第2話 黒い獣
葦の向こうには、俺の知る戦場ではない戦場があった。
最初に見えたのは、横倒しになった荷馬車だった。
車輪が一つ外れ、黒い泥に半分沈んでいる。積み荷の木箱が割れ、中から布袋と金属片のようなものがこぼれていた。馬は一頭が倒れ、もう一頭は綱に絡まって暴れている。
人間は四人。
一人は短剣。
一人は弓。
一人は槍。
一人は杖。
兵士ではない。
俺はまず、そう判断した。
装備が統一されていない。
隊形がない。
互いの位置取りが悪い。
後退路を確保していない。
倒れた荷馬車を遮蔽物として使う意識も薄い。
だが、完全な素人でもない。
短剣の男は恐怖を抑えて前に出ている。
弓の男は手が震えているが、矢を番える動作は早い。
槍の男は荷馬車と少女の間に立っている。
杖を持つ少女は、泣きそうな顔で何かを唱えていた。
戦闘経験自体がないわけではなさそうだ。
そして、その前に獣がいた。
狼に似ていた。
ただし、俺の知る狼ではない。
大きすぎる。
肩の高さは馬に近い。毛皮は濡れた煤のように黒く、皮膚の下で筋のようなものが鈍く光っている。口からは白い息ではなく、黒い煙に似たものが漏れていた。背には骨の突起が並び、動くたびに皮膚を内側から押し上げている。
俺はそれを、すぐには動物だと認識できなかった。
化学兵器の影響を受けた獣。
敵の実験体。
爆発による幻覚。
未知の装甲犬。
あるいは、俺の脳が白い光で壊れた結果。
いくつかの可能性が頭を走った。
だが、獣の爪が泥をえぐる音は本物だった。
馬の悲鳴も本物だった。
少女の震えた呼吸も本物だった。
幻覚かどうかは、あとで考えればいい。
今、あれには殺傷能力がある。
「下がれ! トム、下がれ!」
短剣の男が叫んだ。
英語に似た言葉。
単語の意味はかろうじて取れる。
だが、発音は古く、荒い。
槍の男、トムと呼ばれた男は下がらなかった。
「エリーを連れて行け!」
彼はそう叫び、槍を構えた。
構えが甘い。
俺はそう思った。
腰が高い。
足場を見ていない。
相手の重量を受けるには、踏み込みが浅い。
正面から受けるつもりなら、槍の角度が悪い。
獣が動いた。
速い。
だが、予備動作はあった。
右肩がわずかに沈む。後ろ足が泥を押す。首が低くなる。
突進。
トムの槍は獣の肩に触れた。
刺さったのではない。弾かれた。
次の瞬間、獣の頭部がトムの胸を叩いた。
音がした。
祖国での訓練で聞きなれた、骨が折れる音だった。
トムの身体が宙に浮き、荷馬車の車輪に背中から叩きつけられた。
彼は泥の上に落ち、動かなくなった。
少女が叫んだ。
「トム!」
弓の男が矢を放った。
矢は獣の首筋に当たった。
だが浅い。毛皮か皮膚の下にある何かで止まった。
獣は首を振り、矢を折った。
そして、少女の方へ向いた。
俺は狙撃銃を構えた。
迷う時間は短かった。
拳銃では距離と威力が足りない。
短刀では間に合わない。
接近して白兵戦に持ち込むには、相手の重量が大きすぎる。
銃を見せる危険はある。
音も出る。
この土地の武装水準が不明な以上、こちらの武器を知られるのは不利だ。
だが、撃たなければ少女が死ぬ。
俺は伏せた。
泥が軍服に染み込む。
頬に冷たい泥がつく。
左袖の焦げた布が水を吸う。
肩に銃床を当てる。
呼吸。
視界が細くなる。
獣の全体を見るな。
頭だけを見るな。
動く中心を見る。
あれは狼ではない。
だが、動物である以上、跳ぶ前に重心が変わる。
どれだけ異様でも、骨があり、筋があり、重さがある。
重さがあるものは、重さから逃げられない。
獣が少女へ跳ぼうとした。
俺は引き金を引いた。
湿地に雷が落ちた。
銃声は、思ったより大きく響いた。
灰色の空の下、黒い葦の間を音が裂き、荷馬車の馬がさらに暴れる。
短剣の男が身をすくめ、弓の男は尻餅をついた。
少女は杖を抱えたまま硬直した。
獣の頭部が横へ弾かれた。
黒い血が飛んだ。
巨体は跳びかけた姿勢のまま崩れ、泥に叩きつけられた。
脚が一度痙攣する。
爪が泥をかく。
