第15話「管轄外の徴収(アウト・オブ・バジェット)」
第15話「管轄外の徴収」
千メートルの「安全」が、一瞬でゼロになった。
カニ型MPが、地面を「滑る」のではない。空間そのものをバグらせ、座標を飛び越えたのだ。給水塔の上、狙撃銃を構えたままの蠍座の背後に、その巨大なハサミが影を落とした。
距離という概念が、あいつには適用されない。千メートルの射程を持つ狙撃手を、千メートルの安全地帯ごと無効化した。第四話の男が言っていた。「通り過ぎただけで、殻になった」。座標の飛び越えは、あの時から始まっていたのかもしれない。
音のない世界。蠍座の絶叫は、俺の耳には届かない。
ただ、彼女の喉が千切れんばかりに震え、銃身が激しく揺れる視覚情報だけが、致命的なパニックを伝えてくる。
『ひゃはは! 見ろよ、あの女の顔! まるで今朝の窓口で「受理不能」を突きつけられた市民そっくりだぜ!』
脳内で刑事が狂喜する。自分の成れの果てが、かつての「法の仲間」を追い詰める光景が、よほど愉快らしい。
だが笑い方が、さっきと違う。さっきの静寂が嘘のように、また煽っている。静かになれたのは、一瞬だけだったのか。残滓が笑うことで自分の存在を確認している。止まれない笑いだ。
『……冷静になりなさい。あいつ、彼女を「食べる」つもりじゃない。……彼女のマブイを媒介にして、この盤面全体の「管理権限」を奪おうとしているわ』
弁護士が、俺の脳の端で冷徹なアラートを鳴らす。
カニ型MPのハサミが、蠍座の胸元にある蠍座の紋章へと伸びる。命を奪うためではなく、彼女が持つ「正規のライセンス」を剥ぎ取るための、暴力的な強制アクセスだ。食うより奪う方が効率的だと、学習した。弁護士が言った通りだ。IQ120の知性が、一手ごとに精度を上げている。
【マブイ残量:4】
ドクン、と心臓が重く、一度だけ脈打った。
直後、俺の中から「奥行き(立体感覚)」が消失した。
世界が、一枚の薄っぺらな「図面」へと平坦化した。千メートルの距離も、ビルの高さも、全てが平面上の座標データとしてのみ認識される。三次元の情報が、二次元の処理系で再構成されていく。それはむしろ、書類に近い。書類は平面だ。全ての情報が一枚の紙に記述される。俺は書類を読む訓練を積んできた。
――梓。
彼女の頬の曲線の柔らかさ。その立体的な「美しさ」の記憶が、今、俺の脳内アーカイブから物理的に削除された。立体として梓の顔を思い出せなくなった。輪郭の線だけが残っている。設計図に人を写したような、座標の集合としての梓だ。それでも、輪郭だけは残っている。それだけが、まだある。
「…………」
俺は、平面になった世界を「事務的」に解析した。
三次元の物理法則が通用しないなら、紙の上の「手続き」で解決すればいい。図面の上での座標移動は、書類の条項移動と同じだ。どの欄にどの情報を転記するか。それだけだ。
俺は「将」を、自分と蠍座の「中間地点」――平面図上の「重なる点」へと滑り込ませた。
「……緊急事態につき、……『管轄の委託』を申請する」
懐の「ブランク体」の駒を、自分の影へと突き立てた。
第三条により、警察は対局内容に介入不能だ。だが市役所は警察ではない。市役所には「災害時の緊急代行権」がある。条項の隙間ではない。条項が想定していなかった場所にある、正当な権限だ。書類で言えば、既存の様式に当てはまらない案件を処理するための「特例申請」に相当する。窓口に就いた初日、先輩に言われた。どんな案件も、必ずどこかに受け口がある。ないと思ったら、探し方が足りないだけだ。
「……これより、蠍座の全資産を、本市役所の『一時預かり』として処理する」
瞬間。
カニ型MPのハサミが蠍座に触れる寸前、彼女の体が黄金の光となって溶解し、俺の「将」の槍の中へと吸い込まれた。
マブイの強制収用。
MPのハサミが空を切る。獲物を失った怪物の複眼が、怒りではなく、システムエラーを報告するデバッグ画面のような無機質さで、俺を見据えた。
想定外の手続きに、一瞬だけ処理が止まっている。その一瞬が、今日ここに存在する唯一の「不備」だ。
【マブイ残量:3】
蠍座を「預かった」代償として、さらに数値が削れる。
残量の台帳を確認する。視覚、聴覚(外部)なし、触覚は輪郭のみ、立体感覚なし、疲労感なし、平衡感覚なし、味覚、嗅覚、温覚、痛覚なし。残っているものより、消えたものの方がずっと多い。マブイ残量は3。俺が俺でいられる時間が、残りわずかだ。
俺の脳内で、今度は蠍座の「叫び」が、刑事と弁護士の喧騒に加わった。
『……な、何をしたの!? 私の体が……私の銃が、消えた……!?』
『ようこそ、事務官の「ゴミ箱」へ。あんたも今日から、俺たちの「連帯保証人」だぜ』
刑事の嘲笑。
蠍座の混乱。
弁護士の演算。
脳内議場が、三声で騒いでいる。議長は俺だが、もう裁く余力もない。騒がせておく。今はそれでいい。
俺は、三次元の奥行きを失った視界の中で、目の前に迫る巨大な「カニ型のバグ」と対峙した。
あいつが刑事の残滓から生まれたことを、俺は知っている。脳内の刑事も知っている。向こうも、知っているのだろうか。知らないかもしれない。意志なき機構に、自己認識は要らない。
だがブランク体の駒が、また熱を持った。触覚のない指に、また届いた。蟹座の紋章が、蠍座の紋章が、牡牛座の紋章が、同時に脈動している。死んでいった人間たちが、そのバグを見て、何かを要求している。
「……手続きは、済ませました」
俺は、感覚の消えた左腕を、怪物の喉元へと突き出した。
向こうは動かない。俺を「処理対象」として認識している。だが俺はすでに処理されている側ではない。これは執行だ。不当な生命収徴に対する、緊急監査の最終段階だ。
申請書はない。宣言もない。対局記録も残らないかもしれない。それでも構わない。
第四話で封筒を横に置いた時から、記録されない暴力への答えを探してきた。今がその回答だ。
「……次の方、どうぞ。……『破棄』の準備はできています」
声は出ているはずだ。
声に、抑揚はない。




