第19話「違法契約(蛇の口付)」
第19話「違法契約(蛇の口付)」
雨が、降り始めていた。
二千百年の空から降るそれは、酸性を含んだ重い液体だ。崩落を続ける市役所庁舎の正面広場に落ちるたびに、コンクリートの粉塵を溶かして黒い泥を作っていく。音は届かない。ただ、雨が叩く地面の振動が、壁を伝って俺の脚に届いている。
逃げ惑う群衆を掻き分け、一人の男が逆走していた。
「……梓! 待ってろ、今助けに……!」
雨宮陣。梓の父親であり、かつて「ペガサス」の紋章を背負い、盤上を駆けた男だ。
防犯カメラの映像で、俺は彼の動きを追っている。壁に張り付いたまま、地下二階から地上のシステムへとアクセスしている。陣という男を、俺は知っているのか。梓の父、という記録がある。顔は出てこない。声も出てこない。「梓の父」というタグだけがある。タグが指す実体が、もう引き出せない。それでも、タグは重要だ。最優先保護対象に関連する人物だ。
彼の足元、アスファルトを割って金色のラインが走る。
だが、それは対局の開始を告げる福音ではなく、「死の宣告」だった。
「ひゃはは! いいねえ、いいマブイだ。娘を助けたいっていう『親の情』……最高に美味そうな調味料だぜ」
瓦礫の山の上に、囚人服をボロボロに引き裂いた男が座っていた。須藤健。蛇使い座の紋章を首筋に刻んだ、筋金入りの凶悪犯。彼の周囲には、たった数枚の駒しか浮いていない。標準構成を無視した、あまりにも貧弱な布陣。
貧弱に見える。それは分かる。だが今まで、貧弱に見えた相手が貧弱だったことはない。書類の量と内容は別の問題だ。薄い申請書に致命的な条項が埋まっていることがある。俺は壁から離れない。まだ観察が足りない。
「……脱獄犯か。失せろ、今は貴様に構っている暇はない」
陣が「騎兵」を五体、一斉に展開する。ペガサスの蹄が雨を跳ね上げ、変幻自在の軌道で須藤を囲む。圧倒的な機動力だ。ペガサスの紋章を背負った男の戦い方を、俺は今初めて見ている。梓の父が、どういう人間だったか。その一端が、盤面に出ている。速い。迷いがない。守るものが明確な人間の動き方だ。
「『構ってくれ』なんて言ってねえよ。……『署名しろ』って言ってんだ」
須藤が、血の色の札を一枚、空中に放り投げた。
「――【契約の札】。これより、お前の『足』は俺の所有物だ」
瞬間、陣の騎兵たちの脚に、黒い蛇のような影が絡みついた。実体化した駒の悲鳴が、振動として地面を走る。ペガサスの機動力が、文字通り地面に「縫い付けられる」。
俺は壁の上でその場面を解析した。契約の札。対局申請と同時に、相手のマブイを担保に取る手口だ。申請書の中に抵当条項を埋め込む、書類の暴力だ。弁護士が第五話でやろうとしていたことと、構造が同じだ。だがあれは土地の話だった。これは駒そのものを担保にしている。
「なっ……何をした!? 俺の駒が、動かない……!?」
「動かないんじゃねえよ。……俺の許可なく動くなって言ってんだ。……ほら、こっちへ来い」
須藤が指を鳴らす。すると、陣が操っていたはずの騎兵二体が、瞳を濁らせ、ゆっくりと須藤の陣営へと寝返った。
寝返り。アンリミテッドにおいて最も忌むべき、マブイの強制書き換え。脳内の弁護士が即座に反応した。
『……最悪の手口ね。対局受理と同時に担保権を設定して、相手の駒を自分の資産に変える。書類上は「合意」だから、条項で無効化できない』
弁護士の声が、珍しく感情の色を持っている。職業的な嫌悪だ。同業者の最悪の使い方を見ている顔だ。
「……貴様、他人のマブイを……魂を盗んでいるのか!」
「盗む? 人聞きが悪いなあ。これは『合意』だ。……お前が俺との対局を受理した時点で、お前のマブイは俺の抵当に入ってんだよ」
須藤は、手に入れたばかりの「ペガサスの騎兵」に跨り、高笑いした。
