読書の時間
三
狂乱の如き熱波がアスファルトを焦がし、人々の体力を容赦なく削り取った焦熱の季節は去った。肌を刺すような夏の異常なまでの猛暑はとうに過ぎ去り、代わって心地よい涼風が帝都・東京にも、街路樹を揺らす秋冷の候がようやくやってきた。
東京某所のアパート、その一室。
紫吳紫怨は、備え付けの簡素なベッドの中央にゆったりと腰を下ろし、自身の最大の趣味と公言して憚らない読書を嗜んでいた。本日は彼女が通う聖神大学の講義も全て休講となっており、完全に自由な時間が約束された休日。
超常の異能が完全に日常風景へと融和し、それに伴って科学技術力も爆発的な向上を遂げた現代社会。人々が享受する娯楽の形もまた、劇的な変容を遂げている。こと書物という媒体に関して言えば、物理的な紙の束を用いた古式ゆかしい文庫本を手に取る者は今や極めて少数派となり、仮想空間上の電脳書架から瞬時に情報を引き出すデジタル派が圧倒的な多数を占めている。
さらに特筆すべきは、文字をただ視覚で追うだけでなく、現在は電子化された文庫本を高精度の合成音声で読み上げ、聴覚から直接脳内へと流し込む自律型音声変換朗読機構という画期的なシステムが一般に広く普及していること。個人の端末で詳細な設定を施せば、客観的な地の文と、各登場人物のセリフの機微に合わせて音声の種類が自動的に切り替わり、感情の起伏までを精密に再現する抑揚最適化処理が即座になされる。さらには、場面の雰囲気に完全に合致した環境音や背景音楽までが絶妙な音量で流れるという、極めて没入感の高い仕様。
ただし、この劇的な臨場感を生み出す擬似生体音声の読み上げ合成音声キャラパックと呼ばれる拡張データ群は、基本的には全て有料コンテンツ。その種類たるや星の数ほど無数に存在し、著名な声優や俳優が録音したものから、完全な人工知能による架空の理想音声まで多岐にわたる。ゆえに、それらの魅力的な音声を全て収集しようと目論めば、それ相応の莫大な金銭が瞬く間に電子の海へと消え去っていく。なお、初期搭載されている無料バージョンも当然存在するのだが、こちらは感情の起伏を一切持たない、ただの無機質で平坦な機械音声。物語の没入感を著しく阻害するため、好んで使用する者は少ない。
この革新的な読み上げ機能は、市販されている一般的な文庫小説のみならず、学習参考書や専門的な学術書、果ては個人が執筆した電子化された本全てに例外なく適応される。その結果として、娯楽の多様化により深刻な活字離れを引き起こし、読書をする習慣を持たない傾向にあった若者層でさえも、音楽や映像作品を鑑賞するような気軽な感覚で本を楽しむ機会が爆発的に多くなった。
しかし、その過剰なまでの利便性がもたらした副作用として、この時代を生きる現代人にとって、本とは今や<読むもの>という能動的な視覚情報媒体ではなく、<聴くもの>という受動的な聴覚的享受対象であるという、本末転倒な認識が一般化されている節がある。
しかし、紫吳紫怨という女は、こうした極度に電子化され、効率化された今の時代にあっては極めて珍しく、旧来の物理的な紙の本をこよなく愛し、好んで読むという特異な性質を持っていた。
整然と並んだ活字の羅列を、自らの視覚のみで静かに目で追う時間。指先で物理的なページを捲る際に生じる、かすかな摩擦音と確かな質量。そして何より、真新しいインクと、経年劣化によって微かに変色した紙特有の芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込みながら、ただひたすらに静寂に包まれた読書の海に没頭したいと言うのが、紫吳の絶対的な考えだ。
彼女は最後の文字列を視線でなぞり終えると、読み終えた装丁の本をパタリ、と小気味良い音を立てて閉じた。
そのまま静かに目を伏せ、しばらくの間、芳醇な読後の余韻に深く浸る。
