第三話 帳簿の街
ブラックミアの門をくぐった瞬間、音が変わった。
外の湿地では、風と水と葦の音が支配していた。
中では違う。
車輪。
蹄。
鉄を打つ音。
蒸気の抜ける音。
怒鳴り声。
咳。
笑い声。
泣き声。
何かを売る声。
何かを拒む声。
街は生きていた。
だが、健康な生き物ではない。
煤を吸い、泥を吐き、腹の中で人間を擦り潰しながら、それでも動き続ける獣のようだった。
俺は、その姿に名前をつけた。
腐敗した資本の街。
祖国の教育で、何度も聞かされた言葉だ。
人間が人間の主人ではなく、金と契約と所有物の下に置かれる社会。
人民が自分の足で立つのではなく、誰かの帳簿と工場と酒場に繋がれて生きる社会。
目の前の街は、その挿絵に似ていた。
煤で汚れた子ども。
痩せた老人。
同じ道を歩いているのに、同じ高さを歩いていない人間たち。
俺はまだ、この街の制度を知らない。
だが、匂いは知っている。
敵の宣伝画に描かれていた資本主義の腐臭。
人民を主人にしない社会の匂い。
そう判断した瞬間、自分の中で何かが少し落ち着いた。
知らない土地。
知らない獣。
知らない言葉。
それでも、敵の形だけは見える。
人民を食うものは、どこへ行っても似ている。
道の両側には煉瓦の建物が並んでいた。
窓の小さい長屋。
壁に黒い筋の残る工場。
扉の前に樽を積んだ酒場。
歯の抜けた老人が座る修理屋。
油と煙で黒くなったパン屋。
子どもが走っている。
裸足に近い靴。
煤で汚れた顔。
痩せた腕。
だが、足だけは速い。
彼らは担架を見て、一瞬だけ静かになった。
それからまた走り出した。
この街では、担架は珍しくないらしい。
トムの呼吸は、さらに浅くなっていた。
担架の板に血が染みている。
エリーは横を歩きながら、何度も杖を握り直した。
だが、もう光は出していない。
出せないのだろう。
ハルは前を見て歩いていた。
顔は硬い。
だが、歩く速さは落とさない。
ニックは何度も後ろを振り返り、俺の背中の銃を見るたびに目を逸らした。
俺は周囲を確認し続けた。
窓。
路地。
屋根。
見張り台。
人混みの中でこちらを見すぎている者。
街の中は戦場より難しい。
遮蔽物が多い。
民間人が多い。
射線が複雑。
敵と無関係な者の区別がつきにくい。
誰が敵かわからない以上、銃は見せすぎるのもよくないだろう。
だが、今さら完全には隠すのは難しい。
ハルが小声で言った。
「ソック」
「何だ」
「その背中のやつ、布で巻けるか」
「なぜ」
「見られてる」
「知っている」
「知ってるなら巻け。ここじゃ、変わった武器は金になる。金になるものは、だいたい面倒を呼ぶ」
俺は少しだけハルを見た。
悪くない助言だ。
俺は軍服の破れた外套を外し、狙撃銃の上から巻いた。
完全には隠れない。
だが、形はぼやける。
ニックがそれを見て言った。
「魔導弩ってことにすればいい」
「魔導弩?」
「高い連中が使う変な弩だ。音はしないけど」
魔導弩。
その単語を覚える。
嘘は、土地の言葉でつく方がよい。
*
ギルドは、街の中心にあった。
大きな建物だった。
石造りの土台。
黒く煤けた煉瓦の壁。
正面には、剣と帳簿を組み合わせた紋章。
入口の上には、古い文字で何かが彫られている。
ハルが言った。
「ブラックミア冒険者ギルド」
俺は建物を見上げた。
役所のようでもあり、兵舎のようでもあり、銀行のようでもあった。
扉の前には人が多い。
血のついた包帯を巻いた男。
泥だらけの女。
鉄の籠を背負った少年。
剣を腰に下げた老人。
荷物を抱えた商人。
革鎧の一団。
きれいな外套を着た若い男たち。
全員が同じ場所に並んでいる。
だが、同じ人間として扱われているようには見えなかった。
扉番は、ハルの顔を見ると面倒そうに眉をひそめた。
「またお前か、ハル」
「負傷者だ。依頼中。沼地街道。黒血種」
扉番の顔色が少し変わった。
「黒血種?」
「見りゃわかる。証拠もある」
ハルは、俺が切り取った黒い毛皮と牙の破片を見せた。
扉番はそれを見て、舌打ちした。
「受付へ行け。治癒窓口は右だ」
「担架だぞ。先に治療師を呼べ」
「規則では受付記録が先だ」
その言葉で、ハルの顔が変わった。
「規則?」
「俺に怒鳴るな。中で言え」
ハルは何かを言い返そうとしたが、トムが血を吐いた。
エリーが叫んだ。
「早く!」
俺は担架を持ち直した。
「押し通る」
