、背後にあるものが違う。
祖国。
自由。
人民。
国家。
夢。
仕事。
食べ物。
歌。
おそらく、全部違う。
*
ギルドへ戻る道で、ソユンは俺の横を歩いた。
ハルとニックは少し前にいる。
ハルは追加報酬の証拠についてニックと話している。
ニックは繁殖母の牙を布に包みながら、何度も「危険度一じゃない」と呟いていた。
ソユンは小声で朝鮮語に戻した。
「さっき、所属とか階級とか聞いたの、本気?」
「本気だ」
「本当に軍人なんだ」
「ああ」
「いつの北?」
俺は彼女を見た。
「いつ、とは何だ」
「私が来た時代と、あんたがいた時代、たぶん違う」
「なぜそう思う」
「だって、戦争の話をしてる顔だった」
俺はすぐには答えなかった。
彼女の目は、こちらを観察していた。
舞台の上で客の空気を読む者の目。
酒場で酔客の機嫌を読む者の目。
そして、何かを怖がっている者の目。
「私がいた時は、戦争なんて起きてなかった」
ソユンは言った。
「緊張はあったけど、ニュースでミサイルがどうとか、軍事演習がどうとか、そういうのはあったけど。でも、ソウルでは普通に地下鉄が動いて、コンビニがあって、みんな練習して、スマホ見て、オーディション受けて……」
彼女は言葉を切った。
「私が知らないだけで、あの後に何か起きたの?」
俺は答えなかった。
答えるべきか判断する。
彼女が南の人間であることは確かだ。
俺の時代において、敵性地域の出身者。
だが、彼女の記憶ではまだ戦争が来ていない。
同じ世界。
だが、違う時点。
それなら説明はつく。
俺は言った。
「俺がいた時、戦争は起きていた」
ソユンは立ち止まりかけた。
「本当に?」
「ああ」
「南と北で?」
「ああ」
彼女の顔から血の気が引いた。
先ほど倉庫番長と交渉した女と同じ人物には見えなかった。
「私がいた時は、戦争なんて起きてなかった」
「お前は三か月前に来たと言ったな」
「うん、たぶん」
「なら、お前は知らない」
ソユンの足が少し遅れた。
「何を」
「戦争は、その後に始まった」
彼女の顔からまた色が引いた。
ソユンは震える声で俺に聞き直した。
「本当に?」
「ああ」
「いつ?」
「正確な日付をここで言っても意味はない。だが、お前が消えたという三か月前より後だ。俺が前線に入ったのは、開戦からそう長く経っていない時期だった」
「南と北で?」
「そうだ」
ソユンは唇を押さえた。
「ソウルは」
「まだ落ちていない」
彼女の目が揺れた。
「本当に?」
「俺が知る限りでは」
「釜山は」
「落ちていない」
ソユンは息を吐いた。
それが安堵なのか、まだ続く恐怖なのかはわからなかった。
俺は続けた。
「人民軍は、東側のいくつかの地域を制圧した。だが、主戦線は議政府付近で止まっていた。進撃はそこで鈍った。俺の部隊も、その周辺にいた」
「議政府……」
ソユンはその地名を、現実のものとして受け取ったようだった。
「じゃあ、ソウルのすぐ北じゃん」
「ああ」
「そんな近くまで」
彼女は歩きながら、何かを探すように黒い運河を見た。
「じゃあ、私の家族は」
「知らない」
「釜山は落ちてないんでしょ」
「俺の知る範囲では」
「それ、安心していいのか、全然わかんない」
「戦場で確実な情報は少ない」
「そういう言い方、嫌い」
「事実だ」
ソユンは何かを言い返しかけて、やめた。
しばらく沈黙が続いた。
それから彼女は、急にこちらを見た。
「確認させて」
「何を」
「北の最高指導者の名前」
俺は警戒した。
彼女は早口で続けた。
「同じ世界かどうか確認したいだけ。歴史とか、ニュースとか、そこが違ったら、ただの似た別世界かもしれないでしょ」
理屈はわかる。
俺は短く答えた。
「金潤宰同志」
