能力偽装罪
八
「……というわけで、そんな得体の知れない恐るべき女と遭遇したというのが事の顛末だ」
苑奈アゲハは、相も変わらず足の踏み場もないほど乱雑に散らかりきった自宅兼中枢ラボの一室にて、最高級のイタリア製本革ソファへとだらしなく全身を投げ出しながら重々しく口を開く。その右手には、繊細なカッティングが施されたバカラのワイングラスが危うげに揺蕩っている。
部屋の中央に座する、旧時代において皇帝の玉座にも使用されたという幻の霊木、金絲楠木の豪奢な執務机。その上には、世界最高峰と謳われる稀少なカルトワインの瓶が無造作に置かれている。銘柄は北米産最高級赤ワイン、〈スクリーミング・イーグル〉。
市場価格にして約百八十万円という常軌を逸した値が付けられていたが、莫大な特許収入を得ている苑奈の財力からすれば、路傍の石ころと同義の端金に過ぎない。真に問題なのはその金額ではなく、世界的な流通量が極端に少なく、入手経路を確保するまでの政略的な駆け引きの苦労の方だ。だが、苦労して手に入れたその至高の液体も、既に半分以上がこの自堕落な女の胃の腑へと消えている。
「なるほどなるほど。そんな数奇な出来事があったんですねぇ」
星ヶ咲針我は、鮮やかなターコイズブルーの髪を軽やかに揺らし、床に散乱した難解な数式が羅列された資料や、使い古された実験器具をテキパキと片付けながら呆れたように返す。つい数日前、彼女が丸一日かけて塵一つない状態へと清掃したはずの空間は、瞬く間に元通りの悲惨なゴミ屋敷へと回帰している。
「そうだ。あ、そこの床に転がっている三口フラスコと位相干渉型超電導コイルは、そこの防爆ケースに閉まっておいてくれ。それは後々の実験で使う」
「はーい。全く、本当に人使いが荒いんですから」
星ヶ咲は、ぷくっと頬を膨らませて文句を垂れつつも、その手際の良さは職人の領域。素早い動作で指定された器具を特殊ケースへと押し込み、厳重なロックをかける。
現在、苑奈は優秀なる助手たる星ヶ咲にラボの清掃という物理的労働を強要しつつ、以前までの出来事を語っている最中だ。
過去にある異能力者を研究対象とした際、その者が有していたオーラを視認する能力。苑奈はそれを徹底的に解析し、それを異能出力のみを抽出する様、自身の着用する丸眼鏡へと科学的アプローチによって組み込んだ。他者の潜在的な異能出力を視覚化するその技術の恩恵により、偶然にも出会った圧倒的な異能出力を持っていた女、亜鳴蛇煮麼筮を発見したという経緯。
当然のことながら、この驚くべき事実を星ヶ咲以外の第三者へ漏洩させたり、権力に物を言わせて相手を強制的に研究対象として拘束するような非人道的な真似はしない。それは煮麼筮という一人の人間に対する最低限の尊厳に関わる問題。
それに何より、星ヶ咲はその底抜けに明るい性格とは裏腹に、極めて口が堅く信頼に足る人物。これまで苑奈の元で数々の国家機密レベルの極秘資料やデータに触れてきたが、ただの一言たりとも外部へ情報を漏洩させたことはない。
とはいえ、内容が内容だけに、煮麼筮本人の実名や、彼女の隠れ蓑たる職場、ジュリアナ東京改という固有名詞は伏せた状態での報告となっている。
「それにしても博士、いい加減自分でお掃除くらいしてくださいよ。博士のナノテク能力なら、こんなの一瞬にして片付けられるじゃないですかっ」
「いやまぁ、日々の高度な研究で忙しくてな。精神的なリソースが足りず、やる余裕がないというか……」
「そんな見え透いた言い訳してー。今もずっとお酒飲んでゴロゴロしてるじゃないですかぁ。三十歳にもなってだらしなさすぎますっ! こんなんじゃ、絶対にお嫁には行けませんね」
「……それを言うのはやめてくれ。胸に刺さる」
星ヶ咲からの痛烈にして的確な指摘を受け、苑奈は眉間を寄せて苦い顔を浮かべるが、ソファに寝そべったまま微塵も動こうとする気配を見せない。この天才の度を越した自堕落な悪癖は、もはや不治の病のごとく治る気配がないようだ。
「……しかし、本当に驚いたよ。まさか、あんなに背の高い女がこの日本に存在しているなんてな。しかも……ひどく悔しいことだが、万人が認めるであろう物凄い美人が」
苑奈は、自身の美貌への絶対的な自信を揺るがされた屈辱からか、忌々しそうに顔を歪めつつ吐き捨てる。