口から、黒い煙のような息が漏れる。
それから、動かなくなった。
俺は照準を外さなかった。
一発で倒れたからといって、死んだとは限らない。
未知の生物だ。神経系も、急所も、俺の知る獣と同じ保証はない。
五秒。
十秒。
動かない。
俺は銃口をわずかに下げた。
一発。
頭の中で数えた。
残弾から一発減った。
それだけだ。
必要な支出だった。
だが、支出は支出だ。
俺はすぐに起き上がらなかった。
銃声の後に立ち上がる者は、撃った者だと教えているようなものだ。
伏せたまま、頬を泥につけ、葦の隙間から荷馬車の周囲を見た。
短剣の男は、こちらを見ていなかった。
彼は音のした方を探していた。
正確には、音が来たと感じた方を探していた。
だが、湿地では音が割れる。
水面。
葦。
車輪。
馬の悲鳴。
獣が倒れた衝撃。
雷のような銃声は、どこから来たのか分からなくなる。
弓の男は尻餅をついたまま、空を見ていた。
少女は杖を抱えたまま固まっている。
短剣の男だけが、獣と周囲を交互に見ていた。
まだ俺を見つけていない。
当然だ。
彼らは俺と戦っていたのではない。
あの獣と戦っていた。
死ぬ寸前の人間は、視界の外にいる狙撃手など探さない。
俺は銃を抱えたまま、葦の中を横へ移動した。
撃った場所に留まるな。
音のした場所に姿を出すな。
相手が混乱しているなら、その混乱を使え。
十歩。
二十歩。
泥が軍靴を吸う。
葦が頬をこする。
背後で、馬がまた鳴いた。
葦の陰へ移動し、周囲を確認する。
他の獣。なし。
射撃に反応した人影。なし。
荷馬車周辺、四人。
倒れた男、一人。
馬、一頭は死亡。一頭は拘束中。
短剣の男、こちらを見ている。
弓の男、まだ立てない。
少女、倒れた男へ走る。
俺は荷馬車の斜め後ろに出た。
その時、短剣の男が初めて俺を見た。
彼の目が大きくなる。
顔を見る。
軍服を見る。
背中へ戻しかけた銃を見る。
理解ではない。
発見だった。
「……お前、どこから」
短剣の男の声はかすれていた。
俺は答えなかった。
知られるべきではない。
この武器は、この土地のものではない。
この土地がどこであれ、俺が持つ最大の優位の一つだ。
優位は、使うより先に隠すものだ。
俺は狙撃銃を背へ戻した。
その動きだけで、短剣の男が一歩下がった。
弓の男も、遅れて俺に気づき、息を呑んだ。
彼らは俺を見ていたのではない。
獣を倒した何かを探していた。
そして今、その何かが人間の形をして目の前に立った。
恐怖。
それは正しい反応だ。
理解できない武器を持つ人間に、近づくべきではない。
俺は現地語に切り替えようとして、最初に朝鮮語が出た。
「소속을 대라。」
短剣の男は眉をひそめた。
「何だって?」
通じていない。
俺は舌打ちを飲み込み、知っている英語で話しかけた。
「身元を示せ。所属。階級」
男は口を開けたまま俺を見た。訛りのせいで聞き取りが難しかった様子だが、なんとか通じたようだ。
「あ?階級? 所属? お前、軍人なのか?」
軍人なのか。
質問の仕方が逆だ。
俺から見れば、彼らこそ何者なのかわからない。
武装している。
危険な獣と交戦していた。
しかし軍ではない。
民兵か。傭兵か。私兵か。武装商人の護衛か。
俺は言った。
「答えろ」
短剣の男は一瞬だけ顔をしかめた。
こちらの口調に腹を立てたのだろう。
だが、彼は倒れた獣を見て、次に俺の背の銃を見て、怒りを飲み込んだ。
「ハル・ブレンナー。ブラックミア・ギルド所属の冒険者だ」
冒険者。
俺はその単語を知っている。
南朝鮮で流行っている物語の中の言葉だ。
兵士ではなく、傭兵でもなく、自由に旅をして怪物を倒す者。
だが、目の前の男は物語の英雄には見えなかった。
泥にまみれ、顔に古い傷があり、革鎧は補修だらけだ。
手は荒れ、目の下には疲労が溜まっている。
彼の短剣はよく研がれているが、柄の革紐は何度も巻き直されている。
自由な英雄というより、危険な仕事を続ける労働者に見えた。
「ここはどこだ」
俺は聞いた。
ハルは目を細めた。