ソユンの表情が変わった。
「……キム・ユンジェ」
彼女はその名を、南の発音で言った。
「じゃあ、韓国の大統領は」
「鄭民錫」
「チョン・ミンソク」
彼女の声が震えた。
「同じだ」
俺は彼女を見た。
「お前の時もか」
「うん。ニュースで見てた。支持率がどうとか、会見がどうとか、そういう話。三か月前の私の世界でも、その二人だった」
ソユンは小さく笑った。
だが、その笑いは明るくなかった。
「最悪。ちゃんと同じ世界なんだ」
同じ世界。
違う時点。
その考えが、俺の中でも少しだけ重くなった。
俺だけが別の世界へ飛ばされたのではない。
彼女も同じ世界から来た。
ただし、彼女は戦争の前から来た。
俺が知っている戦争を、彼女はまだ知らない。
それは奇妙だった。
敵性地域の女。
だが、俺の戦争をまだ経験していない女。
分類がまた一つ難しくなった。
俺は話題を変えた。
「なぜナイフを投げられる」
ソユンは少しだけ目を細めた。
「この世界で覚えたって言ったでしょ」
「三か月で、あの精度は不自然だ。軍事訓練を受けていてもそうそうできるものじゃない」
「別に全部こっちで覚えたわけじゃない」
彼女は腰のナイフに触れた。
「小さい頃からダーツをやってた。趣味だけど、本気で。釜山にいた時、父さんと店で投げてた。中学の頃には大会にも出た。狙って、呼吸して、指を離す。中心を見る。周りの音を消す。そういうのは昔からできた」
ダーツ。
小さな矢を、的へ投げる遊戯。
だが、彼女の説明は遊戯ではなかった。
狙う。
呼吸する。
指を離す。
中心を見る。
音を消す。
銃にも通じる。
俺は言った。
「投げる武器を覚える土台はあったということか」
「そう。ナイフそのものは、こっちに来てから。最初は全然刺さらなかった。手も切ったし、お世話になってる店の壁に穴を開けて怒られた。でも、的を見るのは慣れてた」
「動く標的は違う」
「それも覚えた。死にたくなかったから」
またその言葉だった。
死にたくなかったから。
生きるため。
軍事訓練ではない。
思想教育でもない。
だが、生存への圧力は、人を早く変える。
「ここに来た理由はわかるか」
「わからない。練習室で倒れた。気づいたら、こっちの路地裏。服もそのまま。スマホは動かなかった。充電切れて、終わり。最初の二日は、死ぬかと思った」
「誰かに拾われたのか」
「酒場のおばさんに。歌えるなら皿洗いより客を取れるって言われて」
「歌ったのか」
「歌った。知らない言葉の歌を、知ってるふりして」
「意味は」
「最初は全然。でも、拍手する場所とか、笑う場所とか、そういうのはわかる」
彼女は少しだけ肩をすくめた。
「見られる仕事だったから」
見られる仕事。
それは軍人とは違う。
俺たちも見られる。
式典、演説、報告写真、宣伝映像。
だが、兵士は見られるために生きているわけではない。
少なくとも、そう教えられている。
「アイドル練習生とは、軍事宣伝員か」
ソユンは本気で嫌そうな顔をした。
「違う。全然違う。いや、少し似てるところがあるのが嫌だけど、違う」
「歌って踊るのだろう」
「そうだけど、それだけじゃない。練習して、評価されて、落とされて、また練習して、痩せろって言われて、笑えって言われて、泣くなって言われて、ファンの前では完璧に見せて……」
彼女は言葉を止めた。
「中学を卒業してから、ほとんどそればっかりだった。ソウルに出て、事務所に入って、六年半。学校より練習室の方が長かった」
「六年半」
「長いでしょ」
「軍務としては短い」
「比べるな」
彼女は即座に言った。
「でも、私には長かった。十代のほとんどをそれに使った。友達と遊ぶ時間も、普通に寝る時間も、食べたいものを食べる時間も、全部削って」
