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脱北冒険者の異世界革命  作者: 第七インターナショナル


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第4話 冒険者の寝床

 ハルが連れていった宿は、宿というより、寝ることを許された倉庫に近かった。


 名前はあった。


 《錆びた釘亭》。


 扉の上に、曲がった釘を打ちつけた看板が揺れている。

 風が吹くたび、看板は壁に当たり、乾いた音を立てた。


 中に入る前から、匂いがした。


 安い酒。

 古い油。

 濡れた革。

 汗。

 咳。

 煙草に似た草の煙。

 煮込みすぎた豆の匂い。


 それから、血の匂い。


 戦場の血とは違う。

 ここでは、血はすぐに泥と火薬に混ざらない。

 布に染み、床に落ち、乾き、また踏まれる。


 俺は入口で一度止まった。


 中の配置を確認する。


 出入口は一つ。

 奥に厨房。

 左に階段。

 右に酒場。

 裏口は厨房の奥だろう。

 窓は小さい。割れば出られるが、外側に鉄格子があるものもある。


 客は十五人ほど。


 武装している者が多い。

 だが、武器の手入れは悪い。

 革鎧は濡れ、鎖帷子はところどころ錆び、剣の柄には手垢が溜まっている。

 疲れた者。酔った者。眠っている者。賭けをしている者。包帯を巻き直している者。


 兵士ではない。


 だが、みな死に近い仕事をする者たちの目をしていた。


 ハルが言った。


「ここが俺たちの宿だ」


「兵舎ではないのか」


「兵舎?」


「共同宿舎だ」


「ああ、まあ似たようなもんだ。ただし飯はまずいし、寝床は狭いし、金は取られる」


 そう言われ、祖国の兵舎を思い出した。


 山中の中隊宿舎。

 湿った毛布。

 板の隙間から入る風。

 靴を脱ぐと、足の指の感覚が戻らない冬の夜。

 石炭が足りず、炉の前だけが赤く、壁際は氷のように冷えていた部屋。


 兵舎は国家の施設だ。

 兵士を鍛え、人民を守るための場所だ。

 俺はそう教えられ、そう信じてきた。


 だから、寒さも、空腹も、眠れない夜も、苦痛ではなく訓練だった。


 少なくとも、そう考えるべきだった。


 実際には、兵士は腹が減れば黙る。

 寒ければ眠れない。

 靴下が乾かなければ、足の皮が破れる。

 同じ毛布を何日も使えば、汗と土と薬の匂いが染みる。


 その事実は、思想では消えない。


 だが、俺たちは消したことにした。


 革命軍人は耐える。

 首領の国を守る者は、まず自分の肉体に勝たなければならない。

 政治教官はそう言った。


 俺もそう言った。

 部下にも言った。


 チャンミンが、凍った飯を手で崩しながら笑っていた顔を思い出す。


小隊長同志トンジ、これでも敵の飯よりはましでしょう」


 あいつはそう言った。


 俺は、その冗談を叱らなかった。


 錆びた釘亭の中を見回す。


 濡れた革。

 咳。

 血。

 湿った床。

 安い酒の匂い。


 たしかに、兵舎に似ている。


 違うのは、ここではそれに金を取ることだった。


「軍の兵舎も似たようなものだ」


 ハルは少し笑った。


「じゃあ、兵舎よりひどい」


 俺は答えなかった。


