HSBV〈フラワー〉
今日の東京は、酷く冷える。
恒星の恵みは、雲という気象現象に覆われ、完全にその鳴りを潜めていた。
苑奈は、防寒性に優れた厚着をし、背中から生やした銀色のナノテクの翼を大きく羽ばたかせ、冬の空を切り裂いて一直線に現地へと向かう。
千代田区の中心部に新設された、エアカーや飛行能力者専用に作られた公共の着陸ポートへと華麗に着地し、役目を終えたナノテク翼を速やかに体内へ格納。
建物を出て大通りを歩くと、様々な人々が日常生活の延長として当たり前のように異能を使っている光景が視界に飛び込んでくる。
道端で缶ジュースを念動力で浮かべて歩く学生、冷たい北風を防ぐために体を薄い暖気の膜で覆う買い物帰りの主婦、地面から数センチほど浮遊し、そのまま摩擦を無視して滑るように高速移動する急ぎ足の会社員。
厳格な能力自由行使特措法により、公共の福祉に反しない限り、国民が日常的に自由な能力行使を認められている。
これが異能普遍社会の平和な日常風景だ。
目的地の喫茶店ポンウィパ前まで歩を進めると、既に人混みの中で待つ箕鋲の姿が見えた。遠目にも目立つ、鮮やかな浅葱色の髪が冷たい風で揺れている。服装は、見た目にも暖かそうな厚手のニットに、肩には大きなトートバッグ。
「あっ、アゲハっ。こっちこっちっ!」
こちらの姿に気付き、箕鋲が嬉しそうに手を振って歩を進めて来る。
すると、彼女の足がアスファルトの地面を踏む度に、まるで水溜まりを歩いたかの様に、美しい同心円状の波紋が虚空に現れては消えていく。
「久しぶりだな、雨古」
苑奈は、その不思議な波紋の広がりを眺めつつ、軽く手を上げて言った。箕鋲は百五十五センチと小柄なので、長身の苑奈からすると完全に見下げる形になる。
「相変わらず、元気そうだな」
「くひひ、アゲハこそ。昔の尖ってた頃と全然変わってないね」
箕鋲が、両手を口元に当てて独特の笑い声を漏らす。
「君こそ。その気の抜けた笑い方といい、全く変わってないな」
学生時代から一切変わらない、〈くひひ〉と言う女らしからぬ可愛げのない笑い方は健在。
苑奈が過去、女性としての品格はどうなんだ、と何度小言を言って指摘しても、結局直ることはなかった筋金入りの癖。
「ま、お互い積もる話もあるけど、取り敢えずお店に入ろうよ。寒風に晒されるのもなんだし」
案内された喫茶店の中は、クラシカルで落ち着いた静かな雰囲気が漂っていた。
苑奈は電子のメニュー表に目を通し、適当に深煎りのコーヒーを注文し、箕鋲もそれに倣って同じ物を頼んだ。
「それにしてもさ、アゲハ。なんだか、手の届かない雲の上の凄い権威者になっちゃってるみたいじゃない。今や、世界の能力研究第一人者と言ったら、学会の誰もが口を揃えてあんたの名前を出すよ」
「君こそ。私ほどの知名度ではないが、有意義な研究成果を上げているとよく噂には聞いてるよ。最近は、発火系能力者が持つ特殊な熱耐性の体質についての論文を出してたじゃないか。読ませてもらったよ、論理の組み立てがよく書けていたと思う」
「くひひ、あの辛口のアゲハにそう手放しで褒めてもらえると至極光栄だよ。それに最近は、すっごく可愛い助手の女の子なんて雇っちゃってさ。あの子、星ヶ咲針我だよね。天候操作の国指能力者。アゲハがあの子を助けてあげたのは知ってたけどさ、その後雇っちゃったんだ」
「ん? ああ、針我くんか。そうだ、彼女のあの強力な能力を間近で観察したい……という個人的な欲求もあるが、それ以前に優秀でな。流石、聖神大学の生徒だけある」
公にこそされていないものの、当時東京を騒がせた、星ヶ咲針我の制御不能だった天候操作については、能力学会でも記録されている為、箕鋲も彼女の名前は知っている。
「今までずっとひとりだったのに、助手なんて雇ったって聞いて吃驚しちゃった。でも、アゲハが雇うくらいだし、てっきり年下の男でも雇ったのかと思ってたよ」
「君、私をなんだと思ってるんだ」
「ごめんごめん、冗談だよ、冗談。でも、なんだか楽しそうでよかったよ。なんか顔から孤高の冷たい学者って雰囲気も抜けてるし」
とん、とん、と箕鋲は機嫌良さそうに机を指先で叩く。
その度に、木製のテーブル上に目に見えない水面があるかのように波紋が広がり、向かいの苑奈の胸元へ向かい、端にぶつかって静かに消える。