ハルが一瞬こちらを見た。
俺の声は低かった。
扉番も気づいた。
彼は俺の背中の布巻きの武器を見て、次に俺の目を見た。
それから、少しだけ横へずれた。
「……右だ」
俺たちはギルドの中へ入った。
*
中は広かった。
高い天井。
梁から吊るされた魔導灯。
壁一面の依頼票。
長い受付台。
奥へ続く扉。
左右には待合の椅子と、立ったまま酒を飲む者たち。
臭いは外より濃い。
汗。
革。
血。
薬草。
インク。
古い紙。
湿った金属。
ハルが右側の窓口へ向かった。
「治療師を呼べ! 胸をやられてる!」
受付の女が顔を上げた。
年齢は三十前後。
髪をきつくまとめ、袖口にインクの跡がある。
目の下に疲労が沈んでいた。
彼女はトムを見て、すぐに鐘を鳴らした。
「負傷者一名、重傷。治癒師、処置室へ」
奥から二人の男が走ってきた。
一人は白い前掛けをした治療師。
もう一人は助手らしい。
彼らはトムを見るなり、顔をしかめた。
「処置室へ」
担架を受け取ろうとした。
俺は手を離さなかった。
治療師が俺を見る。
「離せ」
「落とすな」
「離せと言った」
俺は一秒だけ彼の手元を見た。
震えてはいない。
動きも悪くない。
ここでは、彼の方が専門家だ。
俺は担架を渡した。
エリーがついていこうとする。
助手が止めた。
「関係者は外で待って」
「私、治癒補助です!」
「外で待って」
「でも――」
ハルがエリーの肩を掴んだ。
「エリー」
「でも、ハル、私、まだ――」
「今は待て」
処置室の扉が閉まった。
エリーはその場で立ち尽くした。
俺は扉を見た。
助からない、おそらく。
だが、言わなかった。
*
受付の女は、すぐに紙を出した。
「依頼番号」
ハルが血のついた手で革袋を探り、折れた木札を出した。
「沼地街道、荷馬車護衛。危険度二。沼犬一体または小型魔物」
受付の女は木札を受け取り、帳簿を開いた。
「受注者」
「ハル・ブレンナー、ニック・ロウ、トム・エイカー、エリー・フェン」
「登録等級」
「銅級四等。エリーは仮補助」
「負傷者」
「トム」
「死亡確認はまだですか」
ハルの拳が受付台を叩いた。
「まだ生きてる!」
広間の何人かが振り向いた。
受付の女は顔を変えなかった。
「確認です」
「確認?」
「死亡した場合、処理が変わります」
ハルは言葉を失った。
俺は女を見た。
彼女は冷たいのではない。
疲れている。
そして、慣れている。
慣れている者は、残酷に見える。
「実際の遭遇魔物」
受付の女が続けた。
ハルは牙の破片と黒い毛皮を出した。
「黒血種」
女の手が止まった。
「黒血種?」
「ああ」
「討伐証明は」
ハルが俺を見た。
俺は言った。
「頭部を破壊。死骸は湿地に残置。牙片、毛皮を採取」
受付の女が初めて俺を正面から見た。
「あなたは?」
「同行者」
「登録冒険者ですか」
「違う」
「では証言者ですね。名前は」
俺は少し黙った。
ここで名前を出すことに意味があるか。
ただし、完全に拒否すれば不審になる。
負傷者の処理にも影響する可能性がある。
「オ・バンソク」
女は羽根ペンを止めた。
「もう一度」
「オ・バンソク」
彼女は眉をひそめ、発音しようとした。
「オヴァン……ソック?」
ハルが横から言った。
「ソックでいい。湿地で拾った助っ人だ」
「拾った?」
受付の女はますます嫌な顔をした。
「身元不明者を依頼に同行させたのですか」
「同行させたんじゃない。黒血種に襲われてるところを助けられた」
「武装は」
彼女の視線が、俺の背中の布巻きに移った。
広間の空気が少し変わった。
何人かの冒険者がこちらを見ている。
俺は答えた。
「弩」
ニックがすかさず言った。
「変わった魔導弩です。田舎の、古い型の」
ハルがニックを睨んだ。
受付の女は疑わしげだったが、深く追及しなかった。
「未登録武装者。仮証言者。名称、ソック」
「違う」
俺は言った。
女は顔を上げた。
「正式な綴りが必要ですか」
正式な綴り。
この土地の文字で、自分の名をどう書くのか。
俺は知らない。
オ・バンソクという音を、この文字でどう表すべきかも知らない。
女は待っている。
広間は騒がしい。
処置室の扉は閉まったまま。
ハルは苛立っている。
エリーは泣きそうに立っている。
名前に時間を使う場面ではない。
「今は、ソックでいい」
俺は言った。
受付の女は帳簿に書いた。
SOCK.
