家
――ホテル・カルディナル――
忍は上司から早退させられてホテルに到着したのは5時30分だった。
ホテルの前で加賀陽が到着するのを待っていた。
岩居静が何を話したいのか、何となく分かる。
数馬に近づかないようにという話だろう。
何故、忍に言うのかが理解出来なかった。
⦅数馬さんは私に近づかない。だから、近づくなと私に言うの?⦆そう思うと、苦しくなる。
待っている間、辛かった結婚生活、そして、幸せだった記憶を失くしている間の生活が蘇る。
鮮やかに蘇ったのは、記憶を失っていた頃の数馬との想い出だった。
知らぬ間に忍は目を伏せていた。そして、待っていた。
すると、玉を転がすような声が聞こえて来た。
聞いたことがある声だ。
目を上げると、そこに岩居静が居る。
「お早いのね。来て下さって、ありがとう。」
「……あ……………。」
「どうなさいましたの? 青木さん。
部屋は取っております。
さぁ、参りましょう。」
「あの………弁護士の………。」
「弁護士? 同席は要りませんわ。
さぁ、参りましょう。」
ボディーガードに挟まれて、忍は付いて行くしかなかった。
部屋は最上階のスイートルーム。
忍が生まれて初めて入ったスイートルームである。
忍はその部屋に広さに、豪華さに驚いていた。
場違いな自分を認識した。
⦅これが数馬さんの世界なんだ………。
数馬さんは……私と離婚で良かったんだ。⦆
「どうなさったの?
さぁ、青木さん、お座りになって。」
「いえ………ここで結構でございます。」
「何を仰るの。座って頂かないとお話も出来ませんわ。
さぁ、どうぞお座り下さい。さぁ!」
「………では、お邪魔致します。」
「何をお飲みになられますか?
何でも仰って下さいね。 用意させます。」
「カクテルが宜しいかしら?
それとも…………。」
「いえ、私は飲めません。」
「まぁ、嗜まれないのですか?」
「はい。」
「では、何をお飲みになられます?」
「………コーヒーを……お願い致します。」
「モカ? キリマンジャロ? それとも……。」
「あのアメリカンでお願い致します。」
「青木さんにアメリカンを………。
私はロマネコンティを、オフビンテージでもいいわ。」
「承知致しました。」
忍の前にアメリカンが置かれ、静の前にロマネコンティが置かれた。
静は一口飲んでから、ゆっくり話し出した。
「忍さん、今日、お越し頂いたのは、貴女にお引越しして頂きたいからなの。」
「引っ越し?」
「ええ、そうですわ。
貴女が数馬さんの近くに居たい気持ちは分かりますのよ。
離婚しても貴女は数馬さんを想っていらっしゃる。
でもね、私と数馬さんの結婚に貴女は……………邪魔なだけ。
この国に、日本に居られては困るのです。」
「海外へ行けと仰るのですか?
私には母が居ます。
私は母の傍に居たいだけです。」
「そのお母様と貴女のお宅………酷い所だと伺いましたわ。
お義母様に………あっ………ごめんなさい。言い換えます。
数馬さんのお母様、戸川可那子様です。」
忍は頭を鈍器で殴られたように感じた。
「酷い所と伺いましてね。
忍さんがお母様とお二人で暮らすのに丁度良い物件を見つけましたの。
数馬さんも、きっと安堵なさると思います。
………元妻が酷い所に住んでいることを世間が知ったら戸川家の恥ですもの。
ご理解頂けて? 忍さん。
さぁ、お手に取ってご覧下さい。
これが、貴女方お二人のご自宅ですわ。」
そう言って静は書類を忍の前に置いた。
「私が購入いたしましたの。
名義は青木忍さんにしました。
お勤め先が遠くなりますわね。
鹿児島ですもの。
お勤め先につきましては、私の祖父がご紹介出来ますわ。
どうか、ご安心下さいませ。」
「………あの! あの家は亡き父の想い出がいっぱいあります。
だから、母も私も引っ越す気はありません!
