旧友からの電話
七
この日の午後、苑奈アゲハは、自らのラボ内に設けられた休憩スペースの最高級革張りソファへとだらしなく寝そべり、過日相見えた女、亜鳴蛇煮麼筮の振るう驚異的な能力の残滓を、明晰な脳内で幾度となく反芻し、想起していた。
完全なる劣化行使とは言え、視認したあらゆる異能を自己の枠組みへと模倣し、あまつさえ脳神経への過負荷といった致命的リスクを負うことなく複数保有可能とは。未だに既存の能力法則や医学的見地を嘲笑うかのようなその事実が、どうしても信じられない。苑奈個人としての探求心が疼き、彼女の過去の経歴や、特異体質を生み出したであろうその家系図に至るまで、国家機関のデータベースをハッキングしてでも調べ尽くしたい強烈な欲求に駆られたが。苑奈はすんでのところで自制心を働かせ、グッとその狂気を堪える事にした。
無闇に詮索したところで、あの心眼じみた波長感知の能力によって全て筒抜けになるのは明白であり、彼女との約束を違える事になってしまうし、関係を崩したくはない。
興奮を鎮めるべく、せめて極上の酒でも飲もうと目の前のガラステーブルには数十万は下らない高級ワインボトルが置かれているが、極限まで集中していたあまり、未だグラスに口はつけていない。
「アゲハ博士、外部から電話が入ってます」
ふいに、静寂を破る声がした。しかし苑奈は宇宙の真理へと思考を飛ばしたままぼーっとしており、全くの無反応。
「はーかーせー。私の声、ちゃんと聞こえてますかー?」
直後。
室内に不自然な突風が吹き荒れる感覚と、ゴロゴロ……、という不穏な空を裂く音が響き渡り、苑奈は思わずソファから跳ね起きる。
慌てて背後へと振り向くと、そこにはターコイズブルーの鮮やかな髪を怒気と共に揺らす、助手の星ヶ咲針我が仁王立ちしていた。
感情で天候を変える能力。
現在、彼女の感情のバロメーターが激しい怒りに振り切っている証拠として、室内の空調を無視して荒々しい風が吹き荒れ、その頭上には局地的な小さな雷雲がバチバチと雷の音を鳴らして渦巻いている。
「すまん針我くん、すこし異能の深淵についてぼーっと思考の海に沈んでいた。私としたことが申し訳ない。でも、そんなに激しく怒ることないじゃないか」
「私が怒っているのは全く別の理由ですっ! 何で数日前までチリ一つなく綺麗だったこの神聖な研究室内が、あっという間に元の地層を成すゴミ屋敷に逆戻りしてるんですかっ。ようやく博士が生活能力のある真人間になったと感動の涙を流して損しました……」
「あー……ははは、急に底知れぬ研究意欲が湧いて来たというか、抑えきれない学術的インスピレーションが爆発したというか」
「全く、口を開けば言い訳ばかり……」
星ヶ咲が深い溜息をつき、感情を落ち着かせると共に頭上の雷雲と突風を霧散させる。
苑奈は、あの煮麼筮との邂逅からというもの、世界の理たる〈能力〉そのものの根源について、狂気的なまでに改めて考え直す事にした。過去の難解な論文や古書を旧時代にまで遡って漁り捲り、寝食を忘れて奇抜な実験に耽っていた結果、あっという間に広大なラボ内は元通りの混沌たるゴミ屋敷へと変貌。いつも通り、その地獄のような清掃業務を全て星ヶ咲に丸投げし、苑奈本人はソファでだらだらと微動だにしていなかった。
そりゃあ、温厚な星ヶ咲も頭上に雷雲を呼んでキレるというものだ。
「……ところで、外部からの電話と言ったな。どうせまた私に無茶な依頼や面倒な用があるのだろう? 今は忙しいから、適当な理由をつけて断りを入れておいてくれ」
