第8話 笑顔の射線
ギルドの扉をくぐる前に、ソユンは髪を直した。
乱れていた前髪を指で押さえ、革上着の襟を少し整え、腰の投げナイフが見えすぎない位置へずらす。
それから、一度だけ息を吸った。
表情が変わった。
さっきまでの彼女は、釜山出身の南の女だった。
俺に怒り、戦争の話で顔色を失い、ステージの夢をくだらないと言われて本気で腹を立てた人間だった。
だが、今の彼女は違う。
笑っている。
ただし、気を許した笑みではない。
相手に警戒させすぎず、かといって軽く見られすぎない位置を探った笑みだ。
目は笑いすぎていない。口元だけが柔らかい。肩の力は抜けているが、足の向きはいつでも退けるように斜めに開いている。
俺はその変化を見ていた。
兵士が交戦前に銃を点検するように、彼女は顔を点検した。
「何見てるの」
ソユンが朝鮮語で言った。
「準備を見ていた」
「準備?」
「戦闘前の」
「やめて。その言い方」
「では何と言う」
「接客前」
「敵に接するのか」
「客にも敵にも接するの」
彼女は現地語に戻した。
「行きます」
ハルが呆れたように言った。
「頼もしいんだか怖いんだかわからんな」
「両方でいいです」
ソユンはそう言って、ギルドの広間へ入った。
*
広間は相変わらず騒がしかった。
依頼を探す者。
報酬を受け取る者。
治療費で揉める者。
壁際で眠る者。
酒の匂いを漂わせる者。
昨日の死をまだ知らない顔で笑う者。
俺はまず、出口を確認した。
正面扉。
右奥の処置室。
左の階段。
受付裏の扉。
二階の手すり。
壁際の警備員二人。
銃は使わない。
この距離、この人数、この密度では不適切だ。
短刀もできるだけ抜かない。
ここでは、戦うなら紙と声だ。
俺には不慣れな武器だった。
ハルが追加報酬窓口へ向かった。
昨日とは別の受付だった。
中年の男。髪を後ろへ撫でつけ、細い鎖で眼鏡を首から下げている。机の上には帳簿が三冊。依頼票の控え。砂時計。封蝋。
男はハルを見るなり、面倒そうな顔をした。
「依頼達成報告ですか」
「運河倉庫、灰鼠駆除。追加報酬の申請だ」
「依頼票を」
ハルは紙を出した。
男は受け取り、目を通す。
「危険度一。灰鼠三から五。報酬、銅貨二十」
「実際は八以上。繁殖母がいた」
男の眉が動いた。
「証拠は」
ニックが布包みを出した。
繁殖母の牙。
黒い斑点のある皮膚。
目の一部。
受付の男はそれを見たが、手を伸ばさなかった。
「鑑定窓口へ」
ハルの声が荒くなる。
「鑑定してからじゃないと話もしないってか」
「規則です」
「倉庫番長は追加十枚に同意した」
「書面は」
ハルは詰まった。
受付の男は、最初からそこを待っていたように見えた。
「口頭合意は、依頼主確認が必要です」
「本人が言った」
「本人確認が必要です」
「証人がいる」
「証人の登録等級は」
ハルの顔が歪む。
ニックは銅級。
俺は仮登録。
ソユンは依頼参加者ですらない。
男は帳簿を閉じかけた。
「では、鑑定後に改めて申請を――」
「すみません」
ソユンが前に出た。
声が柔らかい。
受付の男が顔を上げる。
「あなたは?」
「ハン・ソユンです。今回の依頼の終盤、倉庫外に逃げた灰鼠を一匹処理しました。正式な依頼参加者ではありませんが、外部被害の証言者です」
受付の男は少し眉をひそめた。
「外部被害?」
ソユンは笑顔を崩さなかった。
「はい。依頼票では倉庫内の小型灰鼠三から五とされていました。しかし実際には繁殖母がおり、個体数は少なくとも八以上。さらに一匹が倉庫外へ出て、運河沿いの通行人へ向かいました」
彼女は自分を指した。
「私です」
「怪我は?」
「ありません。処理しましたので」
「なら被害は発生していません」
