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脱北冒険者の異世界革命  作者: 第七インターナショナル


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第5話 仮登録

 朝のブラックミアは、夜より静かではなかった。


 工場の鐘は夜明け前に鳴った。

 鐘が鳴ると、長屋の扉が開き、人々が吐き出される。男も女も子どもも、同じ方向へ歩く。眠そうな顔、赤い目、濡れた靴、硬いパンを口にくわえたままの子ども。


 軍の起床ラッパに似ていた。


 だが、彼らは兵士ではない。


 誰も敬礼しない。

 誰も隊列を組まない。

 誰も祖国のために歩いている顔をしていない。


 ただ、時間に追われて歩いている。


 俺は《錆びた釘亭》の入口に立ち、通りを見ていた。


 煙突の黒い煙が、低い空へ流れている。

 石畳には泥と馬糞と石炭の粉が混じり、歩くたびに靴底へまとわりつく。

 街全体が、朝から疲れていた。


 ハルが背後から声をかけた。


「行くぞ」


 振り返ると、彼は昨日より少し老けて見えた。


 寝ていないのだろう。

 目の下が暗く、髭が伸びている。

 だが、短剣は腰にあり、革鎧の紐は締め直されていた。


「トムの手続きは」


「午後だ」


「先に登録か」


「ああ。お前の登録を済ませないと、飯代が増える」


「俺の登録とトムの死亡処理、どちらが重要だ」


 ハルは少しだけ顔を歪めた。


「どっちもだ。どっちも金がいる」


 それ以上は言わなかった。


 正しい。


 この街では、死者にも生者にも金がいる。

 死者の手続きにも、生者の登録にも、寝床にも、豆煮込みにも。


 俺は狙撃銃に巻いた布を確認した。

 外套の下に隠すには長すぎる。

 だが、形は崩してある。


 ニックが階段を下りてきた。


 彼は弓を背負い、片手にもう一本の古い弓を持っていた。


「これ、使うか?」


 俺はその弓を見た。


 短めの弓。

 使い込まれている。

 握りの革は擦り切れ、上端には小さなひびがある。

 だが、弦は新しく張り替えられていた。


「予備か」


「昔のやつだ。今はほとんど使ってない。登録で主武器を弓にするなら、持ってた方が自然だろ」


 ハルが頷いた。


「背中の変な魔導弩だけじゃ目立つ。弓を持ってろ」


 俺は弓を受け取った。


 軽い。


 銃とはまったく違う重さだ。

 中心がない。

 左右にしなる。

 木が呼吸しているような感覚がある。


「借りる」


「壊すなよ」


「壊すような使い方はしない」


 ニックは少し疑わしげな顔をした。


「昨日、男の腕を壊さなかったって言ったやつが言うと怖い」


「壊していない」


「そこじゃない」


 ハルが笑いかけたが、途中で笑いを消した。


 トムのことを思い出したのだろう。


 エリーは降りてこなかった。


 ミラが厨房から顔を出した。


「エリーは寝かせておくよ。起こすんじゃない」


 ハルが頷いた。


「頼む」


「頼む前に宿代を考えな」


「わかってる」


「わかってる奴ほど払わないんだ」


 ミラはそう言いながら、俺に硬いパンを一切れ投げた。


 俺は受け取った。


「いくらだ」


「昨日の豆の残り代に入れとく」


「つまり借金か」


「この街へようこそ」


 ミラは笑わずに言った。


     *


 ギルドの登録窓口は、昨日の死亡処理窓口とは別だった。


 だが、同じ匂いがした。


 インク。

 古い紙。

 革紐。

 汗。

 待たされる人間の苛立ち。


 列に並ぶ者たちは、若い者が多かった。


 十五、六の少年。

 目つきの悪い女。

 農村から来たような大柄の男。

 背中に小さな鍋を括りつけた子ども。

 金がない者特有の、すべてを少しずつ諦めた表情。


 彼らは冒険者になりに来た。


 英雄になるためではない。


 食うためだ。


 列の前で、受付の男が機械的に質問していた。


「名前。年齢。出身。主武器。既往負傷。保証人。登録料。次」


 人間が一人ずつ、項目に分けられていく。


 俺はその声を聞きながら、昨日の死亡処理を思い出した。


 死亡者名。

 登録番号。

 保険加入状況。

 債務。


 入口と出口が、同じ形をしている。


