第17話「保存データの損壊(データ・コリジョン)」
第17話「保存データの損壊」
二次元の視界が、激しいノイズと共に明滅する。
市役所の地下二階。本来なら最も堅牢であるはずのこの場所が、今、上の階から降り注ぐ数トンのコンクリートと鉄筋によって、ただの「圧殺室」へと変わりつつあった。
ここは毎晩来た場所だ。椅子を引いて、ガラスの前に座った場所だ。カプセルの人工呼吸器が一定のリズムを刻んでいた場所だ。その記憶が、名前と顔と一緒に消えた今も、「ここに来なければならない」という論理だけが残っている。
音は聞こえない。
だが、頭上の天井が「紙」のように裂け、巨大な瓦礫が重力に従って直進してくる様子が、スローモーションのベクトルデータとして網膜に焼き付く。数値を読む。質量と速度から衝突時刻を計算する。これは窓口業務と同じだ。書類の数字を読んで、処理可能かどうかを判断する。
結論:処理可能だが、猶予は四秒以内。
――最優先保護対象。
俺は、名前も顔も思い出せなくなった「彼女」のカプセルへと、平面の床を滑走した。
『おい、事務官! 左だ! 牡牛座のバグが天井を突き破って来やがるぜ!』
『計算外ね……。物理的な崩落が、システムの「盤面」を強制的に書き換えているわ。……このままだと彼女ごと「削除」される!』
刑事と弁護士の警告が、脳内で火花を散らす。両者が同時に同じ情報を伝えている。議場が、また実務に切り替わった。
俺は「将(継ぎ接ぎの駒)」を掲げた。刑事のハサミで迫り来る鉄骨を弾き、弁護士の角で足元の地割れを固定する。蠍座の弾道予測が補助線を描いて、次の瓦礫の軌道を先読みする。三人が一つの動きに収束している。議場が会議をやめて、手を動かしている。
だが、その瓦礫の雨の隙間に、「それ」はいた。
梓のカプセルの直上。
物理的な崩壊が止まったかのような、奇妙な真空地帯。
そこに、あの「影」が、重力を無視して逆さまに立っていた。
路地。第窓口。防犯カメラ。廊下。毎回、消える前に一拍だけ存在していた。今回は、消えていない。待っていたのかもしれない。この崩落を。俺が消耗しきるのを。
「…………」
そいつは、壊れかけたカプセルのガラスに、細長い「指」のような触肢を這わせている。
助けるつもりも、壊すつもりもない。
ただ、システムのバグによって露出した「剥き出しのマブイ」を、効率的に、そして事務的に収穫しようとしている。農夫が熟した果実を摘む動作に似ている。感情がない。手順だけがある。俺の窓口業務を、鏡に映したような動作だ。だからこそ、俺には分かる。あれは止まらない。処理が完了するまで、止まらない。
【マブイ残量:3】
ドクン。
意識の深淵で、何かが「プツリ」と切れた。
俺の中から、「恐怖」という感情が完全に消失した。
死ぬことへの恐れ、彼女を失うことへの焦り、化け物への忌避感。それらすべてが「不要なプロセス」として強制終了された。今の俺は、ただ「障害を排除する」という目的のためだけに最適化された、冷徹な「演算機」だ。
これが軽くなることなのか、壊れることなのか、判断する回路がない。ただ、軽い。処理が速い。邪魔なものが何もない。
――梓。
その唇が、かつて俺に「大好き」と告げた時の形。その視覚データさえも、今、俺の脳から消去され、空いたメモリが「射撃解」の計算に回される。
消えた。
だが論理は残っている。名前も顔も声も消えた「最優先保護対象」を守るという論理が、まだある。感情がなくても論理は動く。論理がある限り、手は動く。
『……やるわね、事務官。感情を捨てて、あいつと同じ「純粋な知性」の領域に足を踏み入れたわけね』
弁護士の声に、珍しく評価の色があった。分析ではなく、承認だ。
『蠍座のライセンスを使え! あの「影」の眉間に、事務的な処刑をブチ込んでやれ!』
刑事の声に、煽りではなく、切迫があった。
俺は「将」の形態を、長距離狙撃銃へと変形させた。
蠍座のライセンス。一時預かりした彼女の権限が、今ここで使われる。強制収用した時、蠍座は「私の銃が消えた」と叫んでいた。その銃が今、俺の手にある。彼女が千メートルの射程で守ろうとしていた「秩序」が、今、別の方向を向いている。
平面図と化した視界の中で、影の急所に赤いカーソルが重なる。影は動かない。俺が狙っていることを知っているはずだ。それでも動かない。自分が「Locked」という処理で守られていると計算しているのか。計算が正しい可能性は高い。だが、正しい計算が唯一の答えではない。窓口業務で学んだことだ。
「……本件。……緊急の『強制執行』に切り替える」
俺は、感情の消えた指で、引き金を引いた。
音の無い世界で、マブイを圧縮した「弾丸」が、崩落する瓦礫のわずかな隙間を縫って、IQ120の影へと肉薄する。
三人分の死者が込められた弾だ。刑事が市民から奪ったマブイ。弁護士が地権者から剥ぎ取ろうとした土地。蠍座が守ろうとしていた秩序。それぞれが別々の形で「奪われたもの」として、この弾丸に収束している。
影が、初めてこちらを向いた。
無機質な、しかし驚異的な計算速度を感じさせる視線。そいつは俺を「処理すべきノイズ」として認識しているのではない。初めて、俺を「変数」として認識している顔だ。想定の外から来た変数に、計算を組み直そうとしている。
だが、遅い。
そいつは、弾丸を避けるのではない。カプセルの表面にある「Locked」の文字を指でなぞり、俺の攻撃を「無効なアクセス」としてシステム的に処理しようと試みた。
正攻法だ。「Locked」は正規の権限だ。正規の権限による処理は、正規の手続きで無効化できる。あいつの計算は正しい。
だが俺の放った弾丸には、刑事の「暴力」と弁護士の「詭弁」と蠍座の「射程外からの一撃」が混ざっている。どれも、正規の手続きを想定していない力だ。条項の外から来る力に対して、条項による無効化は機能しない。第四話から、俺はそれを知っていた。記録されない暴力は、記録された手続きでは止められない。その逆もある。
ドッ、という振動が平面の世界を震わせた。
カプセルの「Locked」表示が、一瞬だけ点滅した。
点滅は、エラーだ。
エラーは、不備だ。
不備は、差し戻せる。
『いけ』と刑事が言った。
『今よ』と弁護士が言った。
『撃ちなさい』と、今まで沈黙していた蠍座が言った。
三人が同時に、同じことを言った。
脳内議場が、ここで初めて全員一致の議決を出した。
「……受理します」
俺は、第二射の引き金を引いた。
声に、抑揚はない。