「何?」
「地名を言え」
「黒泥地方、ブラックミア市の西の湿地だ」
黒泥地方。
ブラックミア。
知らない。
俺の地図にはない。
「国は」
「アルバ王国」
アルバ。
それも知らない。
俺が黙っていると、ハルはさらに眉を寄せた。
「……本当に知らないのか。アルビオン連合王国の北の王国だ。ここはアルバ王国、黒泥地方、ブラックミア市の外れだ」
「アルビオン連合王国」
知らない。
俺は表情を変えなかった。
知らない地名が続くことは、いま重要ではない。
重要なのは、彼が迷わず答えたことだ。
つまり、この男にとっては当然の地名だ。
俺が知らないだけか。
それとも、俺の知る世界ではないのか。
後者はまだ考えない。
考えても、今は役に立たない。
少女の泣き声が聞こえた。
「トム、トム、目を開けて!」
俺はそちらを見た。
トムと呼ばれた槍の男は、まだ息があった。
だが、長くはない。
胸が不自然にへこんでいる。
口元から泡混じりの血が出ている。
呼吸が浅い。
右の肺が潰れている可能性が高い。
肋骨が複数折れている。
内出血もある。
野戦病院でも厳しい。
ここでは、おそらく助からない。
少女は杖を握った。
彼女の手が震えている。
目は涙で濡れ、唇は血の気を失っている。
「お願い、お願いだから……」
彼女が何かを唱えた。
次の瞬間、杖の先に青白い光が灯った。
俺は反射的に銃へ手を伸ばしかけた。
光。
発煙弾ではない。
照明装置でもない。
電気火花とも違う。
少女の杖から出た光は、柔らかく、湿った空気の中で震えながらトムの胸へ落ちた。
傷口の血が、わずかに止まる。
俺は目を細めた。
医療装置か。
未知の技術か。
手品ではない。
光とともに、トムの呼吸が一瞬だけ変わった。
だが、胸の形は戻らない。
骨は戻らない。
内部の損傷も、おそらくそのままだ。
少女はさらに光を強めようとした。
しかし、杖の先が震え、光が途切れる。
「エリー、無理だ!」
ハルが叫んだ。
「やらせて!」
少女、エリーは泣きながら叫んだ。
「私が、私がもっと早く……!」
俺は近づいた。
エリーがこちらを見上げる。
警戒。恐怖。怒り。助けを求める目。
その全部が混ざっていた。
「どいて」
俺は言った。
ハルが間に入ろうとした。
「何をする気だ」
「確認する」
「医者なのか」
「違う」
「なら」
「兵士だ」
ハルは一瞬黙った。
俺はトムの横に膝をついた。
脈。弱い。
呼吸。浅い。
意識。ほとんどない。
出血。外傷より内側が問題。
俺はトムの目を見た。
焦点が合っていない。
彼は何かを言おうとした。
音にならない。
俺は顔を近づけた。
「……妹……」
そう聞こえた。
あるいは、俺がそう聞いたかっただけかもしれない。
戦場で死にかける者は、よく似た言葉を口にする。
母。
妻。
子。
妹。
水。
寒い。
置いていくな。
思想や国家や英雄の名は、最後にはあまり出ない。
出る者もいる。
だが、多くは違う。
人は最後に、国ではなく誰かの名を探す。
俺はそれを何度も見ていた。
それでも、報告書には書かなかった。
「助かるのか」
ハルが聞いた。
俺は答えなかった。
答えないことで、彼は理解したらしい。
ハルの顔が歪んだ。
「くそ……ギルドは沼犬一匹だと言った。一匹だけだと。黒血種だなんて聞いてない」
黒血種。
それがあの獣の名前か。
あるいは分類か。
俺は倒れた獣を見た。
頭部は銃弾で砕け、黒い血が泥に混ざっている。
近くで見ると、やはり狼ではない。
骨の突起。皮膚の下の黒い筋。煙のような呼吸。
魔物。
その単語がハルの口から出た。
「魔物の情報が間違ってたんだ。あいつら、また安く流しやがった」
魔物。
ハルの話す英語のような言語ではそう聞こえた。
俺はその言葉を心の中で反復した。
魔物。
彼らにとっては、現実の分類らしい。
俺はまだ受け入れなかった。
だが、否定もできなかった。
*
トムを運ぶことになった。
助からない可能性が高い。
だが、置いていくわけにはいかない。
