第6話 運河倉庫
運河沿いの倉庫街は、ブラックミアの腹の下にあった。
表通りの煙突や酒場やギルドの広間が、この街の顔だとすれば、運河倉庫は胃袋だ。
石炭。
魔石炭。
濡れた木箱。
鉄材。
小麦袋。
薬品樽。
破れた布。
腐った魚。
鼠。
人間。
すべてがそこに運ばれ、積まれ、濡れ、腐り、また別の場所へ運ばれていく。
運河の水は黒かった。
水というより、薄い油に近い。
表面には虹色の膜が浮き、時々、下から泡が上がる。
その泡が弾けると、甘く腐った匂いがした。
ハルが鼻を覆った。
「いつ来ても最悪だな」
ニックが言った。
「慣れれば少しましになる」
「慣れたくない」
俺は周囲を見た。
倉庫は横に長い。
煉瓦壁。
高い窓。
出入口は正面に大扉、側面に小扉、裏手は運河へ続く荷下ろし口。
屋根の一部が壊れ、そこから細い光が落ちている。
遮蔽物は多い。
視界は悪い。
音が反響する。
敵が小型なら、床下や荷物の隙間へ逃げ込む。
依頼票には、小型灰鼠三から五、とあった。
俺はそれを信じていなかった。
信じる理由がない。
「依頼主は」
俺が聞くと、ハルは倉庫の入口に立つ太った男を顎で示した。
上等な外套。
泥のついていない靴。
腹の前で組んだ手。
こちらを見る目には、急いでいる者の苛立ちと、安く済ませたい者の計算があった。
「倉庫番長だ。商会の下働きみたいなもんだが、俺たちよりはずっと上だと思ってる」
倉庫番長は近づいてきた。
「遅い」
ハルが答えた。
「依頼時刻には間に合ってる」
「荷の積み替えが遅れている。灰鼠ごときに半日使われては困る」
「なら報酬を上げろ」
「危険度一だ。相場通りだ」
ハルは舌打ちした。
「中を確認する。追加がいれば追加報酬だ」
「依頼票には灰鼠三から五と書いてある」
「だから、それ以上いたら追加だ」
「証明できればな」
倉庫番長はそう言った。
ハルの頬が動いた。
殴りたいのをこらえた顔だ。
俺は倉庫番長を見た。
彼は敵ではない。
少なくとも、武器を持っていない。
だが、危険をこちらへ押し出し、費用を抑えようとしている。
この街では、そういう者も敵に似た働きをする。
俺は言った。
「中の構造図は」
倉庫番長は俺を見た。
「何だって?」
「内部の配置。荷の位置。床下。穴。水路への出口」
「そんなものはない」
「ないのか、出したくないのか」
倉庫番長の顔が歪んだ。
「何者だ、お前は」
ハルが割り込んだ。
「新入りだ。口は悪いが、役には立つ」
「登録証は」
俺は銅板を見せた。
倉庫番長はそれを見て、鼻で笑った。
「仮登録か」
その言い方を、俺は覚えた。
この街では、登録の種類で人間の重さが変わる。
仮登録。
銅級。
銀級。
金級。
未登録。
階級に似ている。
だが、国家ではなく市場が与える階級だ。
ハルが言った。
「さっさと鍵を開けろ」
倉庫番長は鍵束を取り出した。
「荷に傷をつけるな。薬品樽には近づくな。床板を壊したら弁償だ」
「灰鼠に言え」
「君たちに言っている」
大扉が開いた。
中から冷たい空気が漏れた。
湿気。
獣臭。
腐った穀物。
薬品。
それから、小さな爪が木を掻く音。
俺は短刀の位置を確認した。
弓は持っている。
だが、倉庫の中では扱いにくい。
射線が短い。荷物が多い。味方との距離も近い。
銃は使わない。
弾が惜しい。
音も大きい。
何より、この程度の依頼で見せる武器ではない。
短刀が最適だった。
*
倉庫の中は薄暗かった。
高い窓から灰色の光が落ちている。
床には水が溜まり、ところどころに藁と粉が散っていた。
木箱が積まれ、布袋が崩れ、樽が列を作っている。
音が多い。
水滴。
木材の軋み。
遠くの運河の波。
鼠の足音。
ニックの呼吸。
ハルの革鎧の擦れる音。