 名前を聞き、番号を与え、金を取る。


 違いは、生きているか死んでいるかだけだ。


 俺たちの番になった。


 受付の男は、昨日の女とは違った。

 若く、ひょろりとしていて、鼻の下に薄い髭がある。

 目つきは悪くない。

 ただ、急いでいる。


「名前」


「ソック」


 俺は最初からそう答えた。


 男は木札に書いた。


「綴りは」


 昨日の帳簿を思い出す。


「SOCK」


「年齢」


「三十」


「出身」


 俺は少し黙った。


 平壌。


 そう答えても通じない。

 通じたとしても、意味を持たない。

 あるいは、余計な意味を持つ。


 ハルが横から言った。


「北方の外れだ。言葉が少し違う」


 受付の男は深く追及しなかった。


「北方辺境。主武器」


 ここが問題だった。


 背中の布巻きを見られる。

 受付の男はすでに見ている。

 周囲の何人かも見ている。


 俺は言った。


「弓」


 ニックの予備弓を机の上に置く。


 受付の男は弓を見て、次に背中の布巻きを見た。


「それは」


「補助武器だ」


「種類は」


「特殊弩」


 ニックがすかさず言った。


「古い魔導弩です。北方の型。扱いづらいから主武器にはしない方がいい」


 受付の男は少し困った顔をした。


「魔導武器は登録区分が別ですが」


 ハルが身を乗り出した。


「こいつは仮登録だ。まず弓でいいだろ。魔導弩の区分に入れたら手数料が跳ねる。払えない」


「規則では――」


「じゃあ、ただの弩って書け。どうせ使い物になるかわからん骨董だ」


 受付の男は布巻きをもう一度見た。


 俺は表情を変えなかった。


 彼は、これ以上関わりたくないという顔になった。


「主武器、弓。補助、弩。仮登録」


 彼は書いた。


 弩。


 嘘ではない。

 いや、嘘だ。


 だが、銃という言葉がこの土地にない以上、いまはその嘘で十分だ。


「保証人」


「ハル・ブレンナー」


「登録料」


 受付の男が言うと、ハルは革袋を出した。


 中身は少なかった。


 銅貨を数える音がした。


 一枚、二枚、三枚。

 小さな金属音。


 ハルは途中で指を止めた。


 足りない。


 俺はそれを見た。


「やめろ」


 ハルが俺を見る。


「何が」


「足りないなら登録しない」


「黙ってろ」


「これはお前の金だ」


「俺の借金だ」


「なお悪い」


 受付の男が咳払いをした。


「次の方もいますので」


 ハルは舌打ちし、さらに小さな銀貨を一枚出した。


 その動きに、ニックが目を見開いた。


「ハル、それは」


「黙れ」


「それ、トムの――」


「黙れ」


 ニックは口を閉じた。


 俺はハルを見た。


「何の金だ」


「預かりだ」


「誰の」


「トムの」


 周囲の音が遠くなった。


 トムの金。


 妹へ送ると言った金か。

 あるいは葬儀に使う金か。

 どちらにせよ、俺の登録料に使うべきものではない。


「受け取るな」


 俺は受付の男に言った。


 男は困った顔をした。


「もう置かれています」


「戻せ」


「規則上、支払い手続きに入ると――」


 俺は机に手を置いた。


 強くは叩かなかった。

 ただ、手を置いた。


 受付の男の目が俺の手に落ちる。


 ハルが低く言った。


「ソック」


「これは使わない」


「使う」


「トムの金だ」


「だから使うんだ」


 ハルの声が荒くなった。


「お前を登録させる。仕事をさせる。金を稼がせる。そうしないと、俺たちはもっと詰む」


「俺のためではないと?」


「お前のためでもある。俺たちのためでもある。トムのためでもある。綺麗に分けられると思うな」


 俺は黙った。


 綺麗に分けられると思うな。


 戦場では、物資の配分は明確でなければならない。

 弾薬は誰に。食料は誰に。担架は誰に。撤退枠は誰に。

 曖昧さは部隊を壊す。


 だが、この街の貧しさは、明確に分けられないらしい。


 ハルは小さな銀貨を受付へ押し出した。


「登録しろ」


 受付の男は、これ以上関わりたくない顔で銅板を取り出した。


 薄い銅板。

 端に穴があり、紐を通せるようになっている。


 彼は刻印器具に銅板を入れた。


 小さな音がした。


 SOCK.