少なくとも、この者たちはそう考えていた。
それは悪くない。
軍では、状況によっては置いていく。
それが正しい場合もある。
遺体を運ぶために生者を死なせてはならない。
だが、可能なら運ぶ。
人間を泥の上に置いたまま立ち去ると、部隊の中に何かが残る。
それは恐怖よりも厄介だ。
俺は荷馬車の割れた板を見た。
「これを使う」
ハルが言った。
「何を?」
「担架を…」
俺は朝鮮語で言いかけ、すぐに英語へ直した。
「板。布。縄。早く」
ハルは一瞬戸惑ったが、すぐに動いた。
弓の男はまだ青い顔をしていた。
俺は彼を見た。
「お前。縄を切れ」
「俺?」
「他に誰がいる」
彼は反射的に動いた。
兵士ではない。
だが、強い声には従う。
前線で何度も見た反応だ。
俺はエリーに言った。
「布を押さえろ」
彼女は泣きながら頷いた。
トムを持ち上げる時、彼が呻いた。
胸を動かさないようにしなければならない。
だが、この場に固定具はない。
板も歪んでいる。
布も汚れている。
完璧な搬送はできない。
できるのは、今より悪くしないことだけだ。
「合図で上げる」
俺は言った。
ハルが頷く。
弓の男も頷く。
エリーは涙を拭い、トムの肩側に回った。
「一、二、三」
持ち上げる。
トムの顔が歪む。
口から血が漏れる。
エリーが息を呑んだ。
「見るな」
俺は言った。
「前を見ろ。足元を見ろ。落とすな」
彼女は震えながら頷いた。
俺たちはトムを担架に乗せた。
その間、俺はずっと周囲の音を聞いていた。
銃声を聞いた者が来る可能性。
獣が複数いた可能性。
この者たちの敵が追ってくる可能性。
俺を狙う者がいる可能性。
どれも排除できない。
だが、何も来なかった。
湿地は、何事もなかったように風を鳴らしている。
俺は倒れた黒血種を見た。
「死骸は置くのか」
ハルは苦い顔をした。
「本当は牙と血袋を取る。証拠にもなる。金にもなる」
「なら取れ」
「トムが先だ」
その判断は遅い。
しかし、悪くない。
俺は短刀を抜き、獣の口元へ近づいた。
ハルが驚いた。
「おい、何を」
「牙が証拠なら取る」
「できるのか」
俺は答えず、獣の口を開いた。
顎が重い。
歯は硬く、根が深い。
短刀だけでは時間がかかる。
無理にやれば刃を痛める。
俺は方針を変え、折れて泥に落ちていた牙の破片を拾った。
それから、獣の血で濡れた黒い毛皮の一部を切り取る。
「これで足りるか」
ハルはそれを見て頷いた。
「たぶん」
「たぶんでは困る」
「ギルド次第だ」
その言い方に、俺は顔を上げた。
ギルド次第。
この男たちの生死の後処理は、彼ら自身ではなく、別の組織が決めるらしい。
俺はその言葉を覚えた。
*
ブラックミアへ向かう道は、湿地の上を蛇のように続いていた。
道と呼ぶには悪い。
泥を踏み固め、ところどころに板を置いただけだ。
馬車の轍には黒い水が溜まり、足を置くたびに靴底が沈む。
俺は担架の後ろ側を持った。
ハルが前。
弓の男は荷物を背負い、エリーはトムの横を歩いた。
弓の男はニックと名乗った。
彼は何度も俺の背中を見た。
正確には、俺の背負った銃を見た。
「それ、本当に魔導銃じゃないのか」
ニックが言った。
俺は答えなかった。
ハルが睨む。
「詮索するな」
「だって、あんな音……」
「助かったんだ。今はそれでいい」
ニックは黙った。
ハルは俺に言った。
「悪い。あいつは怖がってる」
「正しい」
「何が」
「理解できない武器を怖がるのは正しい」
ハルは少しだけ笑った。
「そうか。じゃあ俺も正しいな」
「お前も怖いのか」
「当たり前だろ。昨日まで見たこともない武器で、黒血種の頭を一発で吹き飛ばした男が、いきなり湿地から出てきたんだぞ」
俺は答えなかった。
ハルは続けた。
「だが、助けられた。だから、今は怖がるだけにしておく」
悪くない判断だ。
俺はハルの評価を少し上げた。
エリーが小さく言った。
「あの…お名前は?」
俺は一瞬、自分に話しかけられていると気づかなかった。
彼女はこちらを見ていた。
