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からくり戦棋  作者: 水前寺鯉太郎


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第12話「遠隔射録(アウトレンジ)」


 対局場は、市役所の屋上から隣接する廃ビル群へと、物理的な空間を歪めて延伸していた。

 二千百年の夜。無機質なコンクリートの平原が、全長千メートルの「巨大な盤面」と化している。金色の幾何学線が暗闇の中に走り、その規模が窓口の事務室とは桁違いであることを示していた。だが、盤面は盤面だ。広さが変わっても、不備を探すという作業は変わらない。

 ――遠い。

 無音の世界で、俺の視界モノクロームだけが距離を測る。

 俺の陣地から遥か彼方、廃ビルの給水塔の上に、女陸上自衛官――蠍座の姿があった。千メートルの隔たりがあっても、スコープのレンズが反射する光だけは、モノクロームの視界の中でも認識できた。

『おい事務官、あいつのデッキを見たか? 車兵が四枚、槍兵が五枚。……完全に「狙撃」に全振りしてやがる』

 脳内で刑事が毒づく。彼の「蟹座」は接近戦の防壁だった。だが、この千メートルの滑走路のような盤面では、その防壁に辿り着く前に蜂の巣にされる。

『効率的な配置ね。騎兵(機動力)を捨てて、直線状の制圧力を極限まで高めている。……まるで「法」という名の処刑台に続く、一本道だわ』

 弁護士が冷静に分析する。

 二人の声が珍しく同じ方向を向いていた。それが逆に、状況の深刻さを示していた。

 俺が「兵」を一歩進めるたびに、遥か前方から目に見えない「圧力」が飛来する。

 シュッ、という空気の震え。音は聞こえないが、床のコンクリートが直線状に爆ぜる振動が、感覚の消えゆく左腕に微かに伝わった。

 槍兵による、超長距離からの牽制。

 【マブイ残量:4】

 俺は「兵」をさらに一歩進めようとし、止まった。

 その瞬間、俺の「槍兵」の一駒が、対角線上の車兵によって一瞬で粉砕された。衝撃波が俺の体を叩く。だが、痛みはない。

 代わりに、俺の脳内から「昨日の夕食の献立」が消えた。いや、それだけじゃない。「空腹」という感覚そのものが、ノイズに塗り潰されて消去された。食べることの意味が、俺の内側から手続き上の問題として除外された。

 ――思考が、さらに軽く、冷たくなっていく。

「……前進、不能か」

 俺は、無音の喉で呟いた。

 蠍座の「槍兵」は五本。それらが五本のレーンのように、俺の進行方向を完全にロックしている。一歩でも踏み出せば、槍将へと一気に加速する「死のレール」に乗せられる。まさに戦場だ。一人の「兵」を前進させるコストが、あまりにも高すぎる。

『おい、どうする。あいつは自衛官だ。マブイを弾丸に変える呼吸を知ってる。……このままじゃ、近づく前に「ゼロ」が「マイナス」になるぜ』

『手続きを簡略化しましょう。……彼女の「射線」は完璧すぎる。逆に言えば、直線以外には「不備」があるはずよ』

 脳内の二人の声が、不気味にハモった。珍しいことだ。二人が一致を見せるのは、この連戦を通じて初めてかもしれない。

 俺は、モノクロームの視界の中で、盤面を「データ」として再スキャンする。

 千メートルのコンクリート。給水塔。そして、等間隔に配置された街灯の影。

 ――不備。

 俺は、自分の「象兵」を横にスライドさせた。

 通常、象兵は「川」を越えられない防御駒だ。だが、この延伸された盤面における「川」とはどこだ?

 俺は市役所の設計図を、脳内のアーカイブから引き出した。

「……行政区画の、境界線」

 蠍座の女は、スコープ越しに俺を見下ろしている。彼女の指が、引き金(駒の起動)にかかる。

 俺は「兵」ではなく、自分の「士」を斜め前方へ出した。

 その瞬間、五本の槍兵が同時に火を噴いた。

 ――あつい。

 ――ころして。

 死者たちの叫びが脳内でスパークする。衝撃波で俺の制服の袖が吹き飛んだ。

 だが、俺の「士」は、一センチだけ弾道を逸らして生き残った。

「……見つけた」

 俺は、無音の世界で、冷徹な一歩を刻んだ。

 彼女の射程は一〇〇〇メートル。だが、この廃ビル群は、三ヶ月前に「再開発対象区域」として公的に封鎖されている。つまり、彼女が駒を置いている地点は、法的には「存在しない地番」だ。申請書類で言えば、存在しない住所からの申請。受理以前の問題だ。

 俺は、懐の認印を、コンクリートの床に強く押し当てた。

 あの認印だ。梓が誕生日に渡してくれた、ありふれた楕円の判子。触覚を失ってもなお、この一点だけに力が集まる感覚がある。失ったはずの何かが、この道具を通じて戻ってくる。

「……第十二条。不法占拠につき、その『射線』の占有権を、一時的に差押える」

 瞬間、盤面の幾何学模様がバグを起こしたように明滅した。蠍座の槍兵たちの弾道が、俺の「事務的な介入」によって、強制的に一斉に歪んだ。

 五本のレーンが、それぞれ数センチずつ、予測できない方向にズレる。完璧な射線が、完璧でなくなった瞬間だ。

『やれ』と刑事が言った。

『今よ』と弁護士が言った。

 二人の声が、また重なった。

 俺は「将」を走らせた。歪んだ射線の隙間を縫って、一直線に。千メートルの盤面が、一手で収縮する。

 給水塔の上、蠍座の女が初めて動いた。スコープから目を離し、直接俺を見た。距離があっても、その表情は読み取れた。計算外、という顔ではない。「そこまで来たか」という顔だ。

「……最終処分を、執行します」

 俺の「将」が、給水塔の根元を貫いた。

 構造が崩れる。蠍座の陣地が、法的根拠ごと瓦解していく。

 女は最後まで銃口を下ろさなかった。スコープを俺に向けたまま、静かに光の中に溶けた。軍人だった。最後まで、陣地を守ろうとした。

 それだけが、俺に残った印象だった。

 【マブイ残量:1】

 膝をつく。三度目だ。対局の後、毎回膝をついている。体が覚えているのに、そのことを今初めて気づいた。

 視界が白く濁る。今度消えるのは何だろう、と思った。感傷ではなく、純粋な疑問として。

 脳内の議場が、静かになっていた。刑事も弁護士も、今は何も言っていない。消耗しているのかもしれない。あるいは、これだけの損耗の後では、煽る言葉も見つからないのかもしれない。

 光の残滓の中から、三つ目の「玉」を拾い上げた。蠍座の紋章がうっすらと刻まれた、温度のない石。触覚のない指に、質量だけが届く。

 三つ目。残り、九。

 廃ビルの屋上で、夜風が吹いた。

 音はない。ただ、制服が揺れる視覚情報だけがある。冷たいのか、温かいのか、分からない。梓は夜風が好きだった。そう記憶している。なぜ好きだったか。それも、もう記憶していない。聞けばよかった、と思う。思うだけだ。感傷を持続させる燃料が、もうほとんど残っていない。

 俺は立ち上がり、事務的な歩調で屋上を後にした。

 引き出しの中で、三枚の駒が並ぶ。蟹座、牡牛座、蠍座。それぞれ違う光を放ちながら、それでも静かにそこにある。ブランク体が、また少し形を変えていた。

「――次の方。どうぞ」

 声は出ているはずだ。

 声に、抑揚はない。

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