俺は手で二人を止めた。
ハルが小声で言う。
「何だ」
「三から五ではない」
ニックの顔が引きつった。
「わかるのか」
「音が多い」
床下。
左の穀物袋の裏。
右の樽の陰。
天井近くの梁。
複数。
灰鼠。
名前は鼠だが、普通の鼠ではないだろう。
俺は短刀を抜いた。
ハルも短剣を抜く。
ニックは弓を構えた。
倉庫の奥で、袋が破れた。
灰色の影が飛び出す。
大きい。
猫ほどの鼠。
背中には硬い毛があり、目は黄色く光っている。
口元から泡を垂らし、前歯は短刀の刃のように伸びている。
灰鼠。
小型魔物という分類は、間違いではない。
だが、軽く見るべき相手でもない。
一匹目がハルへ跳んだ。
ハルは短剣で払った。
動きは悪くない。
だが、昨日の疲れが残っている。踏み込みが浅い。
灰鼠は短剣を避け、床に落ち、すぐに反転した。
ニックが矢を放つ。
外れた。
矢は木箱に刺さる。
「くそっ」
狭い場所で、小さく速い標的に弓は向かない。
俺は一歩横へ動いた。
灰鼠の動きを見る。
直線ではない。
跳ぶ前に背中が沈む。
左へ逃げる癖。
床の水を嫌う。
袋の上を使う。
二匹目が俺の足元へ来た。
俺は蹴らなかった。
蹴れば噛まれる。
踏めば滑る。
右足を半歩引き、短刀を下へ落とす。
刺すのではない。
通り道へ刃を置く。
灰鼠は自分の速度で刃に入った。
手応え。
軽い。
だが、骨に当たる感覚はあった。
灰鼠が暴れる前に、俺は柄をひねり、床へ押さえた。
終わり。
一匹。
ハルが口笛を吹きかけたが、すぐに次へ向き直った。
三匹目、四匹目。
いや、もっといる。
「八以上」
俺は言った。
ハルが悪態をついた。
「依頼票の倍じゃねえか!」
倉庫の奥で、木箱が倒れた。
灰鼠が一斉に散る。
ニックが後退する。
「まずい、梁にもいる!」
上を見る。
梁の上を二匹が走っていた。
落ちてくる。
俺はハルを押した。
「右」
「何――」
灰鼠が落下した。
俺が押さなければ、ハルの首筋に食いついていた。
落ちた灰鼠が床を跳ねる。
俺は短刀を逆手に持ち替え、左腕で外套を巻き込むようにして受けた。
灰鼠の歯が外套に食い込む。
噛む力が強い。
革手袋がなければ皮膚までいった。
俺は腕を引かず、逆に前へ出た。
噛みついた獣は、自分の歯で固定される。
その瞬間だけ、動きが止まる。
短刀を首元へ入れる。
二匹目。
血が外套に飛んだ。
ハルが叫ぶ。
「後ろ!」
俺は振り返らなかった。
声の方向、ハルの目線、床の音。
背後から来る灰鼠は、俺ではなくニックを狙っていた。
ニックは矢を番える余裕がない。
弓を盾のように構えている。
俺は短刀を投げなかった。
投げれば武器を失う。
代わりに、足元の木片を蹴った。
木片は灰鼠の進路に入った。
灰鼠は跳び越えようとして、ほんの少し軌道が浮く。
その瞬間、ハルが横から短剣を入れた。
灰鼠が床に叩きつけられる。
「今の、狙ったのか!」
ハルが叫ぶ。
「当然だ」
「言え!」
「言う時間はなかった」
ニックが息を荒げながら笑った。
「今ので死ぬかと思った」
「笑うな。まだいる」
俺は言った。
倉庫の奥、薬品樽の近くで、低い音がした。
大きい。
灰鼠ではない。
袋の山が動いた。
その下から、灰色の塊が出てきた。
犬ほどの大きさ。
皮膚は灰色で、背に黒い斑点。
目が三つある。
口の周りに小さな鼠がまとわりついている。
ハルの顔色が変わった。
「繁殖母だ」
依頼票にはない。
危険度一ではない。
繁殖母は体を低くし、喉を鳴らした。
灰鼠たちが一斉に動きを変える。
散っていたものが、こちらを囲むように動き始めた。
指揮。
ただの獣ではない。
いや、獣でも群れれば指揮に似た動きをする。
俺は周囲を見た。
正面に繁殖母。
左右に灰鼠。
後ろに荷物。
