命短し恋せよ乙女
十一
空気が変わった。
静寂な秋の気配が漂い始めたのも束の間、寒気がやって来て、街行く人々も、厚着をせねば鳥肌が立つ気温となった。そんな昼下がりの午後。
「……なんかさ、私らが亜鳴蛇に勝つの、物理的に無理じゃね……?」
駅前に新規開店したばかりの、落ち着いた純喫茶。琥珀色の照明が照らすテーブル席にて、国信大の不良少女、河海斬呼は、過剰なまでに砂糖が投入された甘ったるいコーヒーをちびちびと啜りながら、魂の抜けたような声で唐突に呟いた。
「いや、だから私、ずっと前から口酸っぱく言ってたじゃん……。私らみたいな平々凡々が、あの亜鳴蛇に勝つとか、天と地がひっくり返っても絶対に無理だって」
向かいの席に座る普並木杏璃が、深い絶望を思い出したかのように顔を青ざめさせ、河海の弱音に深く同調するように嘆息する。
(河海のやつ、あれだけの惨状を見せつけられておいて、未だにリベンジする気でいたとか正気か……?)
黒角鏡乎は、項垂れる二人の惨めな姿を冷めた横目で見遣りつつ、自身が注文した巨大なバナナパフェの頂上に乗るサクランボをフォークで突きながら、内心で深く呆れ果ててみせる。
事の発端は、茹だるような酷暑の夏頃。河海らが亜鳴蛇筮麽に勝つためという、今思えば狂気の沙汰としか思えない無謀極まりない名目の下、三人は連れ立って能力開発ジムへと通い始めていた。
しかし現在、黒角は自身の拳を宝石に変える能力における、これ以上の劇的な成長は実生活において一切の無意味、と冷静な判断を下し、とうの昔にジムを退会していた。
確かに、厳しい鍛錬の甲斐もあり、宝石化した手の握力と、ピンチ力は格段に飛躍的な向上を遂げた。だが、その超人的な筋力が日々の平穏な日常生活の何に役立つのかと問われれば、答えは無に等しい。彼女は元より、その能力で頑強なスチールの缶を容易く握り潰し、紙屑のように丸められる程の異常な握力を有していた為、その凶悪な破壊力がさらに向上した所で一体何になるというのか。
ジムの専属トレーナーからは「君の能力はまだまだ伸び代があるのに、ここで辞めるのは大いなる損失だ」などと大袈裟に引き留められた。だが、まさか異能格闘技や、ましてや路上の喧嘩をする訳でもなく、平和を愛する一小市民の自分に、これ以上の過ぎた破壊力は完全に不要の長物。
それ以前に、ジムに通う為の月三千円程という、決して安くはない会費が毎月銀行口座から容赦なく引き落とされるという経済的負担の重さ。費用というコストパフォーマンスを考慮すれば、通い続けるメリットなど何一つ存在しないと見限ったからに他ならない。
しかし、幼少期より能力の研鑽に執着し、昔からジムへ通い続けていた普並木はともかく。驚くべきことに、あの飽き性な河海もまた、地道なジム通いを休まずに続けていた。
聞くところによれば、最近になってようやく棍棒を出す能力の繊細なコントロールが上手く出来るようになったらしい。現在では、圧倒的な質量と硬度を誇る黒光りする凶悪な棍棒と、能力成長前の元々の形状である無骨で荒々しい棍棒の二種類を、状況に応じて自在に出し分けられるようになったと豪語している。
なお、棍棒が破損した際、体力を著しく消耗して修復する棍棒の再生能力について。棍棒の上から新たな物質を重ねるようにして能力を行使し、欠損した一部分を無理やり再生させるという、非効率的で無駄な行程。それが齎す致命的な体力消費は無駄すぎると判断し、血の滲むような苦渋の末、河海はその再生機能を完全に封印したらしい。
己の能力をそこまで深く分析し、最適化を図るほど真面目にジム通いをしているという事実に、黒角は戦慄を通り越し、ただただ正直呆れ果てていた。一体どれほどの怨念があれば、あそこまで狂信的に亜鳴蛇筮麽に勝ちたいと願えるのか。
棍棒の振り抜くキレが格段に増したとかで、河海はまだ懲りずに筮麽への壮大なリベンジ計画を嬉々として企てていたとか。
だが今、国信大の構内のみならず、インターネットの深淵において爆発的に話題になっている一つの鮮明な映像。東京の魔境、地女大に出現したという国家指定危険能力者のお菓子能力者に対し、筮麽と思われる触手能力者が一方的な蹂躙劇の末に勝利したという噂話と、その生々しい証拠動画。
