第4話「不適合者の死」
第4話「不適合者の死」
「――次の方。整理番号、三十五番」
声が少し掠れた。
味覚と嗅覚を失ったからといって、喉の渇きが消えるわけではない。デスクの隅のペットボトルを口に含む。水だ。温度を持った、無機質な質量。それ以上の情報が、脳に届かない。
昨夜、俺は人を殺した。
今、俺はいつもと同じように、誰かが人を殺した結果を処理している。
窓口に現れたのは、安っぽいスーツの中年男だった。視線が定まらない。絶えず周囲を確認している。椅子に座ってからも、背後の壁から目が離せないようだった。
「……死亡届、です」
書類を受け取る。氏名:佐藤。年齢:四十二歳。俺の目は迷わず死亡原因の欄へ滑った。
手が、止まった。
この窓口に就いて数年。数え切れないほどの「戦棋による全損」を処理してきた。車兵の激突、槍兵の刺突、象兵の粉砕。からくり駒による暴力は、必ず痕跡を残す。対局ログとして、サーバーに、書類に、物理的な損傷として。
だが、この書類は違った。
死亡原因:該当なし。
特記事項:マブイの完全消失。対局記録、未検出。
「……佐藤さん。この書類、不備があります」
事務的に、しかし確実に言葉を選ぶ。
「死因が特定されていません。アンリミテッドでの事故なら、対局ログがサーバーに残っているはずです。提出してください」
「ないんだよ」
男が身を乗り出した。アクリル板が、荒い呼吸で白く曇る。
「ログなんてない。試合なんてやってない。佐藤は、ただ、歩いてただけなんだ。そこへ——何かが、来た。駒も、宣言も、何もなかった。俺は見てた、見てたんだ、佐藤の隣を、通り過ぎた、それだけで——」
男の指がカウンターを叩く。リズムがない。
「佐藤が、殻になった。マブイをまるごと、削り取られたみたいに。あんなの、ゲームじゃない。あんなの——」
男は同じ言葉を、もう一度繰り返した。
俺は端末を叩き、市の対局管理データベースにアクセスする。第三条により警察は介入不能。第二条により、この街の死はすべて盤の上に記録される。記録されない死は、この街の法体系において存在しない。
検索結果:該当なし。
エラー:記録未検出。
引き出しの中の蟹座の駒が、微かに振動した。死者のノイズが脊髄を這い上がる——怯えているのか、それとも引き寄せられているのか、区別がつかなかった。
「……受理、できません」
「警察が何をしてくれるんだ。第三条がある限り——」
「分かっています」
男は立ち上がり、出口へ向かった。振り返らなかった。
俺は手元の書類を見つめた。不受理の書類は、専用の封筒に入れてシュレッダーボックスの横に置く。これが規定の処理だ。記録されない死は、この窓口においても記録されない。
その作業をしながら、ふと、口の中に金属の味がした。
味覚はないはずだ。昨夜の対局で失った。
顔を上げる。
窓口の列の奥に、整理番号を持たない人影があった。背が高い。それ以上の特徴が、うまく脳に入ってこない。視線が合った、と思った瞬間に、認識がすり抜けていく感覚。
金属の味が、強くなった。
俺は書類に目を落とした。
次に顔を上げたとき、その場所には誰もいなかった。列の人間たちも、誰もそこを見ていなかった。
【マブイ残量:12】
数字は減っていない。刑事戦で0になったはずの数値が、なぜ回復しているのか。考えかけて、やめた。今は関係ない。
俺は「該当なし」の書類が入った封筒を、シュレッダーボックスの横に置いた。
この死は、今日から存在しないことになる。
それが、俺にできる唯一の「処理」だった。
心の中の空白が、昨日より少し広いような気がした。
「――次の方。三十六番、どうぞ」




