第10話「無音の議場」
第10話「無音の議場」
世界から音が消えて、三日が過ぎた。
窓の外のネオンが灯っている。人が動いている。車が走っている。だが俺に届くのは、ガラス越しに伝わる微かな振動だけだ。世界が、音声トラックを切った映像になった。
――次の方。整理番号、四十四番。
自分の声が出ているかどうか、喉の震えとマイクのインジケーターで確認する。正面の老婆が何かを訴えている。口の動きを読む。
『……助けて。孫が、戦記に巻き込まれて』
読み取れた言葉は、絶望の定型文だ。
介入不能。免責。この法体系は、盤上の悲劇を救う言葉を持っていない。俺はキーボードを叩き、拒絶の文言をモニターに表示させた。老婆の顔が歪む。かつての俺なら、その表情に何かを感じていたかもしれない。今の俺は、自分の笑い方を忘れた男だ。
【マブイ残量:4】
その時、鼓膜を通らない声が脳内で響いた。
『おいおい、そんな冷たい対応でいいのかよ。市民サービスがなってねえ』
蟹座の刑事だ。野卑で傲慢な、あの声。死んでも笑っている。
『黙れ』
俺は意識だけで返した。刑事は一瞬黙り、それからまた低く笑い始めた。外部の音を失った代わりに、俺の頭の中は殺した人間の声で埋まりつつある。脳内が議場になっていく。
これが、侵食の次の段階か。把握した。
――次の方。四十五番。
現れたのは市民ではなかった。
継ぎ目のない銀色のスーツ。胸にフェニックスの紋章。この市役所の人間ではない。GM直属、戦記管理局の使者だ。
使者は無音の空間で、一枚の封筒を差し出した。
中には黒い対局申請札と、一枚のメモ。
『アンリミテッド・レギュレーション 予選第一フェーズ終了。生存者残り、五十パーセント。貴殿の戦績を評価し、追加リソースを支給する。』
引き出しの中でブランク体の駒が震えた。蟹座と牡牛座の痕跡を継ぎ接ぎした駒が、また少し形を変えようとしている。
使者は答えを残さず去った。
封筒の底に、もう一つ何かある。指を触れた瞬間、無音の世界に赤いノイズが走った。
古びたICチップだった。
端末に差し込む。画面に映ったのは、市役所の防犯カメラ映像だった。
地下二階。梓のいる廊下。
カプセル室の手前、廊下の端に影が立っていた。第四話の窓口、第七話のカメラで見た輪郭だ。そいつはカプセル室の扉の前で静止している。入っていない。ただ、そこにいる。
熟した果実の食べ頃を待つような、空虚な静止だった。
俺は画面から目を離せなかった。
音がない。だから、この影が何をしているのかを推測するための情報が少ない。計算しているのか。待機しているのか。それとも、俺がここを見ていることを、既に知っているのか。
次のフレームで、影は消えていた。
廊下には何もない。記録には残るだろうか。残らないかもしれない。第四話の「該当なし」と同じように。
封筒に、もう一つ何かが入っていた。
取り出す前に、端末の画面が一瞬だけ黒く塗り潰された。次の瞬間には元に戻っていた。エラーログを確認した。記録には何もなかった。
俺は端末の隅にあるフォルダに目をやった。
「退職届(未送信)」というファイル名。第八話の夜に作って、そのままにしている。送信する必要が、まだない。
俺はそのフォルダを閉じ、次の申請書を開いた。
窓口の外。
夕暮れの空が、一瞬だけ黒く染まった。
次の瞬間には、普通の夕暮れに戻っていた。
「――次の方。どうぞ」
声は出ているはずだ。