それを自らの目で確認し、ようやく自分がこれまで、如何なる絶望的な神話の怪物に対して無謀な勝負を挑み続けていたかに、河海は遅ればせながら気付いたらしい。
「いや、冷静に考えてさ……。国指定能力の化け物相手に勝つ真の化け物に、ただの棒切れ一本で勝負挑むとか、もしかして自殺願望に等しい無謀な行為だった……?」
河海の弱々しい言葉に、
「そーだよ、今更気付いたのか。……とはいえ、まさか亜鳴蛇の能力が、あそこまで規格外でやばい能力だとは、あたしも思ってなかったけど……」
黒角が、額に冷たい汗を滲ませながら同意した。
以前、筮麽にボコられた際に、キャンパスの中庭で筮麽と交わした、缶コーヒーを奢るという些細な約束。その安価な報酬の代わりに、その後筮麽本人から直接あの禍々しい触手能力の詳細について教えてもらった日の記憶が、脳裏に鮮明に蘇る。
ひどく気怠げで、欠伸を噛み殺しながら語る適当な口調。だが、その言葉の端々から、ぼんやりと自分らのちっぽけな想像力では到底計り知れない程の、底知れぬ強大な能力であるということだけは、本能の警鐘と共に理解出来ていた。
しかし、今回の地女大の流出動画の件で、改めてその異常なまでの凶悪さと圧倒的な制圧力を、これでもかと嫌というほど骨の髄まで思い知らされた。あれは、人間の想像を遥かに超越した深淵の能力。間違っても、自分らのような一般能力持ちが喧嘩を売って戦うなどと考えてはいけない、禁忌の異能。
「……そもそもさ。亜鳴蛇の化け物っぷりは論外として、あれの横にいる柄長にだって、私らじゃ束になってかかっても絶対に敵わないんだから。……柄長、なんか前よりずっと能力の出力も汎用性も異常なほど増してるし……磁力を応用して擬似サイコキネシスだの、反磁性浮力とかいう理不尽な力で空までスイスイ飛んだりしてたし……」
普並木が、同じ電気を扱う能力者である鴨紅柄長と自身の現在の力量を比べ、ギリッと歯噛みして悔しそうに呟いた。
女性としての身体的魅力、とりわけ胸部の豊かさなどのスタイルにおいては、普並木が柄長に対し絶対的な勝利を収めている。だが、能力者としての根源的な能力格差は、彼女の自尊心を深くえぐるほど気になって仕方がないらしい。
「落ち着きなよ杏璃。流石に柄長レベルは絶対無理とは言えさ」
「そいつを言うな」
「……まぁまぁ。杏璃だって前よりずっと、それなりに高度な電気操作が出来るようになったんでしょ?」
黒角が、友人を慰めるように穏やかな声で言う。
「それはそうだけど……」
普並木が、不満げな表情のまま右手の人差し指を立てる。
意識を集中させる。
指先から電気を出す能力。
バチッという鋭い放電音と共に、青白い高圧の電気が鮮やかに発生する。
器用にその電気の軌道を歪める。
美しい光の輪の形へと見事に変形させてみせた。
「ほら、見てみなよ。前までは、瀕死のミミズが地面を這ってるみたいなしょぼい動きだったのに、今はこうやってすんなり自分の意志で電気を動かせてるじゃん。これって、ものすごい進歩だよ。前も言ったけどさ」
「慰めは嬉しいけど、それでもね、柄長みたいな、何でもありの超強い電気能力者が身近に存在してると、どうしても比較して気になっちゃうんだよ。出力も、電気を操る精密さも桁違いだし。向こうは電気だけじゃなく、テクノロジー操作も出来るっていう、反則みたいなもうひとつの属性まで持ってるし。神様が与えた能力格差って、本当に残酷すぎ」
「気にしすぎだって」
「あんたは、身近に能力被りがないから分からないんだよ。肉体変化形は色々あるとは言え、宝石化なんてそんなに見ないでしょ? こちとら、ありふれた電気系能力なんだわ」
「……あー、確かに比較相手はいないけど」
「そういうこと」
普並木がむすっと頬を膨らませ、冷めたコーヒーを氷ごと一気に喉の奥へと煽った。
「……つーかさ。あんたら二人、なんで私らの共通の敵、亜鳴蛇の参謀、あの鴨紅と最近普通に仲良くしちゃってんのさっ! 私、前からずっと思ってたけどっ!」
不意に、存在を忘れ去られていた思い出したかのようにテーブルを叩き、牙を剥いて吠えた。