波紋を起こす能力。
それが、箕鋲雨古の持つささやかな能力。
だが、苑奈の記憶が正しければ、学生時代の頃の箕鋲は「何の役にも立たない能力。日常にも実験にも利用価値は皆無」と冷酷に切り捨て、みだりな異能行使は決してしなかったはず。
「ん? あぁ、これ? 私もあれから随分と考えが変わってね。せっかく能力自由行使法なんて法律があるんだし、自分の能力は恥じずに使ってなんぼと思ってさ」
また、くひひと少し照れたように笑う。
「ははは、心境の変化は結構なことだが、その間の抜けた笑い方はそのままなんだな」
「いいのいいの。染み付いた癖なんて無理やり直した方が、精神衛生上悪影響でしょ」
「しかしそれでは、大人の女性としての魅力と言う点についてはどうかと思うのだが。現にその笑い方のせいで、学生時代は全く男日照りだっただろう?」
「ああ、その辺りの心配なら全然問題ないよ。私、もう結婚してるし」
「…………え?」
箕鋲が、何でもない事のように左手をすっと卓上へ醸し出す。
その細い薬指には、眩い光を放つプラチナの指輪が装着されていた。
「子供も既に二人いてね。五歳になるやんちゃな男の子と、四歳の女の子。旦那ともほとんど喧嘩したことないし、週末は必ず家族でキャンプに行くくらい、至って円満だよ」
この上なく幸せそうに語る箕鋲の笑顔に、
「そ、そうか……」
苑奈は、目に見えて顔を引き攣らせ、心底苦しい顔をした。
「ん? なら苗字は? 変わっていないということは、つまり……」
「そうだよー、婿入りしてくれたんだ。旦那、よくある一般的な苗字だったし、なにより私の苗字の方がかっこいいからってさ。名義変更とか大変だったらしいけど、すごい嬉しかったなぁ。想われてるの感じられて」
「は、ははは……それは、幸せそうでなによりだ」
婿入りまでしてくれる相手とは。
さぞかし、よき伴侶なのだろう。
学生の当時、恋愛のれの字も感じさせられなかった友人が、まさか結婚して二児の母にまでなっていたとは。
それに引き換え、全てにおいて完璧なはずの自分は未だに結婚どころか、三十の節目を迎えておいて恋人のひとりすら出来たことないという惨状。社会的な地位も名誉も、人生百回は遊んで暮らせる資産も腐るほどあるのだが、苑奈はその傲慢すぎる性格と極度の面倒くさがり故、焦って婚活パーティに参加したこともあるが、会話のドッジボールを連発して交際にすら至っていなかった。
目の前の同世代の友人は、既に絵に描いたような幸せな家庭を築き上げている。共に三十という同じ歳月を生きたはずなのに、どうしてここまで残酷な差が出るのか。
血の涙がこぼれそうだ。
誰か私を殺してくれ。
あっ、と箕鋲が苑奈の死人のような顔色を見て何かを察した顔をし、慌てて左手をテーブルの下へと引っ込めた。
その気まずい絶妙な瞬間、ウェイトレスにより、湯気を立てる二つのコーヒーが運ばれてきた。
「そ、それよりさ。アゲハ、学生の頃の馬鹿な話でもしようよっ」
地雷を踏み抜いたこの話題はまずいと本能で察したのか、箕鋲は熱いコーヒーを一口飲みつつ、強引に話題の軌道修正を図った。
「あの時さ、大学の中庭にあった厳格な初代創設者の銅像を、アゲハが勝手に巨大ロボットに魔改造したら暴れちゃった事件あったでしょ? あの時は流石に主犯のアゲハは退学になるかと思って、ヒヤヒヤしたよ」
死人の様な形相をしていた苑奈が、当時を想起したのかぱっと復活する。
「ふっ、アレは私の輝かしい功績の一つだ。ただの銅像という無用の長物を、自動警備システムとして再構築しただけのこと。教授陣の頭が固すぎたのだ。まぁ、プログラミングに少々バグがあって、学長室を物理的に破壊してしまったのは計算外だったがな」
「くひひ、あの時の学長の顔、真っ青だったもんね。あとは、部室のフレーバー入りの瓶を酔ったアゲハが丸ごと全部ナノテク化しちゃって、中の大量のカレー香料を部室内にぶちまけた事件。あれのおかげで、三日間サークル部室がカレー臭くて地獄だったんだから」
「……それは、重力制御の精密な実験の最中に、手が滑っただけだ」
「どの口が言うか。酔ってただけでしょ。あんた、酒飲みながら変な実験ばっかりするんだから。私含めてみんな、振り回されまくって当時はめちゃくちゃ苦労してたよ。後始末、私らがしてたんだから」
