第5話「受理不能な訴訟」
第5話「受理不能な訴訟」
昨日の影が、まだそこにいる気がした。
網膜の裏側に張り付いたまま、消えない。音もなく記録も残さずマブイを削り取っていく存在。あれはルールの外だった。ルールがそもそも届かない場所にいた。
今日の案件は違う。
出勤前、俺のデスクに一束の書類が届いていた。送付元は法律事務所。中央区再開発に関する地権移転の特別請求。ページをめくるたびに、条項の拡大解釈が何十重にも積み上がっているのが分かった。弱小な地権者からマブイと土地を同時に剥ぎ取るための、書類の形をした暴力だ。
これはルールの中にある。だからこそ、始末が悪い。
昨日の影と、どちらが怖いか。俺にはまだ、答えが出ていない。
「——次の方。整理番号、四十二番」
現れたのは、黒いスーツの集団だった。その中心に、一人の女が立っている。首元に黄金の牡牛のピンバッジ。仕立てのいいスーツ。書類を抱えたまま、自分のスケジュール帳を確認しながらカウンターへ近づいてくる。
俺と目が合っても、歩みを止めなかった。
「おはようございます、事務官さん」
女は手帳を閉じ、書類をカウンターに置いた。
「中央区の再開発に伴う地権移転の特別請求です。本日付で受理をお願いします。午前中には終わらせたいので」
午前中には。
俺は書類を受け取り、一枚ずつめくった。
内容は、出勤前に読んだとおりだ。法的に成立しているように見えて、その根拠が三重に歪んでいる。公序良俗への抵触が、条項の隙間に巧妙に隠されている。窓口の業務として、これは通せない。
「……内容に不備があります」
「不備?」
女は眉ひとつ動かさなかった。
「どの条項ですか。第何条の、何項に抵触するとお考えですか」
矢継ぎ早に、しかし声を荒げることなく聞いてくる。笑ってもいない。ただ、仕事として処理している顔だ。
俺が答えようとした瞬間、背後の部下たちが左右に退いた。
その中に、一人だけ、書類ではなく床を見ている人間がいた。盤面が展開される位置を、あらかじめ確認するような目線だった。
「——では、盤上で決着をつけましょう」
女が手帳に何かを書き込み、ページを閉じた。
「アンリミテッド・レギュレーションに基づき、対局を申請します。受理してください」
ガチャン、と床が割れた。
事務室の床が幾何学的な盤面へと組み変わる。カウンターが境界線へと変貌する。俺は引き出しから認印を取り出し、対局申請書に受理の判を押した。これも業務だ。
女のデッキが実体化した。
士と象兵が、帥の周囲を隙間なく埋めている。刑事の「城壁」とは異なる配置だ。あれは力の誇示だった。これは違う。隙を一点も残さず、相手の動きを体系的に封じ込める構造。判例を積み上げるように、駒が並んでいる。
【マブイ残量:12】
心臓の横が脈打つ。死者たちのノイズが流れ込んでくる。昨日の影の記憶が指先を冷やそうとする。
俺は引き出しを開け、自分の駒を取り出した。
名もなき兵たちを、盤面に配置する。小さくて、地味で、それでも確かにそこにある駒たちだ。
「……了解」
対局申請書に、もう一つ判を押す。
「これより、本件の精査(対局)を開始します。差し戻しを前提に、処理させていただきます」
兵が一歩、前へ進んだ。
その一手が何をもたらすか、俺にはまだ分からない。ただ、この書類を受理しないことだけは、最初から決まっていた。




