悲痛
相馬仁は忍の母・青木弥生に電話した。
弥生は帰宅の途に就いていた。
工場勤務で仕事を終えて買い物をしている時に、スマホが振動して着信を知らせた。
「今、なんと仰いました?」
「……忍様が拉致されて行方が分かりません。」
「忍が拉致?」
「はい。社長がお待ちです。
経緯と現在の状況などをお話なさいます。」
「しのぶ……が……らち……された?」
「今、お迎えに向かっております。
ご自宅でしょうか?」
「忍………あぁ……しのぶ………。」
「気をしっかりお持ちください。
迎えに行きます。
今、何処ですか?」
「私……私は……自宅近くのスーパーに居ます。」
「スーパーの名前は?
………あ!……いいです。ナビで見つけました。
向かっていますから、スーパーの前でお待ち下さい。」
「はい。………どうかよろしくお願いします。」
「落ち着いて居られないことと存じます。
到着まで、このまま電話を切らずにおります。
何でもお話下さい。」
「ありがとうございます。」
港の倉庫前から数馬は動けなかった。
警察からの事情聴取は、終えている。
刑事は「また後日、来て頂くことがあると思います。」と言った。
数馬は何度も妻の名を呼んでいた。
「忍……忍………僕が悪かった……ごめん……。」と……。
倉庫の傍から離れない数馬を新が、強引に数馬の自宅へ連れ帰った。
家政婦の小島厚子が出迎えた。
「若旦那様、お疲れでございましょう。
古谷様、ありがとうございました。」
「否、これくらい当たり前だ。
リビングへ連れて行くよ。」
「はい、暖かい飲み物をご用意致しましょうか?」
「うん、そうしてくれ。…………あ! 厚子さん。」
「はい、何でございましょう。」
「紅茶にブランデーを入れてやって。」
「はい、承知致しました。」
「それから、後から相馬さんと忍さんのお母さんが来る。
出迎えを頼みます。」
「若奥様のお母様が!」
「うん。」
「承知致しました。」
相馬が青木弥生と一緒に数馬の家を訪れた。
娘が夫と暮らしていた家。
母の弥生は初めて訪れた。
身分違いの結婚だと思い、娘の邪魔をしてはならないと弥生は電話を自分から架けることもしなかった。
電話さえ遠慮していたのだ。
娘が暮らす家を訪れるなど生涯ない!と思っていたし、そのように心掛けていた。
「いらっしゃいませ。相馬様、青木様。
どうぞ、こちらへ……。」
廊下を走って来た数馬。
彼の端正な顔が深い悲しみに沈んでいる。
「お義母さん! 申し訳ございません。」
その場で床に手を付いて額を床に着けて謝る数馬。
「戸川さん……何があったんですか?」
「僕のせいで忍が拉致されました。」
「拉致されたと伺っておりましたが、貴方のせいなのですか?」
「はい、僕のせいです。」
「数馬、ここで話すより、リビングで座って頂いて話した方がいいよ。」
「そ……そうだな。
お義母さん、どうぞお上がりください。」
「………そうさせて頂きます。」
「さぁ、数馬、立てよ。………あ……厚子さん、コーヒーを頼みます。」
「はい、承知致しました。」
「相馬さんも来てよ。」
「はい、承知致しました。」
リビングで数馬は今分かっていることを全て話した。
弥生の顔色が青くなっていく。
涙が頬を伝わる。
それでも、弥生は激しく罵らなかった。
「………い……今は……忍が……無事に帰って来てさえくれれば……。
私の望みは、願いは、それだけです。」
涙で声を震わせながら、弥生はそう言い、それからは何も言わなかった。
両手を握り締めて、ただ祈っていた。
警察から忍が見つかったという知らせは無い。
その場に居る全ての人にとって、長い夜の始まりだった。