「だ、誰にでも若気の至りというものはある。流石に今はもう酒を飲みながら実験などしない。危ないし、下手したら大規模な事故になりかねない」
「だよね、安心した。でも、その調子だから助手の子は苦労してそうだなぁ。後片付けとか掃除、全部任せてたりして」
「あー、いやそれは……」
苑奈は、完全に図星を疲れ、レンズ越しのその聡明な瞳が泳ぎ始める。
「あ、図星だ」
「う、うるさいっ」
そうして、学生時代の無軌道で破天荒な思い出や、当時のサークルの面々が今どうしているかなどを語り合い、しばし懐かしい思い出の海に浸っていると、箕鋲が、
「それにしてもさ」
ふと真面目な表情に顔つきを整え唐突に切り出した。
「宇宙さんは、とんでもなく厄介な物を、私達の地球に持ち込んでくれたよね」
「厄介なもの? 最近のNASAは、何かまた新たな脅威でも発表していたか?」
「違うよ、〈フラワー〉だよ」
苑奈は、その単語の発言にスッと研究者としての鋭い表情に変える。
二十一世紀初頭、地球の軌道上をかすめるように横切った未曾有の宇宙隕石、天墜御神石。その隕石の表面に付着しており、大気圏への摩擦熱を耐え抜いて地球の傍を掠め、その欠片の一部が飛散し、結果として人類という種に異能という常軌を逸した力を与えた未知の宇宙ウイルス。
通称、フラワー。
正式名称、HSBV=human superpower blossom virus。和名、ヒト異能開花ウイルス。
そのウイルスの全容については、発生から年月が経過した今でも、世界中の最高峰の頭脳が集結し、昼夜を問わず研究が進められている。
現代の分子生物学において判明している事象だが、これは地球上のあらゆる生物の中で、何故かヒト科の霊長類にのみ特異的に反応するウイルスである。大気中から呼吸器を介して体内へと侵入すると、細胞核内のDNAの塩基配列に極めて複雑なプロセスで結びつき、その遺伝子構造を根本から書き換え、形を変化させる。
電子顕微鏡下で観察されるウイルスの元の形状は、硬く閉ざされた花の蕾の様だが、人間の持つ遺伝子に結びつく際、まるで大輪の花が咲くように外殻が開き、そして人類個々に対し、特異な能力を強制的に目覚めさせる。その特徴的な形状と開花プロセスから、学者たちはフラワーと名付けた。
これら後天的に獲得した性質は、生殖細胞を通じ、エピジェネティクスとして次世代へと完全に遺伝するため、現人類の遺伝子を詳細に拡大してみると、例外なくこのフラワーの痕跡が螺旋に纏わりついている。最も驚くべきことに、当時の発生初期において、このフラワーが体内で開花しない、または強烈な拒絶反応や免疫暴走で死に至る、などの致死性の症例が全くと言っていいほど起きず。まるで最初からデザインされていたかのように、地球上の全人類が安全に異能に目覚めた、という奇跡的な事実。
能力開花の生物学的メカニズム自体はおおよそ判明しているのだが、未だに、発現する能力の性質が人により何故これほどまでに違うのか、その出力の絶対値や特異性の差異がどう言う理由で決定されるのか、など、根幹に関わる部分でまだまだわからないことが山積みとなっている。
肉体そのものを別物質に変える変化能力や、物質を虚空から現出させる実体化能力は、明らかに既存の質量保存の法則を根底から無視しているし、異常な身体能力向上や、炎や高圧電流等を身体より発生させられるという点においては、人によりその理由と行使のロジックがバラバラすぎて、当時の優秀な学者たちは既存の科学が崩壊する音を聞き、頭を抱えて絶望したという。
現状、統計的に分かっていることは、能力が明確に発現するのは、凡そ二〜三歳という、人間の脳が物心着いた時期に急激に現れるということ。それと同時に、体質能力に合わせその構造を変化させていく。遺伝子を時系列で観察すると、それ以前の乳幼児期ではフラワーは固く蕾を閉ざした未開花の状態であり、その状態を観測出来る。
また、発現した異能は、本能レベルで自身の肉体の一部として脳が理解し最適化するため、本人ですら自分の能力の詳細な効果や使い方が分からない、といった致命的な不具合には陥らない。もちろん、成長に伴う新たな性質や、微細な応用などの全ての詳細まで最初から分かるわけではないが、とりあえずは自分がどんな性質の能力を持っているかは、直感的に理解できる。