このお話は無かったことにして下さい。」
「…………では、今のお勤め先を解雇されても宜しいのですか?」
「!……………解雇……………。」
「ええ、解雇するように私から伝えます。」
忍は頭の中で何かが音を立てている。
目の前が真っ白になった。
「青木さん、明日、解雇になる訳ではありませんわ。
良くお考え下さい。一晩………。
そして、明日の朝、お返事を下さいませ。
お待ちしておりますわ。」
「……………猶予は今夜、一夜だけなのですね。」
「ええ、ご理解頂きたいです。」
「……………………………………………。」
「まぁ、青木さん。お飲み物が冷めてしまいますわ。
どうぞ、お飲み下さい。」
「………あの、母と……話し合わないといけないので……。」
「そうですわね。」
「帰っても宜しゅうございますか?」
「勿論でございます。」
「では、帰らせて頂きます。」
「御機嫌よう。
………青木さんがお帰りよ。 お見送りを………。」
「結構です。見送って頂かなくても帰れますから。」
「そうですわね。小学生ではありませんものね。
御機嫌よう、青木さん。」
「失礼致します。」
歩いている足しか見えない。
忍は部屋を出た。
部屋を出る忍の後姿を見て静は「小学生のような身長ね。」と言った。笑みを零しながら………。
その笑みは、忍に対する憎しみを秘めた嘲笑だった。
◇◇◇◇
やっとホテルの到着した陽。
忍の姿を探しても、どこにも居なかった。
不安が募る。
数馬もまだ来ていない。
時間は午後6時。
⦅忍は約束の時間に充分間に合っているはず。⦆と陽は思った。
静はこのホテルに部屋を取っているはずだ。
だが、ホテルのフロントに聞いても答えるはずが無い。
不安が大きくなった。
◇◇◇◇
その頃、数馬は渋滞に巻き込まれていた。
業を煮やした数馬は「僕はここから地下鉄に乗って行く。」と言って、車が止まっている間に降りた。
相馬は運転手に「ホテルの駐車場に駐車しておくように。」と言い、数馬の後に続き車を降りた。
相馬は数馬を追い掛けて走る。
数馬は一刻も早く着きたい一心で走っている。
二人が地下鉄に乗った時、相馬は息が切れて⦅死にそうだ。⦆と思った。
数馬と相馬がホテルに着いた時、陽が駆け寄った。
「数馬! 忍さんが居ない!」
「!…………居ない?」
「まだ6時になってない。
だから、会えるはずなんだ。」
「居ない、って……………忍はどこに…………。」
数馬はフロントへ駆けて行った。
「岩居静が取った部屋は何処だ!」
「申し訳ございません。
お客様につきましては、お答え出来兼ねます。
何卒ご了承下さい。」
「数馬! 聞いても無駄だ。
僕らには捜査権が無い。」
「くそッ!」
「社長、岩居静さんのお父様にお会いなさっては如何でしょうか?」
「そうだな、直接、断って終わりにしたらいいと思う。」
「もう、祖父から2度も伝えている。
僕も電話だったが、断りを入れている。
父親は了承済みなんだ。」
「では、忍さんに私から電話を架けてお話を伺います。」
「頼むよ、相馬さん。」
「忍に……絶対に守ると言ってくれ。何があっても守ると……。」
「承知しております。
お待ちください。」
数馬は待っている間が辛かった。
ジッとして居られずにホテルの中をウロウロ歩いている。
「数馬、まるで檻の中の熊だ。落ち着けよ。」と言われても、その言葉さえ耳に入っていないようだった。
「これが! 落ち着いて居られるかっ!
静という訳が分からない女の為に忍が虐められてるんだぞ。
どうして、僕は……疫病神なんだろう………。」
「怒ったと思ったら、泣くのか?」
「……………。」
「数馬、忍さんを愛してるなら助けろ。
数馬のお母さんがこういう事態を招いたんだ。
誰の口を封じるか、分かるよな。
静という女性が婚約者などというのは誰が後ろに居るか、分かってるんだよな。
忍さんの話を聞いたら、必ず、根源を封じろ。
それは僕達では出来ない。君だけなんだ。」
「うん、分かってる。」
相馬がスマホを数馬に渡した。
「忍さんに岩居静さんが転居を迫ったそうです。」と言って………。
「相馬さん………相馬さん、私、引っ越したくないんです。
あの家は……あの家は、父との想い出がいっぱいあります。
例え、世間からどう思われても見窄らしいと思われても出て行きたくありませ
ん。
母にとっても、あの家は大切な家なんです。
どうしたらいいんでしょうか?
このまま引っ越さなければ、会社に影響が出るんです。
お取引している銀行の頭取のお嬢様………。
私のせいで…………会社が…………申し訳なくって………。
会社の皆さん………いい方ばかりで………それなのに………。
私、母にも相談出来ません。
…………こんなことになるのなら………………。」
「!…………………………。」⦅言葉が……出ない……忍…………ごめん。⦆
「相馬さん、大旦那様に……ありがとうございました、とお伝え下さい。」
ツーツーツー、その音を聞いて、忍が電話を切ったことを知った。