「あの紫怨よりも大きい女の人がいるなんて……少しばかり見てみたい気もしますね。でもですよ博士」
星ヶ咲が、両手一杯に抱えていた分厚い論文資料を机の隅にどすんと下ろし、ジト目を向けてくる。
「ええと……その、なんでしたっけ。博士の眼鏡に組み込まれた機能……オーラ……なんとか」
「精神波動可視化機構か?」
「はい、それです。まぁ、他の方の異能出力を個人的に観察するのは別に構いませんが……凄い異能出力のオーラを出した人を見つけたからって、つい気になって後をつけて追いかけちゃうなんて、いくらなんでも博士らしくないですね。相手からしたら、ただの悪質なストーカーですよ、それ」
「う……ま、まぁそれは最もだな。私の知的好奇心が暴走した結果とはいえ、いささか軽率な行動だったよ」
苑奈はあの薄暗い森公園にて、煮麼筮から向けられた絶対零度の冷酷な瞳を思い出し、背筋に冷たいものを走らせる。その畏怖の念を誤魔化すように、グラスに残ったワインを一気に口へと含んだ。
「……でも、その謎の女の人の異能出力オーラの凄さは、確かに気になりますね。東京のスクランブル交差点を丸々覆い尽くしちゃうほどの広さなんて」
星ヶ咲の可憐な声色がうってかわり、国内最難関大学の生徒に相応しい真剣味を帯びていく。
「あぁ、そうなんだよ、針我くん。君よりも遥かに強大な異能出力を持つ者が、まさかこの東京という狭い箱庭の内に潜伏しているとは思わなかった」
「ええと、ちなみに私のオーラの広さは、どれくらいでしたっけ」
「うん? 君の場合は、広さは半径十メートル程度だな。高さは高層ビル群と肩を並べる規模だが」
「そう考えると、とんでもないスケールですね。その女の人は」
星ヶ咲は思わず息を飲み、唖然とした表情を浮かべた。
彼女が有する感情で天候を操る能力は、ただ一つの感情の揺らぎだけで、一帯の地区そのものの気象条件を完全に書き換えてしまうほどの絶大な力。その国家指定危険能力すらをも遥かに凌駕する異能出力など、常人の想像の範疇を容易く超絶している。
苑奈が空になったグラスを机に置き、鋭い知性を宿した瞳で虚空を見つめる。
「彼女本人は、自身の能力をただの〈指からちっさい火が出る能力〉……と、そう申告していたが、あの規格外のオーラから推測するに、あれは間違いなく偽装だ。しかも、初めて遭遇した日の去り際、彼女の展開していたオーラは、そこらの凡骨能力者と遜色ない極小サイズにまで急激に縮小していた。炎以外にも全く異なる属性を内包する二重属性か、それとももっと複雑怪奇な法則を持つ多重属性か……」
「え。それって……つまり、能力偽装ってことですか? それ、立派な犯罪じゃ……」
星ヶ咲は、その女の持つ力の特異性よりも、まず自身の根面目な性格ゆえに、真っ当な法的見地からの指摘を口にした。
異能普遍社会において、国家が定める能力自由行使法により、公共の福祉を著しく侵害しない範囲での市民の異能行使は原則として自由と規定されている。だが、国家への能力偽装となると話の次元が変わってくる。
能力偽装罪は、重罪に分類される明白な犯罪行為。
原則として、役所での能力名の登録は個人が自由な裁量で決定できる。しかし、それに伴い厳密な能力測定テストを受験し、公的機関が発行する証明書を提出する義務が生じる。成長期を経て能力の性質が変質した場合や、本人の強い希望により戸籍上の能力名を変更することは、規定の事務手数料を支払うことで合法的に可能。
だが、悪意を持って意図的な偽装を行うとなると話は別。
犯罪やテロリズムで異能を悪用する輩もこの社会ではありふれており、暴力団などのヤクザや半グレ、反社会的な武装グループが、警察の捜査網を掻き潜るために頻繁に用いる常套手段として広く認知されている。
「まぁまぁ針我くん、君の懸念はもっともだが……少なくとも、彼女からは社会に仇為すような悪意や、凶暴な殺意といったものは一切感じられなかった。もしかしたら、法を犯してでも隠さねばならない、よほどのっぴきならない事情があるのかもしれない」
「うーん、大丈夫なんですかね、本当に……」
「あぁ。私の直感が告げている。彼女は根底において、善良な小市民だ」
「まぁ、確かにアゲハ博士の直感や分析はほぼ百パーセント間違いなく当たるので、信頼できるんでしょうけど……」