本来、河海が熱心に率いるこの三人の集まりは、打倒亜鳴蛇を掲げる〈反・亜鳴蛇筮麽派閥〉の強硬派であるはず。それなのに、リーダーの知らない水面下で、憎き敵の右腕であり参謀たる柄長と、普通に連絡先を交換したり、学内食堂で一緒に食事をし、仲良く談笑しているという裏切りの事実に、河海は酷く憤慨し、血圧を急上昇させている。
二人は、以前までは面倒臭い河海にバレないように、こっそりと柄長と交流を続けていた。だが、学食で一緒にうどんを食べているところを目撃され、とうとうその事実が露見してしまった。
「別にいいじゃんか。あたしらが個人的に柄長と仲良くしたってさ。減るもんじゃないし」
「そ、そうだよっ。鏡乎の言う通りだっ。大体、元はと言えば、あの亜鳴蛇のやつが、河海の好きだった男をこっぴどく振ったっていう、完全に一方的な逆恨みの因縁に、私たちが無理やり巻き込まれてた側の被害者なんだからっ。大体半年以上前の話いつまで引きずってんのさ」
黒角は、とっくに悪びれる様子もなく完全に開き直っており、普並木も友人の援護射撃に続く。
そもそも、あのバケモノ染みた筮麽に本気で勝とうと血迷っているのはリーダーの河海だけで、ハナから二人には彼女と能力戦で勝つ気など毛頭ない。故に、元からこの物騒な派閥は組織として一切機能していない。
「ぐっ……、そ、それは確かに事実だけど……ほら、それじゃ派閥の長たる私の立場がないっていうか、メンツが丸潰れっていうか……」
痛いところを突かれ、途端に視線を彷徨わせて狼狽える河海。そんな彼女に対し、黒角が口元に意地悪な笑みを浮かべた。
「あ、そーいえばさ。思い出した」
「な、なにさ。急に」
「最近、例の無我見とはどうなんよ。進展あったの?」
「ぶっ!!」
河海が、大学の構内で一番仲の良い異性、無我見友成の名前を唐突に出され、口に含んでいた甘いコーヒーを盛大に噴き出しそうになる。
「あ、それは私もずっと気になってた。どうなのよ、最近は。付き合ったん?」
普並木も、先程までの不機嫌さをすっかり忘れ、恋バナの気配に興味津々といった顔で身を乗り出す。
「つ、付き合ってないわっ! あいつは、私のどうでもいい愚痴を聞くただのサンドバッグ相手で──」
河海は、首の裏まで茹でダコのように分かりやすく赤面し、喫茶店内に響き渡る声で絶叫した。
その瞬間、周囲の席でくつろいでいた他の客たちの目線が一斉に彼女へと集中する。その刺さるような視線にぎょっとして、河海は慌てて口を両手で塞ぎ、押し黙る。
「い、いやだからねっ! その、友成は……ただの気の置けない友達というか……別に、異性としてのそういう特別な感情は一切ないというか……まぁ、確かに私が大学で仲の良い男なんて……あいつ以外は……ゴニョゴニョムニャムニャ」
テーブルの上で人差し指を所在なげにつんつんと合わせ、徐々にその強気な声も蚊の鳴くような小ささに萎んでいく。うつむく彼女のその紅潮した表情は、不良少女の面影など微塵もなく、完全に恋に悩む純情な乙女のそれ。
普並木と黒角は、顔を見合わせてニヤリと笑う。あっこいつ完全に無我見のこと好きじゃん、と、とっくの昔から揺るぎない確信を抱いている。
肝心の無我見の方がどう思っているかは未知数。だが、河海が彼に深い好意を抱いているのは、周囲から見れば火を見るより明らかな一目瞭然の事実。今までは持ち前の強がりで曖昧に誤魔化していたつもりの河海。しかし、その実、本人以外からは心理状態が完全にバレバレの、隙だらけの態度。
「……ま、青春の特権だし。精々頑張りなよ、河海」
黒角が、自身の右手を宝石化させ、キラキラと輝くサムズアップを作ってみせ、不器用なエールを送る。
「私も。微力ながら全力で応援するわ」
普並木も、両手で可愛らしいハートマークの形を作り、そのマークの輪郭に沿って青白い電気の線をチロチロと形作った。異能を平和的に利用した、彼女らなりの最大限の温かい応援。
「おっ、終わりっ! 終わり終わり、もうこの話はやめっ!! 恥ずかしいから!!」
慌てふためき、顔を真っ赤にして必死に両手を振る河海。黒角はそんな友人の初々しい姿をにやにやと観察し、普並木はリア充め爆発しろ、という少しばかり嫉妬の混じった態度で生温かく見つめる。
強がりばかりのこの不器用な不良少女が、己の胸に秘めた本当の気持ちに素直になれるのは、まだもう少しばかり先のことになりそうだ。




