表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
からくり戦棋  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/23

第17話「保存データの損壊(データ・コリジョン)」

第17話「保存データの損壊データ・コリジョン


 二次元の視界が、激しいノイズと共に明滅する。

 市役所の地下二階。本来なら最も堅牢であるはずのこの場所が、今、上の階から降り注ぐ数トンのコンクリートと鉄筋によって、ただの「圧殺室」へと変わりつつあった。

 ここは毎晩来た場所だ。椅子を引いて、ガラスの前に座った場所だ。カプセルの人工呼吸器が一定のリズムを刻んでいた場所だ。その記憶が、名前と顔と一緒に消えた今も、「ここに来なければならない」という論理だけが残っている。

 音は聞こえない。

 だが、頭上の天井が「紙」のように裂け、巨大な瓦礫が重力に従って直進してくる様子が、スローモーションのベクトルデータとして網膜に焼き付く。数値を読む。質量と速度から衝突時刻を計算する。これは窓口業務と同じだ。書類の数字を読んで、処理可能かどうかを判断する。

 結論:処理可能だが、猶予は四秒以内。

 ――最優先保護対象。

 俺は、名前も顔も思い出せなくなった「彼女」のカプセルへと、平面の床を滑走した。

『おい、事務官! 左だ! 牡牛座のバグが天井を突き破って来やがるぜ!』

『計算外ね……。物理的な崩落が、システムの「盤面」を強制的に書き換えているわ。……このままだと彼女ごと「削除」される!』

 刑事と弁護士の警告が、脳内で火花を散らす。両者が同時に同じ情報を伝えている。議場が、また実務に切り替わった。

 俺は「将(継ぎ接ぎの駒)」を掲げた。刑事のハサミで迫り来る鉄骨を弾き、弁護士の角で足元の地割れを固定する。蠍座の弾道予測が補助線を描いて、次の瓦礫の軌道を先読みする。三人が一つの動きに収束している。議場が会議をやめて、手を動かしている。

 だが、その瓦礫の雨の隙間に、「それ」はいた。

 梓のカプセルの直上。

 物理的な崩壊が止まったかのような、奇妙な真空地帯。

 そこに、あの「影」が、重力を無視して逆さまに立っていた。

 路地。第窓口。防犯カメラ。廊下。毎回、消える前に一拍だけ存在していた。今回は、消えていない。待っていたのかもしれない。この崩落を。俺が消耗しきるのを。

「…………」

 そいつは、壊れかけたカプセルのガラスに、細長い「指」のような触肢を這わせている。

 助けるつもりも、壊すつもりもない。

 ただ、システムのバグによって露出した「剥き出しのマブイ」を、効率的に、そして事務的に収穫しようとしている。農夫が熟した果実を摘む動作に似ている。感情がない。手順だけがある。俺の窓口業務を、鏡に映したような動作だ。だからこそ、俺には分かる。あれは止まらない。処理が完了するまで、止まらない。

 【マブイ残量:3】

 ドクン。

 意識の深淵で、何かが「プツリ」と切れた。

 俺の中から、「恐怖」という感情が完全に消失した。

 死ぬことへの恐れ、彼女を失うことへの焦り、化け物への忌避感。それらすべてが「不要なプロセス」として強制終了された。今の俺は、ただ「障害を排除する」という目的のためだけに最適化された、冷徹な「演算機」だ。

 これが軽くなることなのか、壊れることなのか、判断する回路がない。ただ、軽い。処理が速い。邪魔なものが何もない。

 ――梓。

 その唇が、かつて俺に「大好き」と告げた時の形。その視覚データさえも、今、俺の脳から消去され、空いたメモリが「射撃解」の計算に回される。

 消えた。

 だが論理は残っている。名前も顔も声も消えた「最優先保護対象」を守るという論理が、まだある。感情がなくても論理は動く。論理がある限り、手は動く。

『……やるわね、事務官。感情を捨てて、あいつと同じ「純粋な知性」の領域に足を踏み入れたわけね』

 弁護士の声に、珍しく評価の色があった。分析ではなく、承認だ。

『蠍座のライセンスを使え! あの「影」の眉間に、事務的な処刑をブチ込んでやれ!』

 刑事の声に、煽りではなく、切迫があった。

 俺は「将」の形態を、長距離狙撃銃へと変形させた。

 蠍座のライセンス。一時預かりした彼女の権限が、今ここで使われる。強制収用した時、蠍座は「私の銃が消えた」と叫んでいた。その銃が今、俺の手にある。彼女が千メートルの射程で守ろうとしていた「秩序」が、今、別の方向を向いている。

 平面図と化した視界の中で、影の急所に赤いカーソルが重なる。影は動かない。俺が狙っていることを知っているはずだ。それでも動かない。自分が「Locked」という処理で守られていると計算しているのか。計算が正しい可能性は高い。だが、正しい計算が唯一の答えではない。窓口業務で学んだことだ。

「……本件。……緊急の『強制執行』に切り替える」

 俺は、感情の消えた指で、引き金を引いた。

 音の無い世界で、マブイを圧縮した「弾丸」が、崩落する瓦礫のわずかな隙間を縫って、IQ120の影へと肉薄する。

 三人分の死者が込められた弾だ。刑事が市民から奪ったマブイ。弁護士が地権者から剥ぎ取ろうとした土地。蠍座が守ろうとしていた秩序。それぞれが別々の形で「奪われたもの」として、この弾丸に収束している。

 影が、初めてこちらを向いた。

 無機質な、しかし驚異的な計算速度を感じさせる視線。そいつは俺を「処理すべきノイズ」として認識しているのではない。初めて、俺を「変数」として認識している顔だ。想定の外から来た変数に、計算を組み直そうとしている。

 だが、遅い。

 そいつは、弾丸を避けるのではない。カプセルの表面にある「Locked」の文字を指でなぞり、俺の攻撃を「無効なアクセス」としてシステム的に処理しようと試みた。

 正攻法だ。「Locked」は正規の権限だ。正規の権限による処理は、正規の手続きで無効化できる。あいつの計算は正しい。

 だが俺の放った弾丸には、刑事の「暴力」と弁護士の「詭弁」と蠍座の「射程外からの一撃」が混ざっている。どれも、正規の手続きを想定していない力だ。条項の外から来る力に対して、条項による無効化は機能しない。第四話から、俺はそれを知っていた。記録されない暴力は、記録された手続きでは止められない。その逆もある。

 ドッ、という振動が平面の世界を震わせた。

 カプセルの「Locked」表示が、一瞬だけ点滅した。

 点滅は、エラーだ。

 エラーは、不備だ。

 不備は、差し戻せる。

『いけ』と刑事が言った。

『今よ』と弁護士が言った。

『撃ちなさい』と、今まで沈黙していた蠍座が言った。

 三人が同時に、同じことを言った。

 脳内議場が、ここで初めて全員一致の議決を出した。

「……受理します」

 俺は、第二射の引き金を引いた。

 声に、抑揚はない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