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からくり戦棋  作者: 水前寺鯉太郎


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第14話「公文書外の惨劇」

第14話「公文書外の惨劇」


 それは、対局ではない。ただの「処理」だ。

 千メートルの廃ビル平原。その眼下、避難が遅れた通行人たちが、盤面の延伸に巻き込まれていた。音を喪失した俺の視界の中で、ドラマも予兆もなく、悲劇が事務的に繰り返される。悲鳴が上がっているはずだ。口が開かれ、喉が震えている人間が複数いる。だが俺には届かない。無音の世界で見る死は、記録映像に近い。感情が差し込む余地が、最初からない。

 カニ型MPの巨大なハサミが、逃げ惑う会社員の背中を、熟した果実のように容易く挟み取った。

 男は何かを叫んでいる。口が大きく開かれ、喉が震えている。だが、俺の耳に届くのは、俺の脳内に寄生する死者たちの哄笑だけだ。

『ひゃはは! 見ろよ事務官、俺の「残滓」が、俺が守るはずだった市民をいい音立てて潰してやがるぜ!』

 刑事が、肺の奥で狂ったように笑う。

 その笑い方を、俺は知っている。第一話の地下廊下で聞いた声だ。だがあの時は、まだ余裕があった。あの時の刑事は、俺を試していた。今この声には、試すものも守るものもない。残滓が笑っている。笑うしかないから笑っている。

 カニ型MPは、挟み殺した男から溢れ出す青白いマブイを、そのままノイズへと吸い込んでいく。捕食。喰われるたびに、MPの甲殻に刻まれた警察バッジの破片が、より禍々しい輝きを放ち、その巨大なハサミが数センチずつ成長していく。マブイを喰うたびに強くなる。成長のサイクルが確立されている。

『……非効率ね。マブイ密度の低い一般人をいくら喰っても、システムの肥やしにしかならないのに。……ああ、でも見て。あいつ、IQ120の知性で「効率」を学習し始めたわ』

 弁護士が冷静に指摘する。

 カニ型MPは、ただ闇雲に襲っているのではない。通行人たちをあえて逃がし、一箇所に集め、マブイの品質ごとに選別して、最も栄養価の高い者から順に処理しているのだ。

 その光景は、俺が窓口で書類を仕分ける動作に、あまりにも酷似していた。優先度の高い案件から処理する。効率化の原則。俺が毎朝やっていることと、構造が同じだ。だから余計に、目が離せない。

 【マブイ残量:4】

 ドクン、と脳が拍動した。

 直後、俺の中から「平衡感覚」が消滅した。

 上下の区別がつかなくなり、世界が万華鏡のように回り始める。俺は膝をつき、コンクリートを左手で必死に掴んだ。感触がない。掴んでいるのが視覚で分かるだけだ。どのくらいの力で掴んでいるかも分からない。床が揺れているのか、俺が揺れているのか、判別できない。

 吐き気を抑えようとして、吐き気がないことに気づいた。数話前に燃料として使い果たしている。俺の肉体は、ただ「立っているのが困難である」という客観的事実だけをエラーログとして処理し、視覚情報だけで無理やり水平を再構成する。エラーを無視して動く機械がある。今の俺はそれだ。

 ――梓。

 彼女と波打ち際を歩いた時、砂に足を取られて笑い合った。あの、世界が揺れるような心地よい感覚。梓は転びそうになって俺の腕を掴んだ。その時の力加減を、俺はまだ覚えているか。確かめようとして、インデックスが応答しなかった。

 それも今、俺の脳から「不要なデータ」としてパージされた。

「……あ、……う……」

 蠍座は、給水塔の上で絶望に顔を歪めていた。

 彼女の槍兵は、カニ型MPの硬質な甲殻を傷つけることさえできない。彼女が守ろうとしていた「秩序」が、彼女の元同僚の残滓に喰い荒らされている。皮肉だ。蠍座が俺と対局していた理由がなんであれ、彼女はこのMPと戦うために来たわけではない。だが今、彼女は俺でも、MPでもない、第三の何かに直面している。

 孤立した陣地から、援軍を呼べない場所で、理解できない敵に晒されている。

 窓口に来た老婆の顔が、一瞬だけ重なった。助けを求める顔の形は、同じだ。

『事務官、いつまで這いつくばってやがる。あいつを止めねえのか? 市民を守るのがお前の「業務」だろ?』

 刑事が、俺の意識を突き上げる。笑いは消えていた。からかいでもない。嘲笑でもない。何か別のものが、その声にある。俺を動かしたい、という残滓の意志だ。自分の残滓が市民を殺しているという事実が、死者にもまだ何かを動かしている。

 俺は、焦点の定まらない目で、カニ型MPを見据えた。

 そいつは、十数人の通行人を「処理」し終え、その巨大な複眼をゆっくりと俺の方へ向けた。

 選別が終わった。次のターゲットが、俺だ。

 ――不備。

 ――この殺戮には、「正当な理由(判決)」がない。

 対局申請はない。宣言はない。盤面の外での殺傷だ。第四条の免責要件を満たしていない。これは、条項の想定外にある。第四話の「該当なし」と同じ種類の暴力だ。あの時、俺は封筒を横に置くことしかできなかった。不受理の書類をシュレッダーボックスの横に置いた。

 だが今は、盤面がある。俺の認印がある。梓の誕生日に贈られた、ありふれた楕円の判子がある。

 記録されない暴力に対して、窓口ができることは一つだけだ。

 受理する前に、止める。

 俺は、懐の「ブランク体」の駒を引き抜いた。

 刑事の蟹座、弁護士の牡牛座、自衛官の蠍座。三つのパーツが、MPの出現に呼応するように、これまでにない激しさで脈動している。駒の表面に刻まれた紋章たちが、自分の残滓を見て何かを叫んでいる。怒りか、恐怖か、あるいは弔いか、俺には判別できない。

 だが、その熱だけは届く。触覚を失った指先に、これだけが届く。

 失ったはずの感覚が、この駒を通じて戻ってくる。

 俺は、平衡感覚の消えた足で、一歩を踏み出した。

 転ばない。体が覚えているからだ。歩き方を忘れた人間はいない。どれだけ感覚が削れても、繰り返した動作だけは残る。梓のカプセルへ通う廊下を歩いた日数分、この足は動き方を知っている。

「……これより、不当な生命収徴に対する、緊急監査を実施する」

 音の無い世界で、俺の放った「将」の槍が、黄金の軌跡を描いた。

 カニ型MPが、複眼をこちらへ向ける。選別が終わった相手を、初めて「処理の対象」として認識している顔だ。いや、顔ではない。顔がない。ただ、視線の方向が変わった。

 刑事の残滓が、俺を見ている。

 脳内の議場で、刑事の声が一度だけ、静かになった。

 煽りではなく。哄笑でもなく。

 ただ、静かに。

 俺は次の駒に手をかけた。

 緊急監査の手順は、通常業務と同じだ。

 現状を記録する。不備を特定する。正しい手順で、差し戻す。

「――次の手、処理します」

 声は出ているはずだ。

 声に、抑揚はない。

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