たった今読了した文庫本のタイトルは<孤高の少女>。物語の内容は、群れることを嫌い、常に孤高を愛し、他者との馴れ合いを徹底して拒絶する女子高生の主人公が、同じ高校に通う、ほんわかとした不思議な雰囲気を纏った男子生徒と偶然の巡り合わせから徐々に仲良くなるという、王道にして繊細な青春物語。氷のようにクールで、誰もを寄せ付けない強固な城壁を築いていた主人公が、その男子の放つ、ゆるりとして、まるで自然のマイナスイオンを無自覚に放つような独特のオーラに当てられ、少しずつ、しかし確実に心を許していくという心温まる話。露骨な恋愛感情の交錯と言うよりかは、あくまで純粋な男女の友情という極めて健全な関係性の構築が作品全体のコンセプト。しかし、物語のページが進むにつれ、二人の精神的、物理的な距離が徐々に、そしてもどかしいほどに近づいていく描写が続くため、読者の視点からすれば早く付き合えと、良い意味で苛立ちともどかしく思う構成となっている。結局のところ、最終章に至るまで二人が恋人同士として付き合ったりする訳でもなく、あくまで無二の親友という絶妙な距離感を保ったまま物語は静かに幕を下ろすのだが、その安易な恋愛関係に帰結しない潔さこそ、そこが良い、と紫吳は深く思い、満足げな吐息を漏らした。
ふと、紫吳は能力を発動した。
エフェクトを実体化させる能力。
虚空を見つめる彼女の目の前に、光の粒子が集束し、半透明に輝く四角いパネル状の実体が音もなく具現化した。
そして、本を置く。
もうひとつ全く同じ形状のエフェクトを上空から被せるように出現させ、ちょうどサンドイッチのように、先程読み終えた本を二枚の光の板で挟み込んだ。
脳内で軽く念じる。
強固な光のエフェクトに挟み込まれた本は、まるで重力の概念から完全に解き放たれたかのように、ふよふよと空宙を浮遊しながら飛び、ベッドから少し離れた壁際。本棚の、寸分違わぬ指定された隙間へと見事に収められた。これぞ、自らの持つ異能を、一切の戦闘や暴力に用いることなく、ただ己の利便性のみを追求した能力の平和的行使の極致。
さて、次は何を読もうか、と思い、紫吳は虚空を漂う視線を巡らせた。思考を切り替えると、つい最近書店で購入したばかりの真新しい分厚い本に目をつけた。先程と同様に、本棚に並んだ幾多の本と本との僅かな隙間に、薄く鋭利に変形させたそのエフェクトを滑らかに挿し入れて目的の一冊を取り出し、空宙を滑空させて手元へと手繰り寄せる。
表紙を捲り、再び本を読み始める。今度彼女が選んだのは、複雑な感情が交錯する人間ドラマの物語ではなく、帝都・東京の絶品料理を網羅した詳細なグルメ本。紫吳は美しい装丁のページを捲りながら、なんとなく左手首を操作し、皮膚直下に埋め込まれたホロフォンを起動し、半透明のエメラルドグリーンに輝くホログラム画面を空宙へと出現させた。画面を操作して総合ニュースチャンネルに設定し、アナウンサーの感情を抑えた平坦なニュース音声を部屋の背景音楽代わりに垂れ流しつつ、色鮮やかな料理の写真が並ぶグルメ本を読み進める。この店美味そうだな、などと視覚と食欲を刺激されていた、まさにその時。
垂れ流されていたニュースの音声が、突如として緊迫感を帯びたトーンへと変化した。同じこの東京の地で、新たに国家指定危険能力者が現れた、というキャスターの深刻な声が耳に飛び込み、紫吳の意識は読書から完全に逸れる。
国家指定危険能力者という物騒な単語を耳にして、紫吳の脳裏に真っ先に思い浮かぶのは、同じく過去にその危険な認定を受けている無二の友人の顔、星ヶ咲針我の存在。
(なんだか、物騒な事態だな)
内心でそう毒づき、紫吳はベッドに寝転がり、空宙に浮かぶホログラム画面へと鋭い視線をやった。
しかし、そこに映し出された凄惨な被害状況を示すはずの映像内容は、彼女の抱いた深刻な予想を根底から覆す、恐ろしく拍子抜けするほどに奇天烈なものだった。
「え、なんだぁ、こりゃあ」
百九十センチの長身が起き上がる。
思わず間抜けな声が漏れた。