 奥の卓に、ニックが座った。

 彼は弓を膝に置き、弦を外していた。手つきは丁寧だ。

 戦闘中は頼りなく見えたが、道具を扱う時の動作は悪くない。


 エリーは椅子に座るなり、両手を膝の上で握った。


 目は赤い。

 泣きすぎた目だ。

 だが、泣き声は出していない。


 泣く体力も残っていないのだろう。


 宿の女将がやって来た。


 大柄な女だった。腕が太く、声も太い。

 年齢は五十前後。顔の皺は深いが、目はよく動く。


「ハル。トムは?」


 ハルは答えなかった。


 女将はそれだけで理解した。


 彼女は目を伏せた。

 ほんの一瞬だけ。


 それから、もとの顔に戻った。


「そうか」


 短い言葉だった。


 だが、軽くはなかった。


 ハルが言った。


「ギルドに置いてきた。明日、手続きだ」


「棺は?」


「まだ」


「妹さんには?」


「まだ」


「金は?」


「まだ」


 女将は舌打ちした。


「全部まだか」


「死んだばかりだ」


「死ぬと、すぐ金が要るんだよ」


 その言葉に、エリーが肩を震わせた。


 女将は彼女を見た。


 表情が少しだけ柔らかくなった。


「エリー、今日は上で寝な。台所の奥の狭い部屋を空ける」


「でも、お金が」


「黙りな。今日はいい」


「でも」


「今日はいいって言ったんだ」


 女将は強く言った。


 エリーは小さく頷いた。


 ハルが低く言った。


「ミラ、助かる」


「助かるなら、来週までに宿代を払え」


「ああ」


「あと、あんたらの分の酒代は助けない」


「飲んでない」


「昨日トムが飲んだだろう」


「昨日は生きてたからな」


「今日は死んだ。だからなおさら払え」


 ハルは苦い顔をした。


 ミラと呼ばれた女将は、俺を見た。


「それで、その軍人みたいなのは何だい」


 ハルが言った。


「湿地で拾った」


「犬じゃあるまいし」


「黒血種を撃ったんだ、こいつに命を救われた」


 酒場の空気が少し止まった。


 いくつかの視線が俺に集まる。


 撃った。


 その言葉だけでは、この街では意味が広すぎる。

 弓で射ったのか、魔法で撃ったのか、投げ槍で貫いたのか。

 だが、ハルの声には別の含みがあった。


 ミラは俺の背中の布巻きを見た。


「厄介ごとを連れてきたね」


「命の恩人だ」


「命の恩人は、たいてい次の厄介ごとだ」


 ハルは反論しなかった。


 ミラは俺の正面に立った。


「名前は」


「ソック」


 口に出す前に、一瞬だけ迷った。


 オ・バンソクではなく、ソック。


 俺はその名を選んだ。

 この場では、その方がいい。


 ミラは頷いた。


「金は」


「ない」


「仕事は」


「ない」


「登録は」


「ない」


「食うのか」


「必要なら」


「必要じゃなく食う奴はいないよ」


 彼女はハルを見た。


「保証するのか」


 ハルは一瞬だけ黙った。


 保証。


 その言葉がまた出た。


 この街では、誰かの存在は誰かの保証で動く。

 登録も、宿も、治療も、死後の処理も。


 ハルは頷いた。


「今日だけは」


「今日だけで済む顔じゃない」


「明日登録させる」


「登録料は」


「俺が立て替える」


 ミラは深くため息をついた。

 