受付の男は即座に言った。
早い。
この男は、被害を負傷や損壊に限定して処理しようとしている。
ソユンは一度頷いた。
「はい。実害は発生していません」
認めた。
俺は少し意外に思った。
だが、彼女は続けた。
「ですから、今回の記録は『外部被害なし』で済みます。ただし、それは偶然通行人が自衛できたからです。もし通行人が子どもや荷運びだった場合、外部被害として記録された可能性があります」
周囲の冒険者が、少しずつこちらを見始めた。
ソユンは声を張っていない。
だが、届く。
言葉の高さを、広間のざわめきの隙間に合わせている。
舞台に立つ人間の声だ。
受付の男はそれに気づいたのか、声を低くした。
「ここで議論する内容ではありません」
「では、どこで議論すればよいでしょうか」
「正式な申請書を」
「その申請書の名称を教えていただけますか。危険度不一致申立書ですか。それとも外部流出魔物報告書ですか」
受付の男が止まった。
周囲の視線が増える。
ハルが小声で言った。
「そんな書類あるのか?」
俺は答えた。
「今、探っている」
ソユンは知らない書類名を並べたのではない。
相手に、どの書類で処理するかを言わせようとしている。
受付の男は咳払いをした。
「危険度不一致申立で十分です」
「では、それをください」
「鑑定後です」
「鑑定前の仮申立はできませんか」
「原則として――」
「原則ではなく、今回できるかを確認したいです」
受付の男の表情が硬くなった。
ソユンは笑ったままだ。
だが、俺にはわかった。
彼女は男の逃げ道を一つずつ塞いでいる。
撃たない。
脅さない。
だが、退路を削る。
射線はある。
ただ、弾が言葉なだけだ。
*
受付の男は帳簿を開き直した。
「証拠品を鑑定窓口へ回します。結果は三日後」
ハルが声を上げる。
「三日? 今日金がいるんだ!」
「規則です」
「棺代がいるんだぞ」
「死亡処理は別窓口です」
その一言で、ハルが机を叩きかけた。
俺は彼の腕を押さえた。
ハルは俺を睨んだ。
「止めるな」
「ここで叩けば負ける」
「負けてるじゃねえか!」
「まだだ」
ソユンがこちらを見た。
その視線だけで、彼女は俺に一つ伝えた。
任せろ。
俺は手を離した。
ソユンは受付の男へ向き直った。
「三日後の鑑定結果を待つ場合、今回の追加報酬は支払い保留ですね」
「そうです」
「では、保留証を発行してください」
受付の男が眉をひそめた。
「保留証?」
「追加報酬申請を受け付け、証拠品を預かり、鑑定結果待ちで支払い保留になっていることを示す書面です」
「そのようなものは通常発行していません」
「では、証拠品を預けられません」
受付の男の目が細くなる。
「なぜです」
「証拠品だけ預けて、申請が受理されていないと言われたら困ります」
広間の中で、誰かが小さく笑った。
受付の男がそちらを見る。
ソユンはその一瞬を逃さなかった。
「私たちはギルドを疑っているのではありません。記録をはっきりさせたいだけです」
言葉は柔らかい。
しかし、意味は鋭い。
疑っている。
だが、疑っていると言わない。
受付の男は机の上の砂時計を見た。
列が少し伸びている。
後ろの冒険者たちが苛立ち始めている。
ソユンは、それも見ていた。
彼女は焦らない。
相手が時間を嫌がるのを知っている。
受付の男は低く言った。
「簡易預かり票なら出せます」
「そこに、追加報酬申請中と書けますか」
「証拠品預かり、とだけ」
「では、申請中であることはどこに記録されますか」
「帳簿です」
「その帳簿の該当行の写しはもらえますか」
「写しは有料です」
「いくらですか」
「銅貨二枚」
ハルが顔をしかめた。
「写しに二枚?」
