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からくり戦棋  作者: 水前寺鯉太郎


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第13話「境界の残滓」

第13話「境界の残滓」


 千メートルの狙撃。その「不法占拠」を俺が事務的に差し押さえた瞬間、盤面を構成する金色の幾何学模様が激しく明滅し、バグの奔流が走った。

 盤面が自己修正しようとしている。システムが想定していない介入が、構造そのものを揺らしている。差し押さえは成立した。だが、その代償として、何かが開いた。

「なっ、弾道が……逸れた!? ありえない、風計算もマブイの出力も完璧だったはずよ!」

 遥か彼方、給水塔の上で蠍座が狼狽える気配が、無音の空間を通して振動として伝わってくる。彼女の放った槍兵の刺突が、俺の「事務的な介入」によって物理法則を無視した角度でひん曲がり、隣の廃ビルを粉砕した。

 完璧な射線を持つ者が、初めて自分の射線を疑っている。その隙は使えるはずだった。使えるはずだった、が。

 【マブイ残量:4】

 ――あつい。

 ――かえして。

 ――いたい。

 脳内の死者たちの叫びが、一段と高く、耳障りな不協和音へと変わる。ノイズが議場の壁を叩いている。刑事も弁護士も、今は自分の声を制御できていない。盤面のバグが、俺の内側にも伝播している。

 直後、俺の体から「疲労」という感覚が消え失せた。

 足の重みも、心臓の動悸も、肺が酸素を求める焦燥感も。すべてが「処理済み」のタスクのように切り捨てられ、俺の肉体はただの動く精密機械へと成り下がっていく。

 感覚の棚卸しをする。視覚はある。聴覚はない。触覚は輪郭だけある。味覚、嗅覚、温覚、痛覚、疲労感――消えた。残っているものより、消えたものの方が、もう多い。

 ――梓。

 彼女と手を繋いで歩いた時、どれほど自分の足が軽やかに感じたか。その「幸福な疲れ」の記憶が、今、脳の最深部で強制削除された。疲れることさえ、彼女と歩いた時は幸福だった。その感覚を知っていたこと自体が、今は遠い。

 その時だ。

 俺と蠍座の間に横たわる、千メートルの「空白」の中央。

 コンクリートの床が、泥のようにドロドロと溶け始めた。

 ――……?

 現れたのは、駒ではない。

 黄金のマブイが、ノイズまみれの「残滓」となって凝固した、歪な形。

 それは巨大なカニのハサミを持ち、体中から警察バッジのような破片を剥き出しにした、異形の塊だった。蟹座の紋章が、複数の方向から同時に刻まれている。統一された意志がない。ただ、マブイだけが集積して形を取った。

『……おい。あれは、まさか』

 脳内で、蟹座の刑事が絶句する。初めて、煽りではなく、純粋な困惑の声を出した。

『……私のマブイの一部が、あのバグに食われて、再構成されたの? 最悪ね……効率化の果ての、ただの廃棄物の再利用だわ』

 弁護士が吐き捨てるように言った。いつもの分析とは違う。自分の残滓が目の前にある時の、感情に近い何かだ。

 俺は、盤面の中央に現れた異形を見た。

 刑事の死後、マブイが完全に消散せず、バグの隙間に蓄積していた。差し押さえによって盤面に亀裂が生じた瞬間、それが一点に凝固した。窓口業務で言えば、シュレッダーにかけたはずの書類が、廃棄処理の不備によって再構成されて出てきたようなものだ。廃棄物の管理不全。これは俺の「差押え」が生んだ副産物だ。

 カニ型の捕食者は、言葉を発しない。ただ、複眼の中に冷えた知性だけを宿し、蠍座と俺の両方を「処理すべきノイズ」として同時にロックオンした。元が刑事だったとは思えない視点だ。いや、刑事は常にそういう目をしていたのかもしれない。感情の外皮が剥がれると、中身はああいうものになる。

 カニ型が、巨大なハサミを床に叩きつける。

 瞬間、盤面を流れる「ルール」そのものが、物理的にねじ切られた。

「な、何なの……!? 盤面が、勝手に書き換えられていく! 私の射線が、食われて……!」

 蠍座の悲鳴が、振動として届く。口の動きを読むより先に、廃ビルが軋む震動が答えを出していた。

 カニ型は、蠍座が放つはずの槍兵の「攻撃予測線」を物理的に掴み、それを咀嚼し始めた。マブイの捕食。それは戦棋のルールを無視した、ただの「一方的な消去」だ。申請書も、対局宣言も、何もない。ただ、消していく。第四話の男が言った「駒も、宣言も、何もなかった」という言葉が、脳の奥で反響した。あの時見た赤い光と、この異形の質感が似ている。

 ――不備。

 ――いや、これは「管理不能な不祥事」だ。

 俺は、感情の消えた瞳でその異形を見つめた。

 MPは、かつての刑事の残滓でありながら、刑事以上の冷酷さで戦場を蹂躙し始めた。感情という制御装置を失った暴力は、かえって精密になる。刑事は楽しんでいた。楽しむためには、相手の存在が必要だった。これは違う。相手の存在を認識した上で、それを燃料として消費するだけの機構だ。

 俺の「事務的な差押え」すら、ただの「データ」として認識し、次の行動の材料にしようとしている。

 【マブイ残量:4】

 脳内の議場が騒いでいる。刑事は自分の残滓を見て何かを叫んでいる。弁護士は状況を分析しようとしているが、声が割れている。二人とも、まともに機能していない。議長は俺だが、今は議場の収拾より盤面の処理が先だ。

 俺は、懐の「ブランク体」の駒を強く握りしめた。認印と同じポケットに入れていた。梓から贈られたものと、俺が集めてきたものが、同じ場所にある。

 蠍座との対局は、外部からの介入によって制御不能の局面へ叩き落とされた。盤面のルールが書き換えられている。申請書類で言えば、処理中の案件に第三者が割り込んで内容を改竄している状態だ。こういう時の対応は、窓口業務で学んでいる。

 改竄された書類は、一度全部止める。

 現状を記録する。

 それから、正しい手順を踏み直す。

 問題は、盤面を「止める」権限が俺にあるかどうかだ。

 答えは出ない。だが、試みることはできる。

 俺は認印を取り出した。

 蠍座と、カニ型と、崩れかけた盤面と、脳内の議場と、全部を同時に見ながら。

 不備のある局面は、受理しない。

 それだけが、今の俺にできる判断だった。

「――本件、審理を一時中断します」

 声は出ているはずだ。

 誰に向けて言っているのかも、まだ分からない。

 声に、抑揚はない。

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