第8話「利息の不履行」
第8話「利息の不履行」
「……減価償却ですよ、彼は」
鞄持ちが消えた直後、女弁護士は言った。
動揺はない。手帳を開き、何かを修正している。パートナーを失ったことが、予算の組み直しと同じ質感で処理されていく。
「端役がいなくなった分、取り分が増えるだけ」
象兵たちが、鞄持ちの残滓を吸い込み始めた。牡牛座の紋章が赤黒く変色し、その質量が増していく。他者のマブイを吸着して膨張する——不当な利得だが、今の段階では止められない。
「……利息の支払いか」
俺は、熱も痛みも届かない口唇を動かした。
梓の声が、消えかけている。
どんな声で俺を呼んでいたか。どんな音を立てて笑っていたか。記憶の中のオーディオが、上書き前のファイルのように薄れていく。感傷ではない。損傷の確認だ。
把握した。聴覚系の記憶、消失進行中。
【マブイ残量:7】
「これより、本件の即決処理とします」
弁護士がヒールを床に打った。その音だけが、妙に鮮明に聞こえた。他の音が遠のいていく中で、硬質な一音だけが届く。聴覚が均等に消えているわけではないらしい。把握した。
象兵たちが収束した。五つの質量が一点に凝縮され、盤面を埋め尽くす牡牛の形を取る。その体積が、この市役所の窓口という空間そのものを圧迫し始めた。
「あなたの『兵』では、これを貫けない。本件、処理します」
牡牛が突進を始める。床がめくれ上がり、金色のラインが悲鳴を上げた。
俺は逃げなかった。
痛みのない体は、恐怖を「ノイズ」として処理できる。感じない。ただ、盤面を見ている。
「……弁護士先生。重大な債務不履行がある」
懐から書類を取り出した。第3話の夜、地下室で制服の残骸から抜き取っておいた対局申請書の写しだ。血が端を汚している。
「この対局の共同申請者は、あんたと鞄持ちの連名だ。鞄持ちは消滅した。対局を維持するための法的主体が、片方欠けている」
「……」
「契約主体が消えた契約は、その時点で無効だ。あんたが彼を切り捨てた瞬間、この盤面のルールが、あんたの手を離れた」
俺は「将」を、牡牛の足元——地割れの走る一点へと滑り込ませた。
「あんたが鞄持ちから吸い上げたマブイは、正当な権利に基づかない不当利得だ。これより、強制収徴する」
将の一手が、盤面の隙間を突いた。力のぶつかり合いではない。システムの不備への、事務的な修正だ。
バキ、と音がした。
牡牛の巨体が、内側から崩壊し始める。吸い込みすぎた他者のマブイが権利関係の不一致を起こし、弁護士自身のシステムを拒絶している。
「……手続き、ミスか」
弁護士は静かに言った。叫ばなかった。崩れ落ちながらも、その声に感情はなかった。最後まで、法律家だった。
「……理屈だけでは、窓口は通りませんよ」
「そう、ね」
牡牛の光が弁護士を包んだ。彼女は手帳を閉じ、胸に抱えたまま消えた。
静寂が戻る。
床に、手帳だけが残されていた。
拾い上げて開く。最後のページに、今日の日付と「対局——市役所第三窓口」というスケジュールが書き込まれていた。その下に「決着予定:午前中」とある。
予定通りには終わらなかった。
「執行完了。本件、却下」
俺は手帳を閉じ、床に戻した。
【マブイ残量:6】
盤面が消え、蛍光灯の光が戻ってくる。
自販機で水を買い、口に含む。ただの液体だ。熱も冷たさも届かない。
梓の笑い声を、思い出そうとした。
出てこなかった。
声の輪郭すら、もうない。
――ごめん。
思ったことが、脳の中で静かに消えた。感傷として処理されるより前に。
窓口の列が、また動き始めていた。
あの影が、この結末も見ていたのだろうか。
第七話のカメラが頭をよぎったが、答えは出ない。出る前に、端末が次の番号を表示した。
「――次の方。どうぞ」