受付の男は淡々と言った。
「規則です」
ソユンは少し考えた。
「では、銅貨二枚を差し引いても、追加報酬が出る場合は得ですね」
ハルが呆れた顔をした。
「まだ出るかわからん金から引くな」
「出させるために払うんです」
彼女は言った。
その声に迷いはなかった。
ハルはしばらく彼女を見て、革袋から銅貨を二枚出した。
「くそ。紙に金を払う日が来るとはな」
「もう来ています」
ソユンはそう言って、受付へ銅貨を置いた。
受付の男はようやく紙を出した。
細い字で記録を書く。
依頼番号。
運河倉庫。
危険度不一致。
証拠品預かり。
繁殖母と思われる個体部位。
申請者、ハル・ブレンナー。
同行者、ニック・ロウ、ソック。
外部証言者、ハン・ソユン。
ソユンは紙を受け取り、じっと読んだ。
「ここ、『繁殖母と思われる』になっていますね」
「鑑定前です」
「わかりました。では、倉庫外に灰鼠が出たことも追記してください」
「それは依頼外です」
「だからこそ追記してください」
受付の男は深く息を吐いた。
「あなたは何者ですか」
ソユンは笑った。
「通りがかりです」
また周囲で小さな笑いが起きた。
受付の男は諦めたように、追記した。
倉庫外に小型個体一体流出との証言あり。被害なし。
ソユンはそれを確認して、頭を下げた。
「ありがとうございます」
彼女は笑顔だった。
受付の男は疲れていた。
俺は、その勝敗を理解した。
銅貨十枚はまだ手に入っていない。
だが、申請は帳簿に残った。
証拠品の預かり票もある。
外部流出の証言も記録された。
この街では、記録されたものだけが次の戦場に進める。
ソユンは、その門をこじ開けた。
*
窓口を離れると、ハルは深く息を吐いた。
「疲れた」
「戦闘より疲れた顔をしている」
俺が言うと、ハルは睨んだ。
「あれは戦闘じゃないのか?」
「戦闘だ」
ソユンが言った。
「ただ、殴らないだけです」
ハルは笑った。
「俺は殴る方が向いてる」
「そういう人が多いから、向こうは書類で勝つんです」
ソユンの言葉に、ハルは黙った。
ニックが預かり票を覗き込んだ。
「これで追加報酬、出るかな」
「出る可能性は上がった」
ソユンが言う。
「でも、三日後にまた来ないといけません。倉庫番長が否認するかもしれないし、鑑定で大型灰鼠扱いにされるかもしれません」
ハルが顔をしかめる。
「じゃあ、まだ終わってない」
「終わってません」
「面倒だな」
「だから、向こうは面倒にしてるんです」
俺はその言葉を頭の中で反復した。
面倒にする。
障害物を置く。
距離を伸ばす。
疲れさせる。
諦めさせる。
それは撤退路への砲撃に似ている。
直接殺すのではなく、進めなくする。
この街の帳簿は、そういう武器だ。
俺はソユンを見た。
「お前は、よく知っているな」
彼女は肩をすくめた。
「事務所も似たようなものでした」
「所属事務所か」
「うん。契約書。評価表。練習時間。体重記録。ペナルティ。デビュー組に入れるかどうか。全部、紙か画面で決まる」
彼女は少しだけ笑った。
「私は紙で勝つのは得意じゃなかったけど、紙で負ける感じは知ってる」
紙で負ける。
その言葉は、トムの死後の帳簿と重なった。
ハルが言った。
「ソユン、礼を言う」
「まだ報酬出てません」
「それでもだ」
「じゃあ、三日後も呼んでください」
「銅貨は払えないぞ」
「知ってます。あとでご飯くらいでいいです」
ハルが苦笑した。
「ご飯も高い」
「じゃあ豆煮込み半分」
「それなら何とか」
彼らはそんな話をした。
俺には、その軽さが少し不思議だった。
トムは死んだ。
金はない。
追加報酬もまだ出ない。
それでも、人は豆煮込み半分の話をする。
戦場でも似たことはあった。
