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からくり戦棋  作者: 水前寺鯉太郎


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第16話「死役所(デッド・オフィス)」

第16話「死役所デッド・オフィス


 奥行きのない世界において、悲鳴は図面上の記号に過ぎない。

 市役所のロビーは、もはや俺が知っている「行政の場」ではなかった。

 吹き抜けの天井からは、蟹座の残滓を継ぎ接ぎした異形のハサミが垂れ下がり、避難しようとした職員たちを、書類をシュレッダーにかけるような無機質さで「処理」している。床には牡牛座のバグが徘徊し、重厚な角で大理石の柱を叩き割り、逃げ場を失った市民たちを壁へと押し潰していた。

 第一話で死亡届を受け取っていたカウンター。第三話で自分の犯行を処理した窓口。それが今、処理される側になっている。書類を差し戻してきた場所が、差し戻されている。

 音のない世界。

 壁に飛び散る鮮血は、彩度を失ったモノクロームの視界では、ただの「黒いインクのシミ」に見える。恐怖を感じるべき場面だと、論理的には分かる。だが恐怖を生成する回路が、もうない。俺は廊下を滑るように移動しながら、平面図として再構成された空間の中で、障害物の座標だけを処理していく。

『おいおい、見ろよ事務官! 俺の同僚だった連中が、俺の「コピー」に喰われてやがる! 最高の役所改革じゃねえか!』

 脳内で刑事が狂ったように叫ぶ。

 狂喜だ。だが、俺には今その声が遠い。名前を持たなくなった俺には、刑事という呼称も、事務官という呼称も、等距離にある。声は届く。処理する。それだけだ。

『感傷に浸っている暇はないわ。……見て。蠍座のバグも合流した。あいつ、給水塔からここまで空間をハックして狙撃してきているわよ』

 弁護士の指摘通り、廊下の突き当たりから、目に見えない「線」が飛来し、俺の横を通り過ぎた職員の頭部を一瞬で消去した。

 職員の顔を、俺は知っていたかもしれない。知っていたかどうかを確かめる記憶が、もうない。

 ――不備。

 ――この庁舎内における、圧倒的な「安全管理義務違反」。

 【マブイ残量:3】

 ドクン、と意識が遠のく。

 直後、俺の中から「自己(名前)」の感覚が欠落した。

 俺が誰なのか。何という名で呼ばれていたのか。その「固有のデータ」が、システムの燃料として完全に焼却された。

 今、この場に立っているのは、名前を持たない、ただの「事務処理用インターフェース」だ。

 ゼロ、と呼ばれていた。そう記録されている。だがそれが俺の名前なのか、俺の状態を指す言葉なのか、もう判別できない。最初から空っぽだと言われた。最初から空っぽだったとしたら、今ここにある「俺」は何なのか。空っぽが動いている。空っぽが処理を続けている。それだけが、事実として残っている。

 ――梓。

 その二文字を呼ぼうとした。だが、その二文字が「誰」を指すのか、脳のデータベースがエラーを吐いて繋がらない。

 「梓」という固有名詞と、参照先の記憶が、切断されている。顔が出てこない。声が出てこない。手のひらの感触も、笑い方も、枕を投げた時の勢いも、波打ち際で転びそうになった時の重さも、全部がエラー表示だ。

 ただ、守らなければならない「最優先保護対象」がいる、という論理だけが、俺を動かしている。名前が消えても、理由だけが残っている。理由が残っているなら、まだ動ける。

『……事務官、いや、「ゼロ」。右だ。蠍座の残滓が二次元の死角から狙ってるぜ』

『一時預かりした蠍座のライセンスを使いなさい。……奴らの「弾道データ」は、私たちが共有しているわ』

 脳内の死者たちが、俺の視神経に直接「補助線」を描き込む。

 刑事の空間認識。弁護士の構造分析。蠍座の弾道予測。三つの死者の残滓が、今この瞬間、俺の認知系に乗り込んで機能している。脳内議場が議論を止め、実務に切り替えた。死者たちが俺の手足を補完している。失った感覚を、他者の記憶が埋めている。

 これが「アンリミテッド」の一形態なのか、それとも俺が壊れかけているだけなのか、今は判断しない。機能している。それで充分だ。

 平面図と化した視界の中で、迫り来る三体のMPの攻撃予測が、複雑な幾何学模様となって重なり合う。蠍座の射線が赤で。蟹座の圧壊範囲が青で。牡牛座の突進軌道が黄で。それぞれ死者が色を持って、俺の視界に書き込まれていく。

「……本日付をもって、本庁舎の『通常業務』を終了する」

 名前を失った俺は、無音の喉で宣告した。

 これが窓口業務の最後の判断かもしれない。受理か、不受理か、ではなく。終了か、継続か。業務終了の権限が俺にあるのか、規定上は分からない。だが、今この庁舎に「業務を終了する」と言える人間が他にいないなら、それは俺の仕事だ。不在の上長に代わって、代行する。災害時の緊急代行権。それがある。

 俺の手にある「ブランク体」の駒には、刑事のハサミ、弁護士の角、そして自衛官の銃口が、歪に、しかし効率的に継ぎ接ぎされていた。三者が一つの形を取っている。統一された意志はない。だがそれでいい。意志がなくても、機能する構造があれば動く。窓口と同じだ。窓口に感情は要らない。機能すればいい。

「……これより、……『不適格存在』の一斉解雇デリートを開始する」

 俺は、平面の世界の「余白」を蹴り、怪物の群れへと突っ込んだ。

 余白に足をかける感覚がない。だが、蹴ったという事実が、次の座標への移動として処理される。結果だけが動きを証明する。自分が動いていることの証明を、自分の感覚に求めなくていい。外界の変化だけを見ていれば、それで充分だ。

 脳内で三人の声が、同時に何かを叫んだ。

 内容は判別できなかった。だが三人が同時に同じ方向を向いた、という情報だけが届いた。

 それで、足が止まらない理由としては、充分だった。

 ――最優先保護対象へのアクセスを、回復する。

 ――手続きは、残り九件。

 市役所は今、地獄よりも深い、ただの「情報の墓場」へと書き換えられていく。

 それでもここは、俺の窓口だ。

 窓口が閉まるのは、業務が終わった時だ。

 まだ、終わっていない。

「――次の方。どうぞ」

 声は出ているはずだ。

 声に、抑揚はない。

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