その四文字が、俺の目に入った。
ソック。
この土地で、俺はそう記録された。
名前は、自分のものだと思っていた。
だが、帳簿に書かれた瞬間、名前は他人が使うものになる。
俺はその不快感を覚えた。
同時に、利用できるとも思った。
オ・バンソクを知られないことは、悪くない。
*
処置室の扉が開いた。
治療師が出てきた。
彼の前掛けには血がついていた。
エリーが飛びつくように近づく。
「トムは?」
治療師は少しだけ目を伏せた。
「処置中です」
「助かるんですか」
「……できることはしています」
その言い方で、ハルの顔が崩れた。
ニックは壁にもたれた。
エリーは首を振った。
「私も入れてください。私、治癒を――」
「もう必要ありません」
治療師は言った。
その言葉は、刃物のようだった。
エリーの顔から血の気が引いた。
「必要、ない?」
「そういう意味では――」
「私のせいですか」
「違います」
「私が、もっと早く光を――」
「違います」
治療師は少し苛立った声になった。
「胸郭が潰れています。肺も損傷している。君の治癒術でどうにかなる傷ではありません」
それは正しい。
だが、言い方が悪い。
エリーはその場に崩れそうになった。
俺は言った。
「お前のせいではない」
彼女が俺を見た。
涙で目が濡れている。
「でも、私が」
「お前の治癒では、あの損傷は戻せない」
俺は続けた。
「戦場なら、医師でも難しい。機材があっても厳しい。お前の手の問題ではない」
エリーは何も言わなかった。
理解したかどうかはわからない。
だが、少なくとも言葉は届いた。
治療師が俺を見た。
「あなたは医師ではないと言いましたね」
「違う」
「では、断定しないでください」
「死にかけた人間は見てきた」
治療師は何かを言おうとして、やめた。
その時、処置室の奥から声がした。
短い。
かすれた声。
ハルが反応した。
「トム!」
治療師は止めようとしたが、ハルは押しのけて入った。
エリーも続いた。
ニックも。
俺は数歩遅れて入った。
処置室は狭かった。
木の台。
水桶。
血のついた布。
薬草の匂い。
青白い石のはめ込まれた器具。
トムは台の上に横たわっていた。
胸には布が巻かれている。
だが、血が滲んでいる。
顔は灰色に近い。
彼の目は、半分だけ開いていた。
ハルが手を握る。
「トム」
トムの唇が動いた。
「……妹……」
今度は、はっきり聞こえた。
ハルが頷いた。
「ああ。わかってる。送る。ちゃんと送る」
「金……」
「送る。俺が送る」
嘘だ。
そう思った。
だが、今は必要な嘘だ。
トムの目がわずかに動いた。
エリーを見た。
「泣くな」
エリーは泣いた。
トムは笑おうとした。
できなかった。
呼吸が一度、大きく乱れた。
治療師が何かしようとした。
だが、途中で手を止めた。
トムの胸が、もう一度だけ上下した。
それが最後だった。
部屋の中で、音が消えた。
砲撃の後の静けさに似ていた。
誰かが死んだ直後の、短い空白。
戦場では、その空白はすぐに次の命令で埋まる。
ここでは違った。
エリーの泣き声が、空白を破った。
*
死亡処理は、すぐに始まった。
遺体がまだ温かいのに。
受付の女とは別の男が来た。
灰色の髪。細い眼鏡。黒い袖口。
彼は帳簿を持っていた。
「死亡者名」
ハルが睨んだ。
「今か」
「今です。時間記録が必要です」
「トム・エイカー」
「登録番号」
ハルは答えられなかった。
ニックが震える手で木札を出した。
灰色髪の男はそれを見て、記録した。
「保険加入状況」
彼は別の帳簿をめくった。
「未加入」
ハルが顔を上げた。
「待て。あいつは入ってたはずだ」
「記録上は未加入です」
「先月、保険料を――」
「先月は滞納分の一部支払いです。保険再有効化には不足しています」
ハルの口が止まった。
灰色髪の男は淡々と続けた。
「死亡補償は基本支給対象外です。ただし、依頼危険度誤認の可能性があるため、審査申請は可能です」
「審査?」
「十四日以内に、討伐証明、依頼票、同行者証言、死亡診断、危険度不一致申立書を提出してください」
エリーが泣きながら言った。
「トムは死んだんですよ」
灰色髪の男は少しだけ彼女を見た。
「はい。ですので、死亡処理をしています」
俺は男を見ていた。
悪意はない。
それが、かえって悪かった。
悪意があるなら、撃てば終わる。
少なくとも、敵として処理できる。