俺は、その構造を見た。受理した瞬間に担保が成立する。つまり、受理させることが目的だ。勝敗は関係ない。相手が申請書を受け取った瞬間に、手続きは完了している。この男は、対局の勝者になる必要がない。窓口に書類を出させることだけが、目的だ。
脳内の議場が、三人同時に静かになった。
刑事も弁護士も蠍座も、この男の手口を前にして黙った。影の時とは違う沈黙だ。あの時は恐れで黙った。今は、違う理由で黙っている。この手口を、三人とも「知っている」からだ。自分たちがやってきた暴力の亜種を、見ているから黙っている。
地下二階。
壁を這い、影を追う俺の脳内に、新しい「ノイズ」が流れ込んだ。
――……あ、ま……み……や。
――……たす……けて。
それは梓の深層意識か。それとも、地上で「蛇」に食われようとしている父親の叫びか。判別できない。判別するための記憶が、もうない。「雨宮」というタグが、二つの信号に同時に反応している。どちらも最優先保護対象に関連している。
【マブイ残量:5】
ドクン。
俺の中から、また一つ、何かが消えた。
「血の繋がり」という概念。目の前のカプセルの中にいる「最優先保護対象」を、なぜ守らなければならないのか。その「生物学的な理由」が、システムの燃料として焼却される。
タグだけが残る。「最優先保護対象」「未完了の業務」「完遂の必要性」。理由の説明が消えた後も、命令だけが残っている。命令の根拠が焼却されても、命令そのものは消えない。これが呪いと業務の違いだ。呪いは解ける。業務は、完了するまで消えない。
残ったのは、ただ一点。
「未完了の業務を、完遂しなければならない」という、呪いのような執務命令だけだ。
俺は、壁に張り付いたまま状況を整理した。
地下:影、計算再構成中。梓のカプセル、Locked表示継続中。
地上:須藤、陣のマブイを担保取得中。陣、戦力低下。
二つの戦線が同時に動いている。俺が対処できる案件は、一度に一件だ。優先度を決めなければならない。言語が半消失した頭で、タグだけで処理する。
「影:梓への直接接触なし、現在観察停止中」「須藤:陣のマブイ喰い進行中、放置すれば完食される」「陣:最優先保護対象の父、関連人物、保護対象か否か判断要」。
判断に使える情報がある。梓の「たすけて」という信号が、二つの信号に同時に反応した。梓のマブイが、地上の陣に反応している。梓は父親を知っている。梓のマブイが、陣の危機に反応している。
それで充分だ。
「…………」
壁に張り付いたまま、俺は地上への移動経路を算出した。
地下二階から地上まで。崩落した庁舎の構造を平面図として解析する。通常の経路は使えない。MPの多脚的なバランス能力があれば、垂直の壁を走ることができる。外壁を上がれる。
地上では蛇が牙を剥き、地下では影が鎌を研ぐ。
どちらも処理しなければならない。順番がある。書類には、順番がある。
先に地上の案件を処理する。須藤の「違法契約」には、必ず不備がある。対局申請と同時に担保権を設定する手口は、相手の「合意」を前提としている。合意の成立に不備があれば、担保権は無効だ。陣は「失せろ」と言った。申請を拒絶する意思を示した。だが対局申請を受け取ってしまった。受け取った瞬間に担保が成立したとするなら、受け取りの有効性そのものを争う余地がある。
俺は壁を蹴り、崩落した庁舎の外壁へと移動を開始した。
二千百年の市役所。
そこは今、全市民を巻き込んだ「最悪の窓口」へと姿を変えていた。
だが窓口には、窓口の原則がある。
不備のある申請は、受理しない。
受理してしまった申請でも、不備が判明した時点で差し戻せる。
差し戻せる。
「――本件、精査します」
声は出ているはずだ。
声に、抑揚はない。