 その後、思い直すように聞いた。


「ハル、あんたは死んだ仲間の分まで借金を背負う気かい」


 ハルは答えなかった。


「いいよ。豆煮込みを一杯。寝床は床なら銅貨一枚。毛布を使うなら二枚」


「高い」


 ハルが言った。


「高いと思うなら外で寝な。黒泥に食われるよりは安い」


 ミラはそう言って、厨房へ戻った。


     *


 豆煮込みは、熱かった。


 味は薄い。

 豆は煮崩れ、肉はほとんど入っていない。

 塩気も足りない。


 だが、俺は顔を変えなかった。


 粗末な食事には慣れている。


 前線の飯は、いつも何かが足りなかった。


 米が足りない日は、トウモロコシが混ざる。

 トウモロコシも足りない日は、粥が水に近くなる。

 塩漬けの大根が一切れあれば、副食がある日だった。

 味噌汁に乾いた菜葉が浮いていれば、今日はまだ恵まれていると誰かが言った。


 肉は記念日か、上から視察がある時のものだった。


 それでも、俺たちは文句を言わなかった。


 文句を言わないように訓練されていた。

 空腹を個人の不満にしてはならない。

 不足は苦難であり、苦難は忠誠を測る秤だった。


 そう信じていた。


 …いや、信じている。


 俺は匙を動かした。


 熱い豆が喉を通る。

 胃が反応する。

 身体は、思想より先に熱を受け取る。


 熱い食べ物は、体に命令する。


 まだ動け。

 まだ冷えるな。

 まだ死ぬな。


 味は必要ではない。

 量も十分ではない。

 だが、今の俺には使える。


 食えるものは食う。

 温かいものは、なおさら食う。


 それは前線で覚えた規則だった。



 ハルは向かいに座っていた。

 彼は食べていない。酒も飲んでいない。ただ、木の椀を見つめている。


 ニックは弓を手入れしていた。


 布で弓を拭き、弦を油で扱い、矢羽根を一本ずつ確認している。

 手は震えていない。


 戦闘では震える。

 手入れでは震えない。


 そういう人間もいる。


 俺は聞いた。


「弓は自前か」


 ニックが顔を上げた。


「ああ。半分は自前。半分は貸付」


「半分?」


「弓本体は買った。弦と矢は装備屋の貸付だ。矢って高いんだよ」


「撃てば減る」


「当たり前だろ」


「なら、高い」


 ニックは少し笑った。


「変なことを真面目に言うな」


 俺は矢を見た。


 木の質は悪くない。

 だが、個体差が大きい。重さが揃っていない。羽根の貼り方もばらついている。


「これでは狙いが変わる」


 俺が言うと、ニックの目が少し変わった。


「わかるのか」


「見ればわかる」


「弓を使うのか?」


「使わない」


「じゃあ何で」


 俺は椀を置いた。


「弾も矢も、飛ぶものは嘘をつかない。作りが違えば、飛び方が変わる」


 ニックはしばらく俺を見ていた。


 それから、矢を何本か差し出した。


「どれが悪い」


 俺は受け取り、重さを指で確かめた。

 羽根。軸。先端。曲がり。


「これと、これ。右へ流れる」


 ニックは眉をひそめた。


「本当か」


「撃てばわかる」


「俺もそう思ってた」


 彼は少しだけ悔しそうに言った。


「でも、全部使うしかない。矢を選べるほど金はない」


 俺は矢を返した。


「戦場では、悪い弾から使うな」


「ここでは、悪い矢から使う。良い矢は帰り道に残す」


 ニックはそう言った。


 その答えは、正しかった。


 戦場と、彼らの仕事は違う。

 俺の常識がそのまま通じるとは限らない。


 俺はそれを覚えた。