咳払いをして、話を本題へと逸らす。
苑奈アゲハへの国家事業レベルの能力研究や軍事協力の依頼連絡は、毎日世界中の機関からやかましいほど殺到して来る。ただ、この自堕落極まりない天才の性質上、自身の好奇心を強烈に惹かれた事象以外には、何億積まれようと一切手を付けようとはしない。今は、煮麼筮がもたらした事により芽生えた能力という概念そのものへの探求で、彼女の知的好奇心は満たされている。
「ええと、それがですね。博士の学生時代の友人と名乗ってましたけど。お名前は、確か箕鋲さんとか」
その瞬間。苑奈の肩がピクリと跳ね、その名前に鋭く反応した。
箕鋲雨古。
帝都幻創神統大学の学生時代、共に怪しげな能力研究サークルに所属し、青春を謳歌した旧友。現在は同じ能力研究者としてそれなりに名を馳せているという噂は耳にするが、互いに多忙を極め、彼女とは大学卒業以来一度も顔を合わせたことはなかったが。
一体、何事か。
「それは、確かか?」
「はい。今、回線を保留にしてあります」
星ヶ咲が呆れ顔で、黄色いバナナ型の端末を差し出した。
以前、苑奈が深夜のテンションでふざけて作成した暗号化通信対応の携帯端末だが、星ヶ咲が存外に面白がり、大層気に入ったのか、ラボ内の固定電話のひとつとして登録するよう強く頼んだので、以来そうして運用している。
苑奈は無言でバナナ型端末を受け取り、
「わざわざここまで持って来るとは、相変わらず君はマメだな……」
「たまには博士も社会人らしく、まともな電話対応くらいしてくださいよ。それでは、私はこの大惨事のお片付けに戻りますので。夕飯は期待しないでくださいね」
星ヶ咲がぷいっと振り向き、散乱した書類の山へと歩き出した。最近は、彼女に食事を作って貰うことも増えてしまっている。
苑奈はバナナのヘタ部分の保留ボタンを解除し、耳に当てる。
「もしもし」
『あっ、やっと繋がった! アゲハ、すっごい久しぶり。元気してる?』
バナナの向こうから、昔と何一つ変わらない、少し間延びした甲高い声が耳を打った。
「あぁ、卒業以来だから、実に八年ぶりか。一体どうしたというんだ、急に」
『えーとね、久しぶりに顔を合わせて、能力の深いところについて、あんたと直接話したいと思って。今、学会に提出する新しい異能についての論文のネタを改めて色々と考えててさ』
「はぁ、私に直に意見を求めるとは、相変わらず熱心なことだ」
『それで、いきなりで悪いんだけど、今から時間大丈夫?』
「今からぁ? まぁ、構わん。丁度行き詰まって暇を持て余していたところだ。場所はどうする?」
『ええとね、千代田区の〈ポンウィパ〉って名前の喫茶店前で待ち合わせしよう。私も、今からそっちへ向かうから』
「わかった。私の能力で空を飛べば、ここからでも十分とかからず行ける距離だ」
『相変わらず便利なチート能力ですこと。わかった、十分後ね』
バナナの通話を切り、苑奈は小さく息を吐いた。
箕鋲は、苑奈の知る限りでは、権威に縋る名ばかりの能力研究者ではなく、独自の視点を持つ非常に聡明な人物。それに、鬱屈の気晴らしに大学時代の気心知れた友人と久しぶりに会い、今まさに脳内を占めていた能力について存分に語り合うのも悪くはない。
先程、ワインに口をつけていなくて本当に良かったと胸を撫で下ろす。酔ったまま高空を飛べば、厳しい航空法違反と飲酒飛行の現行犯で即座にしょっぴかれかねない。
星ヶ咲には今日はもう掃除を切り上げて上がって良い、と手短に伝え、苑奈はそそくさとラボを後にした。
「雨古か。今、どうしてるんだろうか」




