婚約者
忍は何故急に可那子がわざわざ数馬に会わないように、と釘を刺しに来たのか分からなかった。
ただ、それから時を待たずに……勤務を終えて帰宅中、数馬の両親の執事に声を掛けられた。
「青木忍様、旦那様がお待ちでございます。
何卒、お越し下さい。」
「何時ですか?」
「これより、ご一緒頂きます。」
「今からですか?」
「はい、左様でございます。」
「………もう私は戸川の人間ではありません。」
「どうかお願い致します。」
「………貴方は私が行かないと困りますね。」
「………はい。」
「母に連絡することは?」
「勿論、どうぞなさって下さい。」
忍は弥生に電話して、帰宅が遅くなることを告げた。
弥生は心配だったが、戸川家の支援があればこそ忍を大学に進学させられた事実がある。
無下に出来なかった。
「気をつけて帰って来なさい。」とだけ告げた。
執事と車に乗って数馬の父が待つ料亭に着いた。
部屋に通されると、そこには数馬の両親が居た。
「久し振りだね。忍。」
「………会長、お久し振りでございます。」
「うん、元気だったかな?」
「はい、お陰様で………。
あの……母が待っていますので、御用件をお話し下さい。」
「うん…………数馬と会ったと聞いたのだが?」
「はい、先日、数馬さん………。」
「コホン。」
「社長の退院のお祝いの会に加賀陽さんから招いて頂きました。」
「そうか……加賀陽君……確か、戸川グループの顧問弁護士だったね。」
「そのように聞いております。」
「忍さん、これからは、そのような招きに応じないで下さいませ。」
「…………はい。」
「先日、私に二度と数馬に会わないとお約束をなさいましたわ。
お忘れではございませんわね!」
「はい、忘れてはおりません。」
「入って頂いて。」
「はい、奥様。」
襖が開いて、目の前に美しい女性が現れた。
可那子と並び座ったその美しい女性は「私は岩居静でございます。」と名乗った。
可那子と静……美しい二人が並ぶと座敷がより一層明るくなったように忍は感じた。
⦅美しい方………それにしても、お義母様の美しさは際立って………数馬さんはお義母様に似ている。何度、見ても………。⦆と見とれている忍に可那子は言った。
「こちらの方、静さんが数馬の婚約者です。」
⦅この美しい方が………数馬さんの婚約者………。⦆
忍の胸に痛みが走った。
「忍さん、声も出ない様子ですわね。
静さんに見とれているのかしら?」
「まぁ……お義母様ったら……。」
⦅婚約で……もう、お義母様って呼んでるの? 呼んでも許されてるのね。⦆
「忍さんって仰るのね。」
「はい。」
「離婚なさったと伺っております。
私と数馬さんの婚約を祝って頂けるかしら?」
「………………………。」
「どうしたのです?
忍さん、祝えるでしょう。離婚したのですから………。」
「まぁまぁ、先ずは食事を楽しもう。
可那子は世話になったじゃないか。
忍が通院の付き添いやら、退院後の身の回りの世話やら……。」
「あなた……それは嫁でございますから、当然のことではありませんか。」
「兎に角、折角の料理が冷めてしまっては楽しめないじゃないか。
さぁ、先に食事をしよう。」
それからは忍にとっては嫌な時間だった。
高級料亭の食事も砂を嚙むように感じた。
可那子は終始【良き嫁】だと言い、静は終始頬を染めて俯き加減に喜び、そして可那子を【学ぶべき手本の女性】だと持ち上げる……そんな中で一昌は空気のように、そこに居た。
忍がどんなに努力しても得られなかった【姑から認めて貰える嫁】を既に静は得ている。
それを羨ましく感じている自分に気付き、忍は愕然とした。
忍の顔色が変わるのを認めた静は、より一層、可那子を誉めそやした。
そして、時々英語で静は可那子に話し掛ける。
可那子は英語で応じる。
二人の視線は忍に集まる。
――忍さんには分からないでしょう――と嘲る視線を送っている。
「What will happen to the Gaza Strip from now on? 」
⦅ガザ地区について? これからどうなるのかって……。⦆
「Solving this will be difficult. 」
⦅そりゃあ、難しいですよね、しか言えないでしょうね。⦆
「忍さんは、どうお考えですの?」
「私も会長夫人と同じで解決は難しいと思います。
歴史だけではなく、今のイスラエルの政権にも問題がありますから。」
「………………忍さん、英語がお分かりになりますの?」
「少しですが、分かります。」
「では、英語でお答えになって下さらない?」
「This isn't just a historical issue; the Israeli government itself is also
problematic. 」
「……………お上手ですこと………。」
「忍さん………貴女、一体、いつ英語を話せるようになったの?」
「数馬さん……あ……社長と結婚している時に学びました。
充分ではありませんが………。」
「そうか! 君は真面目だからね。
良き妻になろうと努めていたんだね。」
「社長が恥ずかしくないように……学んでいました。
もう過去のことでございます。」
それから、可那子と静は忍を無視して会話を続けた。
何が何だか分からない時間は終わった。
立ち上がり部屋を出た時、静が忍の耳元で「数馬さんは私の夫になるのです。貴女は過去の方です。お忘れなきよう……お分かりかしら?」と言った。
忍は胸に痛みを感じながら「分かっております。」とだけ答えた。
帰りの車の中で流れる景色を見ながら忍の頬を涙が伝わった。
助手席の執事が後部座席の忍の涙を見た。
車から降りた時、執事が囁いた。
「忍様、今日のことを相馬に話しておきます。
若旦那様は、あの方と婚約なさっておりません。
どうか、どうか、若旦那様のお心……見失わずに居て下さい。
お願い致します。」
「……………ありがとう。でも、もう他人ですので………。」
「若奥様………もう一度、若奥様と呼べる日を待っております。」
「………!……あの………。」
「御元気で……失礼致します。」
執事は車の中で相馬に電話した。
相馬から今日のいきさつを聞いた数馬は激怒した。