     *


 エリーは、椀を前にしても食べなかった。


 ミラが怒鳴った。


「食べな」


「いりません」


「いる。泣くにも腹がいる」


「でも」


「でもじゃない」


 エリーは小さく匙を持った。

 だが、口には運ばない。


 ハルが言った。


「エリー」


 彼女は顔を上げない。


「私がもっと早く、光を出せていたら」


 誰もすぐには答えなかった。


 宿のざわめきが遠くなる。


 エリーは続けた。


「最初の時、怖くて、杖を落としそうになって。トムが前に出て。私が、ちゃんとできてたら」


 ハルが低く言った。


「違う」


「違わない」


「違う」


「じゃあ、何でトムは死んだの」


 ハルは答えられなかった。


 ニックも黙っていた。


 俺は匙を置いた。


「胸が潰れていた」


 エリーが俺を見る。


「魔法で止められる出血ではない。外から塞いでも、内側が壊れている。息ができない。血が中で溜まる。お前の光で治る傷ではない」


 エリーの目にまた涙が溜まった。


「でも、少しは」


「少しは変わったかもしれない」


 ハルが俺を見た。


 俺は続けた。


「痛みを減らしたかもしれない。血を少し止めたかもしれない。死ぬまでの時間を延ばしたかもしれない」


 エリーの唇が震えた。


「それだけ?」


「それだけではない」


 俺は言った。


「死ぬ人間の横にいた」


 彼女は黙った。


「それは、役に立たないことではない」


 俺は自分で言いながら、その言葉に違和感を覚えた。


 戦場で、俺は何度も死にかける兵士を見た。

 横にいる余裕がないことも多かった。

 次の攻撃、次の命令、次の射線。

 死者に時間を使えば、生者が死ぬ。


 だから、俺は横にいないことを選んできた。


 必要な選択だった。


 だが、必要だったからといって、何も残らないわけではない。


 エリーは匙を握ったまま、泣き出した。


 静かな泣き方だった。

 子どものように声を上げるのではなく、息だけが壊れるように漏れる。


 ミラが厨房から布を投げた。


「泣くなら拭きな。豆が冷める」


 エリーは布で顔を覆った。


 ハルは天井を見た。

 ニックは矢羽根をいじる手を止めた。


 俺は椀を持ち直した。


 豆煮込みはぬるくなっていた。


     *


 夜が深くなるにつれ、宿の中は別の顔になった。


 昼に生き残った者たちが酒を飲み、死ななかったことを騒ぎ、明日の危険を忘れようとする。

 誰かが歌い始めた。

 音程は悪い。

 歌詞は半分聞き取れない。

 だが、内容はわかった。


 金がない。

 女に振られた。

 ギルドに騙された。

 魔物より女将が怖い。

 死んだら棺代を踏み倒せ。


 笑いが起きる。


 死を笑いに変えるのは、兵士も冒険者も同じらしい。


 俺は壁際に座っていた。


 背中を壁に。

 入口を視界に。

 階段と厨房の動きも見える位置。


 狙撃銃は布に巻いたまま膝の近く。

 拳銃は内懐。

 短刀は手の届く位置。


 眠るには悪い場所だ。

 だが、初めての街で、初めての宿だ。

 良い場所などない。


 その時、酔った男が近づいてきた。


 背が高く、肩幅がある。

 鎖帷子を着ているが、手入れが悪い。

 右耳が欠けている。

 目は赤い。


 彼は俺の前に立った。


「おい」


 俺は顔を上げた。


「何だ」


「お前が黒血種をやったって?」


 宿の音が少し小さくなった。


 周囲がこちらを見始める。


 ハルが気づいて立ち上がろうとした。