だが、この男は帳簿を読んでいるだけだ。
帳簿が人を殺したわけではない。
だが、帳簿は死後の人間を分類する。
補償対象。対象外。審査可能。滞納。未加入。
死は、紙の上で小さな欄に入る。
ハルが言った。
「妹がいる。トムは妹に金を送ってた。死亡補償がなければ――」
「指定親族は登録されていますか」
「知らない」
「では確認が必要です。債務がある場合、指定親族または保証人に通知されます」
「債務?」
ニックが言った。
灰色髪の男は別の紙を見た。
「装備貸付残高。登録更新料滞納。宿泊紹介料。今回の治療費立替。遺体処理費。棺を使用する場合は棺代。搬送料。登録抹消手数料」
ハルが一歩前へ出た。
「ふざけるな」
「私は規則を読んでいます」
「トムは死んだんだぞ」
「はい」
「死んだ人間から、まだ取るのか」
灰色髪の男は、ほんのわずかに眉を動かした。
「故人からではありません。債務処理は、契約に基づきます」
契約。
その言葉が、部屋に落ちた。
俺はトムの遺体を一瞥した。
彼はもう何も聞いていない。
妹の名も、金の話も、契約も。
だが、彼の死体の横で、彼の債務はまだ生きている。
俺はその構造を理解し始めていた。
これは、祖国の帳簿と同じものではない。
祖国にも名簿はある。
所属があり、成分があり、配給があり、報告書がある。
人間は組織の中で位置を与えられる。
俺も、その中で育った。
だが、少なくとも俺は、それを人民を一つに束ねるためのものだと信じていた。
首領のもとで、党が人民を導く。
人民は国家の主人であり、兵士はその盾である。
そう教えられ、そう信じてきた。
ここにある帳簿は違う。
この帳簿は、人間を束ねない。
人間を守らない。
死んだ者の名を、さらに細かく切り分ける。
未加入。
滞納。
立替。
手数料。
債務。
一人の男が死んだ。
だが、この街では、それは悲しみではなく処理だった。
処理であり、請求であり、次の欄だった。
「資本が人を食う」
昔、政治教官がそう言った。
その時は、決まり文句だと思っていた。
いや、決まり文句として正しいのだと思っていた。
だが今、俺はその言葉を初めて、匂いと血のついた形で見ていた。
この街では、人間は死んでも帳簿から出られない。
*
ギルドを出た時、日は傾いていた。
空は相変わらず灰色で、煙突の煙が夕暮れを汚している。
トムの遺体はギルドの奥に残された。
ハルたちは葬儀と審査の手続きについて、明日また来るよう言われた。
明日。
死んだ直後に、明日の書類が生まれる。
エリーはほとんど歩けなかった。
ニックが支えている。
ハルは黙っていた。
俺も黙っていた。
広場の端で、ハルがやっと口を開いた。
「助けてくれたのに、悪いな」
「何が」
「こんなところを見せた」
俺はギルドの建物を振り返った。
「よくあることなのか」
ハルは笑った。
笑いではなかった。
「ブラックミアへようこそ。魔物に食われなければ、ギルドに食われる街だ」
その言葉を、俺は覚えた。
ハルは続けた。
「行くところはあるのか」
「ない」
「金は」
「この土地の金はない」
「だろうな」
彼は頭をかいた。
「うちの安宿に来い。登録料は……まあ、あとで考える」
「なぜだ」
「何が」
「なぜ俺を助ける」
ハルは俺を見た。
彼は少し困った顔をした。
「お前が先に助けた」
「それだけか」
「それだけで足りないか」
俺は答えられなかった。
軍では、助ける理由は所属にある。
同じ部隊。同じ祖国。同じ命令。
理由が先にあり、行動が続く。
ハルは逆だった。
助けられた。
だから助ける。
単純すぎる。
だが、単純すぎるものは、時々強い。
俺は言った。
「借りにする」
「好きにしろ」
ハルは歩き出した。
俺も続いた。
背中には、布で巻いた狙撃銃。
内懐には、将軍から下賜された拳銃。
頭の中には、ギルドの帳簿に書かれた四文字。
SOCK.
この街は、俺をそう呼ぶらしい。
オ・バンソク。
朝鮮人民共和国の兵士。
北の死神。
将軍の武器。
それらはまだ俺の中にある。
だが、ブラックミアの帳簿には、別の名が書かれた。
ソック。
湿地で拾われた、未登録武装者。
俺はその名を好まなかった。
だが、この街で生きるには、まずその名で動くしかない。
夕暮れの黒泥が、軍靴にまとわりつく。
遠くでギルドの鐘が鳴った。
一人が死んだ。
帳簿が増えた。
俺の名も、その帳簿の端に加わった。