砲撃の間に、誰かが干し魚の味について文句を言う。
負傷者を運んだ後に、煙草を一本分ける。
明日死ぬかもしれないのに、靴下の穴を気にする。
生きるとは、そういう小さなことの連続でもある。
*
ギルドの広間を出ようとした時、声をかけられた。
「そこの新入り」
振り返る。
広間の柱にもたれて、一人の男が立っていた。
金髪。
上等な革鎧。
肩には薄い金属板。
腰の剣は飾りではない。
靴は泥で汚れていない。
年は二十代後半か三十前後。
顔は整っている。
だが、目は笑っていない。
周囲の冒険者が、彼を見ると少し距離を取った。
上級冒険者。
そう判断した。
男の視線は、俺の背中の布巻きへ向いていた。
「見慣れない弩だな」
俺は答えなかった。
男は笑った。
「黒血種を一発で倒したと聞いた」
ハルの顔が強張る。
ニックが目を逸らした。
情報が早い。
ギルド内で噂が流れている。
湿地での銃声を聞いた者はいないはずだが、結果は広がっている。
男は近づいてきた。
「見せてくれ」
「断る」
即答した。
広間の空気が少し変わる。
男は足を止めた。
「断る?」
「断る」
「私は銀級二等のライオネル・ヴェインだ」
階級を名乗った。
この街では、それが圧力になる。
だが、俺の上官ではない。
「ソック。銅級見習い」
俺は自分の銅板を軽く見せた。
「そして断る」
ハルが小さく呻いた。
ソユンが横から一歩前へ出た。
また顔が変わった。
柔らかい笑顔。
「申し訳ありません。彼、北方辺境から来たばかりで、こちらの礼儀がまだわかっていなくて」
ライオネルの目がソユンへ移る。
「君は?」
「ハン・ソユンです。仮登録ではありません。ただの歌い手です」
「歌い手がなぜギルドにいる」
「通りがかりです」
彼女はまたそれを使った。
ライオネルは少し笑った。
「今日は通りがかりが多いな」
「ブラックミアは道が狭いので」
周囲でまた小さな笑いが起きた。
ライオネルは笑わなかったが、怒りもしなかった。
彼は俺を見る。
「ソック。変わった武器は、変わった注目を集める。隠したいなら、もう少し上手く隠せ」
「助言か」
「警告でもある」
「受け取るかは考える」
ソユンが朝鮮語で小さく言った。
「お願いだから、今ここで喧嘩しないで」
「喧嘩ではない」
「喧嘩の一歩手前」
ライオネルは俺たちの言葉を理解していない。
だが、雰囲気は読んだようだった。
「面白い組み合わせだ」
彼はそう言い、踵を返した。
「また会おう、ソック」
去っていく背中を、周囲の者が避ける。
ハルが深く息を吐いた。
「お前、本当に厄介ごとを呼ぶな」
「向こうから来た」
「そういう奴が一番呼ぶんだ」
ソユンが俺を睨んだ。
「撃たなかったのは偉い」
「撃つ状況ではない」
「それでも偉い」
「子ども扱いするな」
「じゃあ、大人としてもう少し断り方を覚えて」
俺は答えなかった。
ライオネル。
銀級二等。
上級冒険者。
俺の武器に興味を持っている。
警告と助言を同時にする男。
覚えるべき名前だ。
*
ギルドを出ると、外は夕方に近づいていた。
黒い煙が低い空に溜まり、運河の方から湿った風が吹いている。
ハルはこれからトムの死亡処理窓口へ行くと言った。
俺も行こうとしたが、彼は首を振った。
「今日は俺とニックで行く。お前がいると、また揉める」
「俺が必要なら呼べ」
「必要ならな」
その声には疲労があった。
ニックも黙って頷いた。
ソユンは少し迷った。
「私も行った方が」
ハルは首を振った。
「今日はいい。さっきだけで十分助かった。あとは……仲間の話だ」
ソユンは何か言おうとして、やめた。
「わかりました」
ハルとニックはギルドへ戻っていった。
