離婚へのステップ7
数馬は車の中で一言も話さない。
運転手は無言で運転している。
時折、バックミラーで後方確認の際に数馬の様子が窺えた。
数馬の顔に翳りが見えた。
そんな顔を運転手は初めて見た。
「社長、間もなく若奥様のご実家に到着致します。」
「………分かった。」
公営団地に似つかわしくない黒いセダンが入って来た。
御料車と同じトヨタ・センチュリーである。
見慣れぬ車両が入って来て、団地の住民は驚いた。
そのセダンから降りて来た高身長の男性を見て「うわぁ~~~っ、めっちゃイケメン!」と言う声が聞こえる。
ボディガードは車の傍に居る。
「ここで待っていろ。」
「はっ!」
数馬は周囲の喧騒など気にも留めずに、団地の三階にある忍の実家へ向かって階段を上がっている。
古い公営団地の三階にある忍の実家の前で立ち止まった。
⦅インターフォンも無い……そんな家があったのか……。⦆
数馬は人生で初めてチャイムを鳴らした。
中から忍の声がした。
「忍……。」数馬は妻の名を呼んだ。その声は小さかった。
胸が高鳴った。
その高鳴りは不安、戸惑い、そして声を聞けただけで感じたこの上ない喜びだった。
「やっと見つけた。」と呟いた。
「はい。」
返事をしてからドアスコープから忍は玄関に居る人を見た。
⦅嘘………数馬さん………どうして……ここに来たの?⦆
出ないことも考えたが「はい。」と返事をしてしまった。
やむを得ず忍はドアを開けた。
ドアの前に数馬が立っていた。
この場所に不釣り合いな高級スーツを身に着けた美男が立っている。
「どうして……来たの?」
「話すためだ。」
「もう話すことがないわ。」
「僕にはある。」
「………何の話?」
「ここでするつもりか?」
「………入って。」
入ったら、廊下と言えないスペースがあった。
その先に引き戸がある。
前に引き戸が一つ、左にも一つ見えた。
右にはドアが一つ。
玄関も狭い。
狭い玄関で向かい合っている距離が短い。
忍は胸がドキッとした。⦅まだ……消えてない。⦆と思った。そして、その動揺を隠した。
数馬は手の届く距離に居る忍を抱き寄せたい衝動に駆られた。
「何のお話でしょうか。」
「ここでするのか?」
「ええ。」
「入れてくれないのか?」
「ここで。」
前の引き戸から忍の母が出て来た。
「まぁ、戸川さん。」
「お義母さん、お久し振りです。」
「いらっしゃいませ。」
「お母さん!」
「忍、入って頂きなさい。」
「でも、話すことが無いわ。」
「ちゃんと話し合わないといけないのよ。
話し合ってから終わりにしないとね。」
⦅終わり……? 僕と忍が?……嫌だ! それだけは嫌だ!⦆
「分かったわ。」
「さぁさ、戸川さん、狭い所で驚かれたでしょう。」
「あ………いいえ……。」
「どうぞ、お座りくださいね。」
「はい。」
古い畳、日に焼けているイ草。
数馬は、なんとなく懐かしい思いがした。
祖父母の屋敷を思い出した。
忍と結婚するきっかけになった祖父。
祖父の専属運転手をしていたのが忍の父だった。
あの日、祖父が暴漢に襲われた。
祖父を守って忍の父が命を奪われた。
祖父が「どうか、あの子を守ってやってくれ。頼む。」と数馬に病床で言った。
それで、数馬と忍が結婚した。
数馬は祖父の為に忍と結婚したのだ。
愛など一欠けらも無かった。
愛があったのは、忍だけだった。
忍だけが……愛していた。