ニックは弓を使いにくい位置。
ハルは前に出すぎると囲まれる。
銃は使わない。
だが、使わなければ厳しいか。
俺は腰の短刀を握り直した。
拳銃は内懐にある。
使えば終わる可能性は高い。
だが、音。弾。目撃者。依頼主。ギルド。
代償が大きい。
ここでは使わない。
「ニック、上へ」
俺は言った。
「上?」
「箱の上。高所を取れ」
「そんな暇――」
「行け」
声に命令が混ざった。
ニックは反射で動いた。
ハルが俺を見る。
「俺は?」
「左を塞げ。倒すな。止めろ」
「倒すな?」
「止めればいい」
ハルは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに理解した。
「お前が母をやるのか」
「ああ」
「噛まれるなよ」
「努力する」
繁殖母が動いた。
速さは灰鼠ほどではない。
だが、重い。
低い姿勢から突進してくる。
俺は正面から受けなかった。
横へ逃げる。
繁殖母は向きを変える。
体が重い分、回転が遅い。
そこへ短刀を入れる。
浅い。
皮膚が硬い。
脂肪と筋肉が厚い。
急所まで届かない。
繁殖母が振り向く。
尾が飛んできた。
俺は腕で受けず、身を低くした。
尾が頭上を通る。
風圧が髪を揺らす。
灰鼠が一匹、足元へ来る。
ハルが止めた。
彼は言われた通り、倒すのではなく足止めに徹している。
短剣で払う。蹴らない。踏み込まない。
囲まれないためだ。
ニックが箱の上から矢を放った。
繁殖母の背に刺さる。
浅い。
だが、注意が逸れる。
俺はその瞬間に前へ出た。
短刀では足りない。
俺は繁殖母の頭を狙わなかった。
首も厚い。
腹も低すぎる。
脚。
前脚の腱。
動物は、脚を失えば重さを支えられない。
俺は短刀を低く走らせた。
硬い毛。
皮膚。
筋。
手応えが変わる。
繁殖母が叫んだ。
前脚が崩れる。
巨体が前へ落ちた。
俺は下がった。
灰鼠が混乱する。
指揮が乱れた。
「今だ!」
ハルが叫んだ。
ニックが矢を放つ。
今度は繁殖母の目の一つに刺さった。
繁殖母が暴れる。
俺は横へ回った。
危険だ。
暴れる獣は、狙っていなくても人を殺す。
だが、ここで逃げると立て直される。
俺は短刀を両手で握り、繁殖母の顎下へ入った。
近い。
獣臭。
血。
腐った乳のような匂い。
喉元の柔らかい部分を探す。
短刀を押し込む。
刃が入った。
繁殖母が跳ねた。
俺の肩に衝撃が来る。
肘が痺れる。
だが、手は離さない。
さらに押し込む。
ひねる。
血が噴いた。
繁殖母の体が大きく震え、床に崩れた。
灰鼠たちは一瞬止まった。
その一瞬で、ハルとニックが残りを追い払った。
何匹かは穴へ逃げた。
何匹かは床に転がった。
倉庫は静かになった。
水滴の音が戻る。
ニックが箱の上で座り込んだ。
「……危険度一?」
ハルが笑った。
「一だな。ギルドの帳簿の中では」
俺は繁殖母から短刀を抜いた。
刃が汚れている。
手袋も外套も血と粘液で濡れていた。
肩に痛みがある。
打撲。
折れてはいない。
俺は息を整えた。
白兵戦は銃より近い。
相手の匂いがする。
血の温度がわかる。
死ぬ瞬間の重さが腕に残る。
狙撃とは別の疲労がある。
だが、弾は減らなかった。
それは重要だった。
*
倉庫番長は、繁殖母を見ると顔をしかめた。
「これは……灰鼠の大型個体だろう」
ハルが一歩前へ出た。
「繁殖母だ」
「証明は?」
「見りゃわかるだろ!」
「私は専門家ではない。追加報酬はギルドの確認後だ」
ハルの拳が握られた。
俺は繁殖母の耳の後ろから黒い斑点のある皮膚を切り取った。
それから、牙と目の一部を布に包んだ。
倉庫番長が顔をしかめる。
「床を汚すな」
ハルが怒鳴りかけた。
俺は先に言った。
「灰鼠三から五ではなかった」
