第9話「審理未了」
第9話「審理未了」
静寂が戻った。
盤面が消え、蛍光灯の白い光が事務室に戻ってくる。床にはひび割れた跡が残っている。コンクリートが、対局の痕跡を記録していた。
手帳だけが、そこにあった。
女弁護士が最後まで抱えていた手帳。拾い上げて開く。最後のページに「決着予定:午前中」とある。予定通りには終わらなかった。
俺は手帳を閉じ、床に戻した。
その瞬間、心臓の横で二つ目の熱が生まれた。
刑事の泥臭い殺意とは違う。剃刀のような、冷えた何かだ。脳内に直接流れ込んでくる。
――第十四条の解釈が誤っていた。
――手続きの瑕疵は、第三項にあった。
弁護士が最後まで反芻していた何かだ。感情ではない。法律的な誤りの検証。それが俺の思考回路に紛れ込んで、俺には関係のない情報として流れていく。
こういう声が増えていく。
代償として。
世界から音が、消えた。
プツリ、と切れるような感覚があった後、完全な静寂が来た。静寂というより、音という次元が削除された感覚だ。空調も、自分の呼吸音も、床を踏む音も、何もない。
自分の声が出ているかどうかも、分からない。
喉の震えだけが、まだ生きていることを伝えていた。
俺は、光の残滓の中から「二つ目の玉」を拾い上げた。刑事のものより冷たく、翡翠のように凍てついた輝き。
二つ目。残り、十。
翌朝、午前八時三十分。
洗面台の鏡の前に立った。
蛇口を捻る。水が流れる。音は来ない。手に触れる水の感触だけが、かろうじてそこにある。顔を洗い、濡れた手で鏡を拭う。
「…………」
誰だ、こいつは。
俺に似た男が、公務員の制服を着て立っている。瞳に光がない。表情筋が動いていない。
笑ってみようとした。
頬が不自然に引き攣った。それだけだ。笑顔にはならなかった。
自分の顔を、思い出せない。梓の前でどんな顔をしていたか。それが今、出てこない。
俺は表情を消した。
いや、消えたのだ。もともとそこにあったものが、なくなっただけだ。
執務室へ向かう廊下を歩く。
今日から、この窓口は俺にとって無声映画になった。相手の口の動きを読む。表情を読む。それで業務をこなす。支障はない、たぶん。
廊下の角に監視カメラがある。
立ち止まった。
レンズの奥に、何かがいる気がした。音のない世界で、それでも「いる」という感覚だけが来る。あの影だ。第七話のカメラ、第四話の窓口、第三話の路地——同じ存在が、また近くにいる。
次に食らうべき何かを探しているのだろうか。
それとも、俺がここまで消耗したことを、既に計算に入れているのだろうか。
答えは出ない。
俺は歩調を変えずに窓口へ向かった。
シャッターが開く。
彩度を失い、音を失い、熱を失い、痛みを失った世界。それでも椅子に座り、端末を立ち上げる。
「――次の方。整理番号、四十三番。どうぞ」
声は出ているはずだ。目の前の市民が、怯えたような顔でこちらを見ている。その反応が、声が届いたことの証明だ。
俺は差し出された書類を受け取り、内容を確認した。業務データとして処理する。それだけだ。
引き出しの中。
蟹座の駒の隣に、牡牛座の駒が加わっていた。
二つ並んで、冷たい光を放っていた。