「なぜそこまでやる」
「ステージに立ちたかったから」
「くだらない」
言った瞬間、ソユンの顔が変わった。
先ほどまでの恐怖が消え、鋭い怒りが出た。
「何それ」
俺は黙った。
「今、くだらないって言った?」
「言った」
「六年半やってきたことを?」
「軍事的価値は低い」
「軍事的価値?」
彼女は笑った。
笑いではなかった。
「ほんと最悪。人の人生を全部、軍事的価値で見るんだ」
「戦場では必要だ」
「ここ、戦場なの?」
俺は答えようとして、止まった。
この街は戦場に似ている。
だが、戦場ではない。
少なくとも、俺の知る戦場ではない。
ソユンは続けた。
「私は歌いたかっただけ。誰かに見てもらいたかっただけ。ステージに立ちたかっただけ。それがあんたにとってくだらないなら、別にいい。でも、私にはそれしかなかった」
声が震えていた。
怒りだけではない。
もっと深いもの。
失ったものの話だ。
俺は言葉を探した。
謝罪。
軍ではあまり使わない言葉だ。
使うことはある。だが、上官として、部下として、形式がある。
ここには形式がない。
「理解できない」
俺は言った。
ソユンは冷たい目でこちらを見た。
「でしょうね」
「だが、くだらないと断定するだけの情報はない」
彼女は一瞬黙った。
「それ、謝ってるの?」
「訂正している」
「謝罪じゃなくて?」
「訂正だ」
「最悪」
彼女はそう言った。
だが、さっきより怒りは少しだけ弱くなっていた。
「でも、訂正は受け取る」
俺は頷いた。
よくわからないが、交渉は成立したらしい。
*
ギルドが見えてきた。
剣と帳簿の紋章。
石造りの大きな建物。
人が出入りし、負傷者が運ばれ、依頼票が貼られ、報酬が支払われ、死亡処理が行われる場所。
ソユンはその建物を見て、少し顔をしかめた。
「ここ、嫌い」
「俺もだ」
彼女がこちらを見た。
「そこは意見合うんだ」
「帳簿が多い」
「それだけ?」
「死者より先に書類が動く」
ソユンは黙った。
しばらくして言った。
「こっち来て三週間だけど、それはわかる」
ハルが振り返った。
「おい、二人とも。報酬の話、頼むぞ」
ソユンは現地語に戻った。
「はい。追加報酬、十枚で話を通します」
俺は言った。
「倉庫番長は合意したが、ギルドでは否認する可能性がある」
「だから、彼が『今回限り』と言ったことを証言します」
「証人は」
「私。あなた。ハルさん。ニックさん」
「口頭だけでは弱い」
「じゃあ、受付で『彼がそう言った』と先に書かせる。あと、繁殖母の証拠を出す」
ソユンは考えるのが早い。
文章や記録に対する感覚がある。
現地語の読み書きも、完全ではないが俺より上だ。
「お前は文字が読めるのか」
「少し。メニューと依頼票と歌詞から覚えた」
「三か月でか」
「生きるため」
またその言葉だった。
死にたくなかったから。
生きるため。
軍事訓練ではない。
思想教育でもない。
だが、生存への圧力は、人を早く変える。
ギルドの扉の前で、ソユンは一度深く息を吸った。
それから、顔を変えた。
また笑顔。
今度は、受付用の顔だ。
俺はその横顔を見た。
南の女。
アイドル練習生。
酒場の歌い手。
投げナイフを覚えた生存者。
同じ世界の、俺より過去から来た者。
敵ではない。
そう断定するには、まだ早い。
味方でもない。
そう呼ぶには、さらに早い。
だが、分類不能のまま隣を歩く人間がいることを、俺は初めて経験していた。
ギルドの扉が開く。
中からインクと血と古い紙の匂いが流れてくる。
ソユンが小さく、朝鮮語で言った。
「行くよ、北の軍人さん」
俺は答えた。
「命令するな、南の練習生」
彼女は少しだけ笑った。
今度は、たぶん本物だった。