「ギルドへ申請すればいい」
「お前は知っていたのか」
倉庫番長の目がわずかに動いた。
一瞬。
だが、十分だった。
俺は言った。
「知っていたな」
「失礼な」
「小型の被害なら、倉庫番が入口を開ける時にあれほど離れない。薬品樽へ近づくなと言った。つまり奥に何かいると知っていた。荷に傷をつけるなと言ったが、床下や穴の位置は出さなかった。危険の情報を隠した」
倉庫番長の顔が赤くなった。
「仮登録の分際で――」
「追加報酬を請求する」
俺は言った。
「危険度虚偽。繁殖母。個体数八以上。証拠あり。同行者三名証言」
ハルが俺を見た。
驚きと、少しの笑いが混じっていた。
「お前、ギルドみたいな喋り方できるんだな」
「敵の言葉は使える」
倉庫番長は俺を睨んだ。
「ギルドで話す」
「そうしろ」
彼は背を向けた。
俺はその背中を見た。
撃つ価値はない。
殴る価値もない。
だが、こういう男が依頼票を書く。
その結果、トムのような者が死ぬ。
俺はそれを覚えた。
*
倉庫を出る時だった。
外は、倉庫の中より明るかった。
だが、運河沿いの道は狭い。
左は煉瓦の倉庫壁。
右は黒い運河。
足元には濡れた板と、荷下ろし用の縄と、崩れた木箱が散らばっている。
ハルが先頭を歩いていた。
俺はその三歩後ろ。
ニックはさらに後ろで、矢を筒へ戻していた。
倉庫番長は俺たちから距離を取り、汚れた靴を気にしながら歩いている。
俺は短刀を布で拭いていた。
その時、左の壁際で音がした。
木箱の下。
割れた排水口。
そこから灰色の影が飛び出した。
逃げ遅れた灰鼠だ。
灰鼠は俺たちへ向かわなかった。
俺の前を斜めに横切り、運河側へ跳んだ。
そこに人がいた。
小柄な女。
運河の係留柱の横で、積まれた木箱に片足をかけていた。
革の上着。
腰に短い刃物を数本。
髪は後ろでまとめている。
こちらの冒険者にしては、身のこなしが軽い。
彼女は灰鼠に気づいた。
だが、こちらから見ても一拍遅い。
灰鼠はすでに跳んでいる。
距離は近い。
俺の短刀はまだ布の中だ。
俺は布ごと短刀を投げようとした。
その瞬間、女が叫んだ。
「頭下げて!」
朝鮮語だった。
俺の身体は、言葉より先に反応した。
膝を抜く。
上体を落とす。
頭を下げる。
俺の頭があった場所を、銀色のものが通った。
投げナイフ。
刃は俺の上を越え、運河側へ跳んだ灰鼠の首筋に刺さった。
灰鼠は空中で軌道を崩し、俺の右前方に落ちた。
濡れた板の上で一度跳ね、運河へ落ちかけて、縄に引っかかって止まる。
俺は低い姿勢のまま、短刀を抜いた。
女も俺を見ていた。
目が大きい。
化粧の跡が少し残っている。
顔立ちは、この街の人間とは違う。
呼吸は乱れていない。
彼女は投げた姿勢のまま固まっていた。
それから、朝鮮語で言った。
「……びっくりして韓国語で叫んじゃったんだけど、今の、聞き取った?」
俺は答えなかった。
南の発音。
柔らかい。
速い。
語尾が違う。
子音の置き方も、俺の知る人民共和国の言葉とはずれる。
韓国。
いや、南朝鮮。
俺の頭の中で、分類が先に立った。
敵性地域。
工作員。
捕虜。
亡命者。
あるいは、俺と同じく別の場所から来た者。
可能性が一瞬で並ぶ。
俺は朝鮮語で言った。
「所属を言え」
女の顔が歪んだ。
「は?」
「所属、氏名、階級」
彼女は数秒、俺を見つめた。
驚き。
警戒。
それから、少しのうんざり。
「……軍人?」
俺は答えなかった。
彼女は俺の軍服を見た。
背中の布巻きの武器を見た。
それから俺の顔へ視線を戻した。
「その言い方、韓国の軍人じゃないよね」
ハルが後ろから言った。
「ソック、知り合いか?」
俺は現地語で答えた。
「違う」
女も、少し遅れて現地語で言った。
