弥生にとっての恐怖
忍は何も思い出せない日々を送っている。
働きたいのに自分に何が適しているのか分からない。
母だと言われて「お母さん」と呼んでいるけれども、実感は全く無い。
このまま居候では居られないと思う忍が、母に働きたいと頼んだ。
働くために何をしたらよいのか分からないからだ。
だから、頼んだ。
「自分の分、僅かでも自分で働いてお金を得たいんです。
だから、どうしたら良いのか教えて下さい。
どんな仕事があるのかも分からないんです。
お願いします。
教えて下さい。」
「忍……まだ、ゆっくりして居た方が、ね。
いいと思うのよ。
記憶のこともあるし………。
記憶を失って、もし取り戻せるとしたら安心して暮らせるのが条件なのよ。
だからね、今はまだ……ゆっくりして欲しいのよ。
この家で幼い頃から過ごしたこの家で……お父さんのことを思い出して欲しい
の………忍はお父さんっ子だったのよ。
あ………働いたら駄目なんじゃないのよ。
勿論、働くのは良い事よ。
だけどね、働く先で何があっても私は助けてあげられないでしょう。
だから、もう少し待って!
働く先を探す前に、先生に相談しましょう。」
「先生に相談………そうですね。
先生が何て仰るか分かりませんものね。」
「そうよ、だから次の受診日に、相談してからにして頂戴ね。」
「はい、分かりました。」
⦅忍………私に馴染もうとしてくれてるのは分かるけど、敬語の時もあるわ。⦆
「先ずは家事をして私を助けてくれている今を、もう少し続けて欲しいの。
お願いね、先生に相談してからにしてね。」
「はい、分かりました。
…………あの…………お母さん…………。」
「何?」
「………数馬さん……私と夫婦なんですよね。」
「………ええ………そうよ。」
「……夫婦なのに……どうして……来てくれなくなったんでしょう?
私………嫌われたのかな…………。
………数馬さんに………来て下さい、って言ったら………。
駄目なんですよね。」
「忍…………戸川さんね、今、とっても忙しいって………。
………何度も島の病院に来てくれたでしょう。
お仕事、沢山あるみたいよ。」
「島に来てくれたから……出来なかったお仕事があるということですね。」
「ええ、ええ、そうなの。」
「じゃあ、いつか会いに来てくれるんですね。その日まで待ちます。」
⦅忍、戸川さんに会いたいのね。……どうしたら良いのかしら……。⦆
弥生は忍に内緒で主治医に相談した。
過去の経緯を改めて伝えた。
記憶を失った原因は数馬だと伝えた。
その上で数馬に会いたいと忍が言っていることを伝えた。
「また、あの子は戸川さんに恋したんです。
もし記憶を取り戻したら、戸川さんが傍に居ると良くないことになるような気が
して………。
私、怖いんです。」
「治療に睡眠法と投薬を用いる面接を、記憶が戻る気配が無いなら行います。
記憶は全て一度に戻る訳ではありません。
理解して下さってますか?」
「はい。」
「海に落ちたのなら、海に近づかないように気をつけて下さい。」
「はい。」
「それから、記憶が戻った後に、精神療法を行います。
原因になったトラウマや葛藤について理解すること。
それを解決する方法を見出すこと。
可能であれば将来のトラウマ体験を回避すること。
戸川忍さんの場合は、ご主人との関係が原因なら、トラウマ体験の回避が困難に
なる可能性があるとは思いますが……。
戸川さんがトラウマを理解出来、解決する方法を見出せたら……。」
「会わせても大丈夫でしょうか?」
「今は記憶が戻ってないので、大丈夫です。
お母さんが不安に思われるのは当然です。
それでも、先ずは記憶を取り戻す日が来ることを待ちましょう。
記憶が戻るのは、戸川さんが原因になったトラウマやストレスから距離があれば
あるほど、早く記憶を取り戻すでしょう。
今はご実家ですよね。」
「はい。」
「ご実家なら取り戻せるのが早いかもしれません。
記憶を取り戻した後は、精神療法で戸川さんが自分で解決法を見出すことを目指
しましょう。
今の所は、もう暫く、様子を見ましょう。」
「はい………婿に会うことは……?」
「今は会いたいと思っているんですよね。」
「はい。」
「であれば、会っても良いと思いますよ。」
「はい。」
弥生は悩んだ末に、数馬に連絡した。
秘書の相馬仁に「忍が戸川さんに会いたがっているので、会いに来て欲しい。」と伝えた。