 四文字が銅板に刻まれた。


 その下に、仮登録を示す印。

 主武器、弓。

 等級、銅級見習い。


 男は銅板を俺に渡した。


「仮登録証です。紛失時は再発行手数料がかかります。正式登録には三件以上の依頼達成、またはギルド認定試験が必要です。保険加入は別窓口。装備貸付も別窓口。死亡時の指定親族登録は推奨されています」


 死亡時。


 登録した瞬間に、死亡時の話が出る。


 俺は銅板を受け取った。


 軽い。


 だが、重い。


 軍の認識票とは違う。

 祖国の徽章とも違う。

 それは名誉の証ではなく、労働市場への入口だった。


 俺はそれを首にかけなかった。


 手の中で握った。


     *


 ギルドの裏には訓練場があった。


 訓練場といっても、軍の射撃場とは違う。


 泥を踏み固めただけの広場。

 木の的。

 藁人形。

 剣の素振りをする者。

 盾を構える者。

 魔法の練習をする者。

 壁際には、失敗した弓矢が何本も刺さっている。


 空気は湿っていた。


 だが、ここには少しだけ開けた感覚がある。

 ギルドの中の帳簿の匂いから離れられるせいかもしれない。


 ニックが予備弓を渡した。


「まず引けるか見たい」


 俺は弓を構えた。


 弓は銃ではない。


 当たり前のことだが、構えた瞬間にわかった。


 銃は身体を固定する。

 骨で支え、呼吸を止め、照準線と目を一致させる。

 引き金は最後の一点だ。


 弓は違う。


 身体そのものが武器の一部になる。

 肩、背中、肘、指、呼吸。

 張力は外にあるのではなく、身体の中にかかる。


 俺は弦を引いた。


 硬い。


 引けないほどではない。

 だが、引き方が違う。


 腕で引くとぶれる。

 肩が上がる。

 狙いが落ちる。


 ニックが言った。


「腕じゃない。背中で引く」


「知っている」


「知ってる顔じゃない」


 俺は一度弦を戻した。


 もう一度構える。


 左手で弓を押す。

 右手で引くのではなく、肩甲骨を寄せる。

 呼吸を浅くする。


 照準器はない。


 的までの距離。

 風。

 矢の重さ。

 弦の張り。

 身体のぶれ。


 情報が多い。


 だが、銃の情報とは種類が違う。


 俺は矢を放った。


 外れた。


 的の左下。

 かなり低い。


 訓練場の隅で、誰かが笑った。


 ハルがそちらを睨んだ。


 ニックは笑わなかった。


「初めてなら悪くない」


「悪い」


「悪いけど、初めてなら悪くない」


「同じ意味ではない」


「うるさいな」


 ニックは別の矢を渡した。


「次。今度は手を離すんじゃなくて、弦を逃がす」


「弦を逃がす」


「そう。指で邪魔するな」


 俺はもう一度撃った。


 今度は右へ流れた。


 矢の重さが違う。

 放つ瞬間、指が引っかかった。

 弓の反動を読めていない。


 銃なら、修正は計算できる。

 だが、弓は身体の癖がそのまま出る。


 厄介だ。


 だが、面白くもあった。


 俺は三本目を番えた。


 世界を細くする。


 いつもの感覚を呼ぶ。


 呼吸。

 心拍。

 風。

 距離。

 的の中心。


 視界が静かになる。


 だが、銃と違って、矢は引いている間に身体が震える。

 張力が続く。

 止まれば止まるほど、筋肉が情報を濁らせる。


 撃つのではない。


 放つ。


 俺は矢を放った。


 的の端に刺さった。


 低いが、当たった。


 ニックが少しだけ目を丸くした。


「……修正が早いな」


「遅い」


「本当にうるさい」


 俺は次の矢を取った。


 的の中心に当てるまでやる。


 そう思った。


 だが、五本目でニックが止めた。


「休め」


「まだだ」


「指が切れてる」


 見ると、右手の指に血が滲んでいた。


 弓手袋が合っていない。

 弦で皮膚が擦れた。


 痛みは小さい。

 問題ではない。


 だが、ニックは首を振った。


「そのままやると変な癖がつく。あと、血で弦が汚れる」


 血より癖。


 その言い方に、俺は少しだけニックを見直した。


 彼は臆病ではある。

 だが、弓については真面目だ。


「わかった」


 俺は弓を下げた。


 訓練場の反対側で、別の射手が弓を構えていた。


 若い女だった。

 青い袖のついた革鎧。

 弓は俺のものより細く、弦に薄い光がまとわりついている。


 彼女が矢を放つ。


 矢は真っすぐ飛ばなかった。


 途中でわずかに曲がり、風を避けるように的の中心へ吸い込まれた。


 俺は目を細めた。


「今のは何だ」


 ニックがそちらを見た。


「あれが魔力乗せだ」