 俺は手で制した。


 酔った男は俺の布巻きの武器を指差した。


「見せろよ。その魔導弩」


「断る」


「いいじゃねえか。見るだけだ」


「断る」


 男の顔が歪んだ。


「湿地で拾われた新入りが、偉そうに」


 彼の手が伸びた。


 武器へ。


 俺は椅子から立たなかった。


 男の手首が布へ触れる前に、俺は左手でその手首を取った。

 強く握るのではない。

 親指の付け根と骨の隙間に指を入れる。

 同時に、右肘を少し動かし、男の重心を前へ流す。


 酔った男は自分の力で前へ崩れた。


 俺は立ち上がりながら、彼の肘を制し、肩を返した。

 男の膝が床につく。


 音は小さかった。


 だが、宿全体が黙った。


 俺は男の腕を折らなかった。

 折る必要はない。

 痛みで止めるだけで十分だ。


 男は呻いた。


「離せ、くそっ」


「触るな」


「痛え、離せ!」


「触るな」


 俺は同じ言葉を繰り返した。


 男の仲間らしき二人が立ち上がりかけた。


 ハルが短剣に手を置いた。


 ミラが厨房から怒鳴った。


「店の中で殺すなら、掃除代を取るよ!」


 その声で、少しだけ緊張が緩んだ。


 俺は男の腕を離した。


 男は床に手をつき、俺を睨んだ。

 だが、もう手は伸ばさなかった。


「覚えてろよ」


 俺は答えた。


「覚える価値があればな」


 男は顔を赤くしたが、仲間に引っ張られて戻っていった。


 宿の音が少しずつ戻る。


 ハルが俺の横に来た。


「今の、何をしたんだ」


「触らせなかった」


「いや、そうじゃなくて」


「腕を壊さなかった」


「そこに感謝すべきか?」


「必要なら壊した」


 ハルは頭をかいた。


「やっぱり厄介ごとだ」


 ニックが遠くから俺を見ていた。

 彼の目には恐怖だけではなく、少しの興味があった。


 エリーも見ていた。


 彼女は泣き腫らした目で、俺の手を見ていた。


 俺は座り直した。


 白兵戦は銃より静かだ。

 だが、人に見られれば同じように情報になる。


 今のは少し見せすぎた。


 だが、武器を奪われるよりはいい。


     *


 寝床は二階だった。


 細い階段を上がると、長い部屋があった。

 床に薄い藁袋が並び、壁際には荷物が積まれている。

 毛布は湿っていた。

 窓は小さく、閉まりが悪い。隙間から煙と冷気が入ってくる。


 十人以上がここで寝るらしい。


 兵舎より悪い。


 ハルが言った通りだった。

 それでも、ハルは部屋を見て肩をすくめただけだった。


「今日はまだましだな」


 俺は彼を見た。


「これでか」


「床がある。横になれる。毛布も借りられる」


 ニックが苦い顔で笑った。


「下町の縄寝よりはいい。あそこは座って寝るんだ。前に縄が一本張ってあって、そこに胸を預ける。朝になると親父が縄を外す。そしたら寝てた奴らがまとめて床に落ちる」


「それに金を払うのか」


「払う。払えなきゃ外だ」


 ハルが言った。


「冬に外で寝るよりは、縄にぶら下がる方がましだって連中もいる」


 俺は黙った。


 座ったまま眠る訓練は受けた。

 行軍の途中、車両の中、洞窟陣地、雨の中。

 背嚢を枕にし、銃を抱いたまま目を閉じることもあった。


 だが、それは作戦のためだった。

 命令のためだった。

 祖国を守るためだった。


 ここでは、眠る姿勢まで金で決まる。


 床。

 藁袋。

 毛布。

 縄。

 外の泥。


 人間が夜を越す方法に、値段がついている。

 