俺とソユンは、広場の端に残された。
しばらく沈黙があった。
ソユンが先に言った。
「疲れた」
「戦闘か」
「接客」
「同じだろう」
「違うって言ってるでしょ」
彼女は近くの石段に座った。
俺は立ったまま周囲を見る。
彼女はそれに気づいた。
「座れば?」
「座ると視界が下がる」
「ほんと軍人」
「お前も座っているが、周囲を見ている」
ソユンは一瞬だけ黙った。
「癖」
「舞台の?」
「うん」
彼女は広場を見た。
「誰がこっちを見てるか。誰が飽きてるか。誰が怒ってるか。誰が笑ってるけど笑ってないか。練習生の時、ずっと見てた。先生も、先輩も、審査員も、カメラも、客も」
「それがさっきの交渉に使えるのか」
「使えるっていうか、勝手に見える」
彼女は自分の目元を指で押さえた。
「こっちに来てから、もっと強くなった気がする。酒場で歌ってると、客の空気が変に見える。飽きた瞬間とか、怒鳴り出す前とか、泣きそうになる前とか」
「魔力か」
「知らない。でも、たぶんそういうの」
俺はソユンを見た。
魂の癖。
まだその言葉は知らない。
だが、この世界では、前の世界で反復したものが何かの形で鋭くなるのかもしれない。
俺の視界。
彼女の空気を読む感覚。
どちらも、ただの技術では説明しきれない部分がある。
ソユンは言った。
「でも、便利じゃないよ」
「なぜ」
「見えたからって、止められるわけじゃない。怒鳴り出すってわかっても、怒鳴られる時は怒鳴られる。飽きたってわかっても、歌うしかない。嫌われるってわかっても、笑うしかない」
彼女は膝の上で手を握った。
「見えるだけって、結構しんどい」
俺は少し黙った。
見えるだけ。
それはわかる。
狙撃手はよく見える。
敵の動き。味方の失敗。死ぬ位置。逃げるべき線。
見えるからといって、すべて救えるわけではない。
むしろ、見えるから、失敗が残る。
「それでも、見えないよりはいい」
俺は言った。
ソユンは俺を見た。
「そう言うと思った」
「間違いか」
「わからない。たぶん、間違いじゃない。でも、それだけだと疲れる」
彼女は立ち上がった。
「今日は、酒場に戻る」
「どこだ」
「《青い魚》って酒場。運河の東。歌ってる」
「一人で平気か」
ソユンは目を細めた。
「心配?」
「情報確認だ」
「はいはい」
彼女は少し笑った。
「平気。三か月は生きてる」
「三か月生きたことは、明日も生きる保証にはならない」
「それ、こっちの世界に来てから毎日思ってる」
彼女は歩き出した。
数歩進んでから、振り返る。
「ソック」
「何だ」
「さっきの追加報酬、三日後に行くなら呼んで」
「なぜ」
「途中で投げ出すと、向こうが勝つから」
俺は頷いた。
「呼ぶ」
「あと」
彼女は少し迷った。
「戦争の話、また聞くかもしれない」
「答えられる範囲で答える」
「知らないって答えるの、もう少し優しく言って」
「努力する」
「それ、できない人の返事」
「なら、訂正する。可能な限り配慮する」
ソユンは吹き出した。
「硬すぎ」
「どう言えばいい」
「普通に、『ごめん、わからない』でいい」
俺はその言葉を反復した。
「ごめん、わからない」
「そう」
「謝罪が必要なのか」
「必要な時がある」
「情報がないだけでも?」
「うん。相手が傷つく時は」
俺にはまだよくわからなかった。
だが、覚えておくことにした。
ソユンは手を振った。
「じゃあ、北の軍人さん。またね」
「南の練習生」
「その呼び方、嫌だけど今は許す」
彼女は人混みの中へ消えた。
俺はしばらくその背中を見ていた。
分類不能。
敵ではない。
味方でもない。
だが、次に会う約束をした。
それは、この街に来てから初めての種類の関係だった。