「矢が曲がった」


「魔力で風を読むんだとさ。俺はできない」


「なぜ」


「素質がない」


 素質。


 また新しい単語だ。


 俺は女射手を見る。


 彼女は次の矢を放った。

 矢の軌道が、また微かに曲がる。

 完全な誘導ではない。

 だが、風の影響を減らしている。


 もしあれが再現可能なら、弾道補正に近い。

 狙撃とは別の技術だが、使える。


 俺は聞いた。


「俺にもできるか」


 ニックは肩をすくめた。


「知らない。魔力があれば」


「魔力とは何だ」


 ニックは本気で困った顔をした。


「お前、本当にどこから来たんだ…?まあいい、言うなれば息みたいなもんだ」


「呼吸か」


「いや、違う。血みたいなもんでもある」


「循環か」


「違う。感覚だよ」


「説明になっていない」


「できない奴に説明できないんだよ」


 ニックは少し苛立った。


 俺は女射手を見続けた。


 彼女は的を外した。

 矢が大きく右へ流れた。

 彼女は舌打ちし、手首を振った。


 万能ではない。


 消耗もある。

 集中を乱せば外れる。

 軌道補正は完全ではない。


 だが、存在する。


 俺は自分の手の血を見た。


 銃は残弾が限られている。

 弓は矢があれば撃てる。

 魔力を乗せられれば、さらに使える可能性がある。


 この土地で生きるなら、学ぶべきだ。


     *


 訓練の後、ハルは依頼掲示板の前に俺を連れていった。


「今日は簡単な依頼を受ける」


「トムの手続きは」


「午後に行く。それまでに少しでも稼ぐ」


「休むべきではないか」


 ハルは掲示板を見たまま言った。


「休む金がない」


 その一言で終わった。


 掲示板には多くの紙が貼られていた。


 鼠退治。

 運河倉庫の小型魔物駆除。

 荷運び護衛。

 下水点検。

 工場裏の魔石屑回収。

 行方不明の犬探し。

 古井戸の調査。


 依頼ごとに報酬、危険度、期限、依頼主が書かれている。


 だが、文字を読むのに時間がかかる。


 俺は現地語を聞くことはできる。

 話すことも、ある程度はできる。

 だが文字は別だ。


 ハルが紙を読んだ。


「運河沿い倉庫。小型灰鼠三から五。報酬、銅貨二十。危険度一」


「危険度は信じられるのか」


「信じない。だから俺たちが見る」


「黒血種の後で、また依頼を受けるのか」


「黒血種の後だから受けるんだ」


 ハルは紙を剥がした。


「棺代が要る」


 俺は何も言わなかった。


 死者のために、生者が危険へ向かう。

 それは軍にもある。


 ただし、ここでは命令ではなく、金がそうさせる。


 ハルは俺を見た。


「ソック。弓、使えるか」


「まだ十分ではない」


「短刀は」


「使える」


「じゃあ短刀でいい。背中の魔導弩は使うな。目立つ」


「同意する」


 ニックが言った。


「俺も行く」


 ハルは顔をしかめた。


「お前は休め」


「金が要る」


「全員そればっかりだな」


「事実だから」


 ニックは弓を背負った。


 その顔には恐怖が残っていた。

 昨日の黒血種。トムの死。

 それは簡単に消えない。


 だが、彼は行く。


 恐怖があっても、金が要るから。


 俺は仮登録証を手の中で握った。


 SOCK.


 銅級見習い。

 主武器、弓。


 嘘と借金でできた、新しい身分。


 だが、それでも身分は身分だ。


 この街では、帳簿に載らなければ仕事すらできない。


 依頼を受けられなければ、飯も、寝床も、死者の棺も遠ざかる。

 

 俺はギルドの扉を見た。


 外には黒泥の街。

 内には帳簿と依頼票。

 背中には隠した銃。

 手には借りた弓。

 腰には短刀。

 胸には将軍様の拳銃。


 どれも俺のものだ。

 どれもまだ、この街では半分しか使えない。


 ハルが言った。


「行くぞ」


 俺は小さく頷き、借りた弓を肩にかけた。

 背中の布巻きの銃を確かめる。

 腰の短刀。

 胸元の拳銃。

 手の中の銅板。


 どれも、今の俺を完全には説明しない。


 朝鮮人民共和国の兵士。

 北の死神。

 ソック。

 銅級見習い。


 名前が増えても、任務は一つずつ処理するしかない。


 ギルドの扉を出ると、黒泥の風が吹いた。


 運河の方から、湿った臭いが流れてくる。

 水。

 石炭。

 腐った木。

 そして、小さな獣の気配。


 ハルは振り返らなかった。


 俺も振り返らなかった。


 ブラックミアでの最初の依頼は、こうして始まった。

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