第6話「審理の檻」
第6話「審理の檻」
盤面中央に引かれた川。その境界線で、俺の「兵」が止まっている。
女弁護士はそれを一瞥し、手帳に何かを書き込んだ。それだけだ。笑いもしない。侮りの表情すら見せない。ただ、処理する。
「アンリミテッド特例第十八条に基づき、保全処分を申請します。これより十ターンの間、あなたの駒は川を渡ることを禁じられ、全ての移動は承認を必要とする」
黄金の光が盤面を覆った。半透明の層が、盤全体に貼り付く。俺の「兵」が、見えない粘着に足を取られたように止まった。
【マブイ残量:11】
ノイズが視覚に混じり始める。同時に、窓の外の日差しが分からなくなった。夏の光が肌に当たっている。だが、熱が届かない。乾燥した空気の動きだけがある。
温覚の消失。
梓の手のひらの感触を、俺はまだ覚えているか。確かめようとして、記憶の輪郭が滑る。掴めない。
「……時間稼ぎですか」
俺は低く言った。
「燃料不足を待つ戦術だ。この檻を維持しながら、俺のマブイが底を突くのを」
「察しがいいわね」
女は手帳を閉じた。動じていない。看破されることを、あらかじめ織り込んでいる顔だ。
「だから、次の手を用意してあるの」
鞄持ちの男が前に出た。こぐま座の紋章。前話から、ずっと床を見ていた男だ。鞄を開き、車兵を盤上に展開する。縦横を同時に封じる形で、俺の陣地全体を射程に収める配置だ。
「共同訴訟よ。彼の車兵が攻め、私の檻が守る。あなたには一手も自由がない」
俺は盤面を見た。
檻の中に閉じ込められた兵。その前に、車兵の射線が走っている。マブイは削れ続ける。手が見えない。
その時、鞄持ちの指先が微かに震えているのに気づいた。
車兵の維持と檻の担保。二つの出力を同時に要求されている。弁護士はそれを把握しているのか、していないのか——二人の視線が一瞬だけ交わり、弁護士は何も言わなかった。
「……」
俺は自分の「士」を見た。後退させれば、陣地内のマブイ循環経路が変わる。この檻はその循環を前提に組まれている。前提が崩れれば、構造に亀裂が入るはずだ。
だが今は、まだ動かない。
手が見えない、ではない。
手が、まだ足りない。
【マブイ残量:9】
また何かが削れた。
心拍の音が、聞こえなくなった。外の音は届いている。窓口の雑踏も、端末の駆動音も。ただ、俺自身の内側が、静かになっていく。
車兵の射線が、俺の陣地の奥を狙い定めた。
弁護士が、初めて口元を緩めた。
「詰んでいるわよ、事務官さん。次のターン、どの駒を動かしても——あなたは終わる」
俺は、インクの切れたボールペンを指先で転がした。
窓口に来て一年目、予算申請が通らなくて補充できなかったボールペンだ。書けない。機能しない。だが、まだデスクの隅にある。
捨てられなかった理由が、今は少し分かる気がした。
俺は盤面を見つめたまま、答えなかった。
手が、ある。
ただし、今ここで動かすより——次のターン、動かす方が確実だ。
「……次のターンを、待ちます」
「待つ?」
弁護士の眉が、わずかに上がった。
「マブイが削れ続けるのに?」
「はい」
削れるのは分かっている。それでも今動くより、正確な一手を待つ方が正しい。これはルーチンワークと同じだ。急いで処理した書類は、後で必ず不備が出る。
俺は、静かに次のターンを待った。
内側が、また少し静かになった。