「お名前は何と呼べばいいですか?」
ハルが言った。
「さっき名前を聞いてなかったな」
俺は少し迷った。
名を明かすべきか。
所属を明かすべきか。
階級を明かすべきか。
敵地では、情報は渡さない。
だが、完全に黙れば不信を招く。
そして俺は今、彼らと共に負傷者を運んでいる。
「オ・バンソク」
俺は名を明かすことにした。
ハルが聞き返した。
「オヴァン……何だって?」
「オ・バンソク」
「オヴァン・ソック?」
「違う」
「じゃあ、ソックさんか」
「違う」
ハルは肩をすくめた。もう一度自身の名を伝えたが、うまく伝わらなかった。
「悪いが、俺の舌では難しい。ソックでいいか」
よくはない。
だが、訂正に時間を使う価値があるか。
俺は少し考えた。
この土地で、オ・バンソクという名前は通りにくい。
通りにくい名前は、覚えられにくい。
覚えられない名前は、呼ばれない。
呼ばれない者は、場から外れる。
俺は言った。
「今はそれでいい」
ハルは頷いた。
「じゃあ、ソック。俺はハル。こっちはニック。そこの子がエリー。担架の上の馬鹿がトムだ」
エリーが涙声で怒った。
「馬鹿って言わないで」
ハルは一瞬、顔を歪めた。
「悪い」
トムは答えなかった。
呼吸はさらに浅くなっている。
ブラックミアまで持つかどうか。
俺はわからなかった。
*
道の先に、街が見えた。
煙突が並んでいる。
黒い煙が低い雲へ吸い込まれていく。
運河の水は鉛のように鈍く、橋の上には荷を引く馬と、背中を丸めた人々が見えた。
街の周囲には石壁があるが、軍事要塞というより、泥と貧民と獣を外へ押し戻すための壁に見えた。
ブラックミア。
ハルがそう呼んだ街。
俺はその街を見て、英国の工業都市を思い出した。
過去に駐英国武官補佐として見た、古い写真や博物館の模型。
煤けた煙突。
煉瓦の工場。
労働者の長屋。
雨と煙と貧困の匂い。
だが、目の前の街は、それとは違う。
煙の匂いに、金属と薬品と、何か甘く腐ったような匂いが混ざっている。
壁の上には、弓を持つ見張りと、杖を持つ見張りが並んでいる。
門の横には、剣と帳簿の紋章が掲げられていた。
この世界。
俺はその言葉を頭から追い払った。
まだ早い。
ここがどこであるにせよ、まずは情報だ。
街。
組織。
言語。
通貨。
敵。
補給。
そして、帰還の可能性。
ハルが門番へ叫んだ。
「負傷者だ! ギルド依頼、沼地街道!」
門番は担架を見た。
次に俺を見た。
俺の軍服で目が止まり、背中の銃でさらに止まった。
「そいつは?」
ハルが答えた。
「助っ人だ」
「登録は?」
「これからだ」
門番は嫌そうな顔をした。
「また面倒なのを拾ってきたな」
また。
その言葉が引っかかった。
この街には、身元不明の者が時々来るのか。
それとも、ただの言い回しか。
聞く前に、トムが大きく咳き込んだ。
血が担架の板に落ちる。
エリーが叫んだ。
「早く!」
門番は舌打ちし、門を開けた。
「ギルドへ運べ。救貧院は満床だ」
救貧院。
ギルド。
満床。
単語だけが積み上がっていく。
俺たちは門をくぐった。
ブラックミアの匂いが、正面から来た。
煙。
泥。
血。
油。
馬糞。
安い酒。
焼けたパン。
人間の汗。
ここは戦場ではない。
だが、どこか人間が削られる匂いがした。
俺は担架を握り直した。
背中には狙撃銃。
内懐には将軍様から下賜された拳銃。
足元には知らない街の黒い泥。
俺はまだ、自分がどこにいるのか知らない。
だが、唐突に祖国で教えられたことを一つ思い出した。
人間は、国家の中では一人の人間である前に、所属であり、番号であり、役割だった。
この街では、それが国家ではなくギルドに置き換わっているのかもしれない。
そう思った瞬間、俺は自分の考えを打ち切った。
まだ早い。
判断するには、情報が足りない。
ここも同じなのか。
俺はまだ、そう断じるほどこの街を知らない。
ただ、担架の上で息を細くしている男の処遇より先に、登録という言葉が出た。
その事実だけは、覚えておくべきだった。