「違います」
発音は不自然だった。
俺と同じく、この土地の言葉に慣れきっていない。
ハルは俺と女を見比べた。
「同じ国の奴じゃないのか」
俺は女を見た。
女も俺を見ていた。
同じ国。
違う。
同じ言葉を使う。
だが、同じ国ではない。
女は投げナイフを拾い、灰鼠の血を振り払った。
「私はハン・ソユン。釜山出身。階級なんてない。アイドル練習生だった」
釜山。
やはり南だ。
アイドル。
練習生。
単語の意味はわかる。
だが、戦場で聞く言葉ではない。
彼女は俺を見返した。
「で、あんたは?」
俺はすぐには答えなかった。
銃。
拳銃。
軍服。
朝鮮語。
南の女。
すべての判断が、一瞬で複雑になる。
「オ・バンソク」
俺は言った。
ソユンは眉を寄せた。
「オ・バンソク……さん?」
まだ、それだけでは分からないという顔だった。
当然だ。
名だけで出身は決まらない。
北にも南にも、同じ姓があり、同じ音を持つ名がある。
彼女は慎重に聞いた。
「どこから来たの。韓国? 中国の朝鮮族? それとも――」
「南朝鮮の工作員か」
俺は言った。
その瞬間、ソユンの表情が変わった。
「えっ、まさか本当に北韓の人…?」
彼女は目を見開き、それから呆れたように息を吐いた。
「しかも軍人っぽいし、だーいぶ面倒なタイプの…やっと言葉が通じる人に会えたと思ったのに、最悪」
「質問に答えろ」
「違うってば。私は言った通り釜山出身のアイドル練習生。工作員でも軍人でもない」
「なんだそれは、証明は」
「あるわけないでしょ。今、スマホも財布も全部持ってないんだから」
스마트폰。
俺はその単語を頭の中で反復した。
音はわかる。
英語から来た言葉だ。
南では、そう呼ぶのか。
「……지능형손전화기のことか」
俺が言うと、ソユンの動きが止まった。
「は?」
「手電話機。通信端末だ。画面を触って使う」
ソユンは数秒、俺を見た。
それから、顔をしかめた。
「知能型……手電話機?」
彼女はその言葉を、わざとゆっくり繰り返した。
「なにそれ聞いたことない。本当に北韓の人なんだ…」
「何がだ」
「スマホをそんな言い方する人、韓国にはいない」
「外来語をむやみに使う必要はない」
口に出してから、俺は少しだけ黙った。
政治教官の声に似ていた。
南朝鮮の言葉は、米帝と資本主義に汚染されている。
人民共和国の言葉は、人民の思想を守る。
何度も聞いた文句だ。
俺はそれを疑っていなかった。
だが、目の前の女は、その一語だけで俺を見抜いた。
銃でもない。
軍服でもない。
階級を聞いたことでもない。
言葉だった。
ソユンは投げナイフを腰へ戻しながら言った。
「스마트폰。휴대폰。핸드폰。普通はそのへんでしょ。知能型なんとかって、ニュースか博物館みたい」
「お前たちの言葉が崩れているだけだ」
「はいはい。北の軍人って本当にそんな感じなのね」
彼女は呆れたように息を吐いた。
「で、その知能型手電話機も財布も、今私は持ってない。だから証明なんてできない」
スマホ。
手電話機。
知能型手電話機。
同じ物を指す言葉が、二つの国を分けていた。
いや、国だけではない。
どこで育ち、何を禁じられ、何を当然としてきたか。
それが、一つの単語に残る。
この対峙の中で俺はその事実を覚えた。
ハルが俺と彼女を見比べた。
「やっぱり知り合いじゃないのか?」
俺は答えなかった。
ソユンも答えなかった。
運河の黒い水が、足元で鈍く揺れている。
灰鼠の血が板の隙間から流れ、黒い水に混ざった。
俺はまだ、この女を敵とも味方とも分類できなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
この世界には、俺以外にも、元の世界の言葉を持つ者がいる。




