第18話「予算補填(リソース・アクイジション)」
第18話「予算補填」
狙撃の弾丸が、IQ120の「影」の右肩を貫通した。
衝撃波が平面の世界を激しく揺らす。影は血を流さない。代わりに、傷口からデジタル・ノイズが噴き出し、周囲の瓦礫を砂へと分解していく。第一射では動じなかった。第二射が当たった。計算が正しくても、計算されていない速度で来た場合の対処が、あいつには組み込まれていなかった。「正規の手続きでない力」に対して、「Locked」は有効でなかった。第四話から知っていた通りだ。
「…………」
影は、初めてその動きを止めた。
ゆっくりと、貫かれた肩を見つめる。驚きも、痛みもない。ただ「予期せぬエラー」が発生したことを確認するような、冷徹な静止。計算を組み直している。その時間が、今ここにある唯一の猶予だ。
【マブイ残量:2】
ドクン。
心臓が不規則に、泥を吐くような音を立てた。
俺の中から、「言語能力(文法)」の半分が消滅した。
「私は君を救う」という文章が組み立てられない。「救済」「対象」「実行」という断片的なタグだけが、脳内の未処理フォルダに積み重なっていく。文章にならない。順番が組めない。だが、タグは正確だ。処理すべき対象は分かる。順番だけが、分からない。窓口業務で言えば、書類の内容は読めるが、どの欄から記入するかが分からない状態だ。実害がないとは言えない。だが、動けないほどでもない。
『……事務官! 限界よ! マブイが底を突くわ!』
『おい、後ろだ! 蟹座の残滓(カニ型MP)が追いついてきやがる!』
背後。庁舎の崩落した隙間から、通行人を喰らって肥大化したカニ型MPが、巨大なハサミを鳴らして地下へ滑り込んできた。狙いは梓のマブイ。そして、弱り切った俺の「器」だ。
二つの脅威が同時に存在している。影とMP。どちらも今すぐ対処すべき案件だ。優先度を決めなければならない。言語が半分消えた頭で、タグだけで判断する。「影:計算停止中、猶予あり」「MP:接近中、猶予なし」。先に処理すべきは後者だ。
影は、カニ型MPと俺を交互に視認した。
IQ120の知性が導き出した最適解は――「共食いによる強者の選別」だ。影は一歩下がり、瓦礫の影へと無音で姿を消した。待っている。俺たちが潰し合い、より質の高いマブイへと精製される瞬間を。効率的だ。介入コストをゼロにして、結果だけを収穫しようとしている。俺の窓口業務と同じ発想だ。案件を処理するのではなく、案件が自然に収束するのを待つ。だからこそ、その計算を逆手に取れる。
――不備。
――否。これは「臨時収入」のチャンスだ。
俺は、平面の世界で、迫り来るカニ型MPのハサミの旋回軌道を読み取った。数値として見える。速度、角度、到達時刻。感情がないから、数値だけが入ってくる。かえって精密だ。弁護士が言っていた。「純粋な知性の領域」。あいつはそれを評価した。今の俺は、あいつが評価した何かになっている。それが正しいのか、判断する回路がない。
「……ターゲット、変更」
俺は「将」の槍を、影ではなく、カニ型MPの最も脆弱な「接合部」へと向けた。
MPを倒せば、そのマブイは徴収できる。刑事・弁護士・蠍座から流れ込んだのと同じ原理で、消耗した俺の器に補充できる。これは残量回復の案件だ。予算不足を補う臨時収入。窓口業務で言えば、予備費の流用申請だ。
『……やる気ね。いいわ、私の「差し押さえ」の権限を、そのハサミに上書きしてあげる!』
『ぶち殺せ! 俺の出来損ないのコピーを、俺(本物)の手でバラバラにしてやる!』
脳内の死者たちが、俺の脊髄を沸騰させる。
刑事の怒りに珍しい質がある。煽りではない。自分の残滓が他者を殺し続けることへの、何かだ。怒りと呼んでいいのか分からない。だが、方向は俺と同じだ。今この瞬間だけ、俺と刑事の残滓が、同じ対象を向いている。
俺は平衡感覚を失ったまま、二次元の座標を「跳んだ」。
カニ型MPのハサミが振り下ろされる。俺はその一撃を避けない。左腕で受け、刑事のハサミで「噛み合わせた」。正面から受けるのは合理的ではない。だが、この角度からのハサミを避けると、カプセルの方向に振り抜かれる。選択肢は一つだった。窓口業務でも、受理したくない案件を受けなければならない場合がある。それが相手を通り抜けさせるより良い結果を生む場合は、受ける。
金属とマブイが擦れる。届かないはずの感触が、何かを通じて腕に返ってくる。ブランク体の駒が熱を持っている。死者たちが、この接触を通じて何かを送り込んでいる。
「……強制、徴収」
瞬間。
カニ型MPの巨体が、内側から黄金の奔流となって爆散した。行き場を失った膨大なエネルギーが、俺の左腕から、空っぽの器へと強引に流れ込む。刑事が市民から奪い、MPがさらに増幅させた濁流が、今度は俺の中に入ってくる。
【マブイ残量:2 → 5】
熱い。
沸騰した鉛を流し込まれたような衝撃。回復したのは「命」ではない。かつて刑事や市民を食らっていた、「暴力と欲望」の濁流だ。これが今の俺の燃料だ。清潔ではない。正当でもないかもしれない。だが、燃える。燃えるなら、使う。窓口に届く申請書の出所を問わないのと、同じ原則だ。
失われていた「感覚」の一部が、物理的にノイズを伴って再起動する。
――ドクン。
「平衡感覚」が戻った。だが、それは人間のものではない。カニ型MPの「多脚的なバランス能力」。上下左右を問わず、どんな壁や天井でも「直立」できる、異質の三半規管。
俺は、倒壊しかけた垂直の壁に、吸い付くように立っていた。
感覚が「戻った」のか「変わった」のか、判断できない。戻ったものと失われたものが、今の俺の中で混在している。どこまでが俺で、どこからがMPの残滓なのか。線引きが、もうできない。できなくても、動ける。動けるなら、続ける。
「…………」
言葉は、まだ戻らない。
だが、世界はより鮮明に、より「不気味に」見えていた。距離が読める。壁の角度が読める。天井と床が同じ意味を持つ。上下の優位性がない世界で、俺は初めて全方向を等しく認識できるようになった。喪失が変容を生んだ。変容が機能を生んだ。これを「進化」と呼ぶのか「汚染」と呼ぶのか、今は判断しない。
俺は、瓦礫の影からこちらを見ている「影」を、壁に張り付いたまま見下ろした。
影が、また計算を組み直している顔をしている。今度は、俺を「変数」ではなく「未知の関数」として処理し始めたかもしれない。
それで構わない。未知の関数は、既存の計算では処理できない。
徴収完了。
言語が戻らない口で、俺は確認した。
「――次、処理」
声は出ているはずだ。
声に、抑揚はない。