 ミラは俺に毛布を一枚投げた。


「なくしたら銅貨三枚」


「借りるだけで金を取るのか」


「当たり前だろ」


「戦場では支給される」


「ここでは何でも支払いだよ。寝るのも、食うのも、死ぬのもね」


 彼女はそう言って降りていった。


 寝るのも、食うのも、死ぬのも支払い。


 この街の仕組みを、一文で説明するならそれかもしれない。


 俺は壁際の場所を選んだ。


 ハルが言った。


「そこは寒いぞ」


「入口が見える」


「寝る気あるのか」


「必要なだけ」


「変な奴だな」


 ハルは隣の藁袋に腰を下ろした。


 ニックは少し離れた場所。

 エリーはミラの言った台所奥の小部屋へ行った。


 部屋の中では、すでに何人かが眠っていた。

 いびき。咳。寝言。歯ぎしり。


 俺は毛布を体にかけず、膝の上に置いた。

 武器の邪魔にならないように。


 ハルが横になりながら言った。


「ソック」


「何だ」


「明日、ギルドで登録しろ」


「なぜ」


「登録なしじゃ仕事がない。仕事がなきゃ飯がない。飯がなきゃ、ミラに追い出される」


「登録には金がいる」


「俺が立て替える」


「また保証か」


「ああ」


「トムの件がある」


 ハルは黙った。


 俺は続けた。


「お前はこれ以上、債務を増やすべきではない」


「わかってる」


「なら、なぜ」


「わかってても、そうするしかない時がある」


 ハルの声は疲れていた。


「お前を放り出したら、たぶん死ぬか、誰かを殺すか、面倒なことになる。登録させた方がまだましだ」


「俺が誰かを殺すと思うのか」


「今の腕のやつを見た後だと、思う」


 俺は少し黙った。


「必要がなければ殺さない」


「その必要ってやつが、俺たちと違いそうなんだよ」


 ハルは天井を見たまま言った。


 その言葉は正しかった。


 俺の必要と、この街の必要は違う。


 俺はそれを、今日だけで何度も見た。


 魔物への一発。

 ギルドの帳簿。

 トムの死。

 エリーの涙。

 酔った男の腕。


 すべてに、俺の知る戦場とは違う判断があった。


「明日、登録する」


 俺は言った。


 ハルは目を閉じた。


「そうしてくれ」


「借りは返す」


「ああ。生きてる間にな」


 その言葉の後、ハルは黙った。


 眠ったのか、眠ったふりなのかはわからない。


     *


 俺は眠れなかった。


 眠る訓練は受けている。

 短時間で眠り、短時間で起きる。

 砲声の中でも、寒さの中でも、空腹でも眠れる。


 だが、この宿の音は戦場とは違った。


 誰かが咳をする。

 誰かが寝言で母親を呼ぶ。

 下の酒場で椅子が倒れる。

 ミラが怒鳴る。

 遠くで工場の鐘が鳴る。

 さらに遠くで、夜勤の労働者らしき足音が通る。


 戦場より静かなのに、落ち着かない。


 俺は目を閉じた。


 白い光が浮かんだ。


 塹壕。

 チャンミンの口。

 声のない叫び。

 届かなかった手。


 俺は目を開けた。


 天井の板が見える。

 黒い煤が隙間に溜まっている。


 チャンミンはどうなった。


 小隊は。

 前線は。

 祖国は。

 将軍様は。


 考えても答えはない。


 答えのない問いは、今は脇に置く。

 そう訓練されている。


 だが、脇に置いたものは消えるわけではない。


 俺は胸元に手を当てた。


 拳銃の重さがある。


 将軍様から下賜された拳銃。

 それは、俺が何者かを思い出させる重さだった。


 朝鮮人民共和国の兵士。

 特殊狙撃部隊小隊長上尉。

 オ・バンソク。


 だが、ギルドの帳簿には別の名前が書かれている。


 ソック。


 湿地で拾われた未登録武装者。

 黒血種を一発で倒した謎の男。

 ハルの保証で明日登録する予定の厄介ごと。


 どちらが本当か。


 問いが浮かび、すぐに消した。


 本当かどうかではない。


 任務に必要な名前を使えばいい。


 俺はそう考えた。


 その時、下の階から小さな泣き声が聞こえた。


 エリーだろう。


 俺は動かなかった。


 慰めに行くべきではない。

 俺は彼女の上官ではない。家族でもない。友人でもない。

 泣く人間の隣に立つ言葉を、俺は多く持っていない。


 それでも、泣き声は聞こえ続けた。


 戦場で負傷兵が泣く声は、砲声に混ざって消える。

 この宿では、消えない。


 俺はゆっくりと起き上がった。


 階段へは行かなかった。


 ただ、壁際で座り直し、入口へ目を向けた。


 誰かがこの宿へ入ってくるなら、俺が先に気づく。

 誰かがエリーを脅かすなら、俺が先に止める。

 それ以上のことは、今はできない。


 泣き声はやがて小さくなった。


 外では黒泥の街が眠らずに動いている。


 煙突は夜でも煙を吐き、工場の鐘は人間を時間で刻み、ギルドの帳簿は死者の名前を乾かしている。


 この街は、俺の知らない戦場だ。


 銃声は少ない。

 だが、人は確かに削られている。


 俺は狙撃銃の布を少しだけ直した。


 弾薬は限られている。

 金はない。

 所属もない。

 言葉も完全ではない。


 それでも、明日になれば登録する。


 ソックとして。まずは生きるため。


 俺はその名をまだ好まなかった。


 だが、好むかどうかは重要ではない。

 生きるために使えるものは使う。


 名前も。

 借りも。

 敵の言葉も。

 この街の黒い泥も。


 夜の最後に、ハルが寝言のように呟いた。


「トム、悪いな」


 俺はそれを聞いた。


 返事はしなかった。


 トムはもう返事をしない。


 だが、その名はまだ、この宿の中に残っていた。


 ギルドの帳簿より先に、ここに残っていた。


 俺はそれを覚えておくことにした。


縄で寝る寝床は産業革命期のイギリスに実在します。著名な写真も残っているので興味のある方は調べてみてください。

朝鮮人民軍の待遇等は、報道による情報を参考にしました。

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