星ヶ咲は、うーんと唸りながら不安げに眉をひそめた。
過去、自身の制御不能だった強大な異能ゆえに、国から国家指定危険能力者としての厳しい認定を受けていた彼女からすれば、自分を遥かに超える正体不明の異能出力を持つ存在には、やはり拭いきれない一抹の不安を覚えるようだ。
「それに、このオーラ・ヴィジュアライザーは、オリジナルの能力者が持つ生体機能とは違い、あくまで工学的に再現したただの機械に過ぎないからな。彼女の二メートル近い常軌を逸した背丈の高さに機械のセンサーが過剰に呼応し、一時的な誤作動を起こした可能性も否定できない。確かに、あの場を支配する存在感は、異能の有無に関係なく圧倒されるほどの威圧感があったしな」
苑奈は、愛らしい助手の胸の内に渦巻く不安を解消すべく、もっともらしい論理を並べ立てて取り繕った。
別に苑奈は、世界の平和を守る正義の味方ではないし、相手が明確なテロ行為や大規模破壊を目論んでいたりしないのであれば、個人的な事情による能力偽装程度には目を瞑る度量はある。人間にはそれぞれの複雑な事情が絡み合って生きているものであり、そういった世俗的な事柄については、正直言って一切の興味がない。
とはいえ、全ての人間が自分と同じような達観した思考回路を持っている訳ではない。真面目で常識的な倫理観を持つ助手に、無用な恐怖や不安を抱かせないよう配慮するのも、人生の先輩、大人たる者の務め。
「それにだな、実はつい最近、もう一度彼女と会う機会があってね。一応この眼鏡で再度異能出力を観測してみたのだが、相変わらずそのオーラはそこら辺の凡骨と変わらない平凡なものだった。案外、本当にただの機械の誤作動だったりしてな」
「んー……まぁ、あんまり危険な道に踏み込まないでくださいね。博士ったらいつも、自分の好奇心を優先して危なっかしいことばっかりしてて、私すっごく心配しちゃうんですからっ」
「あ、あぁ。善処するよ」
初めは、己の強大な異能を持て余し、社会から孤立しかけていた彼女を保護し心配する立場だったはずなのだが。いつの間にか、私生活を管理され、小言を言われる立場へと見事に逆転してしまっている気がしてならない。
「ふう、それにしても力仕事ばかりで少し疲れました……あ。そうだ、アゲハ博士、私もそのすっごく高そうなワイン、ちょっと飲んでみて良いですか? 一体どんな味がするのか、すっごく気になりますっ」
星ヶ咲がくるりと振り向き、目を星のようにキラキラと輝かせて言った。
「ん? あぁ、いいよ。どうせ君にも日頃の労いとして少し分けてあげようとは、元々思っていたんだ」
「やったぁー! さすが博士、よっ、太っ腹っ!」
先程までの不安に満ちた深刻な表情は一瞬にして彼方へと消し飛び、星ヶ咲は満面の笑顔でカルトワインの存在に食いつき、すぐさま苑奈の隣の空いたソファーのスペースへと滑り込む。彼女は、三度の飯よりワインに目がない無類のワイン好き。
苑奈はゆっくりと身体を起こし、机の上に予め用意しておいた、もうひとつの美しいクリスタルグラスを手に取る。
「うんうん。やっぱり針我くん、君にはそうした屈託のない笑顔が一番似合っているよ」
愛しい助手の無邪気な様子に目を細め、心底から優しく語りかける。
「えへへ、またまた博士~、そんな甘い言葉で誤魔化そうとしても、私は騙されませんからねっ」
星ヶ咲はぷんすかと怒ったふりをして見せるが、彼女の周囲の空間には、まるで春の陽だまりのようなポカポカとした温かな空気が満ちていく。
彼女の有する、感情で天候を操る能力が無意識下で微弱に発動している証拠。口では文句を言いつつも、最高級ワインのおこぼれに預かれる喜びに、その内心はすっかり上機嫌になっている何よりの証左だ。
「ま、君を心配させるような危険な真似はなるべく避けるよ。無用な怪我を負ったり、反社会勢力の抗争に巻き込まれたりするのは、私もまっぴらごめんだからな」
「もー、本当に気を付けてくださいね。……ほら博士、それよりも早くワインくださいっ。喉がカラカラですっ!」
「わかったわかった、そう焦らないでくれ。こぼしたら勿体ないだろう」
苑奈は、呆れたように薄く微笑みながら、深紅の芳醇な液体を、待ちわびる助手のグラスへと静かに注ぎ入れた。