画面のテロップには、毒々しい明朝体で<菓子・パンデミック>と呼称された前代未聞の騒動の文字が踊り、上空からのヘリコプターによる中継映像が、ニュースより克明に映し出されている。
その報道内容は、東京の都心部に広大なキャンパスを構えるとある女子大学の敷地全体が、規格外の大きさを誇る巨大な菓子類で完全に埋め尽くされているという、まるで幼児向けの絵本から飛び出してきたかのような荒唐無稽なものだった。
荘厳な造りの石造りの校舎のピンク色の壁面には、まるで寄生植物や巨大な花のように色とりどりの巨大アイスクリームが咲き乱れ、上空には反重力を得たかのように無数の巨大なキャンディがふわふわと浮遊し、空中を飛ぶ。さらには、大福やどら焼きといった和菓子、マカロンやショートケーキといった洋菓子のジャンルを問わず、様々な甘美なる菓子が建物の隙間を埋め尽くすように無秩序に群生している光景が映し出されている。
報道機関の発表によれば、どうやらこの惨状を引き起こした張本人は、この大学に在籍する一人の生徒が主犯であり、現在、現地リポーターが現場に突撃インタビューを行い、どうしてこんな突拍子もないことをしたのか、など、詳しい動機や能力のメカニズムを鋭意調査中という、緊迫感の欠片もないシュールな報道がなされている。
「すんげぇな、こりゃあ。童話かよ」
紫吳は画面の極彩色の映像を呆れたように眺め、独りごちた。
一体どのような原理の能力か、現在専門機関が総力を挙げて調査中との報道がされているが。紫吳の観察眼によれば、恐らく、自分と同じように何もない虚空から物質を具現化する能力、その一種ではないかと推測。
画面を見る限り、ただ単に巨大なお菓子をポンと出して終わりという単純な現象に留まる訳ではなく、質量を持つ巨大なキャンディを空に漂わせたり、建物の壁面にアイスを接着させたりと、菓子類を自在に操作でき、色々応用が効いているようだ。自身の念動力のようにエフェクトを操る性質と、そこら辺の挙動は酷似しており、非常に自分と似ている。
さらにニュースの続報によれば、専門機関の調査員が慎重に成分を採取し、即座に成分分析を調査したところ、一切の毒物や有害物質は検出されず、人体にとって全く問題なく食べることができる極上のスイーツであることが判明。現在、この巨大な菓子類は大学校内において、パニックになるどころかお祭り騒ぎとなった生徒や、噂を聞きつけて集まった野次馬などの来場者問わず、希望者全員に無料で配られるという、もはや国家の危機とは程遠い平和的な報道がなされているが。
「うげぇ。流石に食う気になれんわ、得体が知れない……」
紫吳は、心底嫌そうな顔をして眉根を寄せた。
いくら安全が保証されようとも、他人の能力により生み出された得体の知れない巨大なスイーツなど、生理的嫌悪感が勝り、食べる気には到底なれない。そしてなにより、画面越しにも伝わってきそうな、周囲一帯が菓子まみれの甘ったるい匂いに包まれた空間など、特別甘党でもない、むしろブラックコーヒーを好む紫吳には精神的にきついものがある。
そんな中、軽快な電子音が部屋に響いた。
着信。通話相手は星ヶ咲だ。
すぐに出た。
『あっ、紫怨っ! 見てる!? 今のニュース番組。どこかの大学が、信じられないくらいのお菓子パークになっちゃってて!』
「あぁ、ちょうど見てるよ。なんだか、ものすっごいハチャメチャなことになってるらしいな。目に痛い極彩色だわ」
通話越しに響く興奮気味の友人の声。どうやら彼女も同じニュースを見てるらしかった。
『今、大学の中でスイーツを無料で配ってるらしいんだけど……ちょっと、二人で行ってみる? 今見たらさ、もうネットの掲示板じゃ、どこの大学か特定されてるんだけど、ここから電車乗ってもそんなに遠くない場所だよっ』
と、星ヶ咲が好奇心旺盛な声で突撃を提案するが。
「冗談じゃない。誰が好き好んであんな甘ったるい地獄に飛び込むか。死んでも行かん」
即座に否定。
『ええー……でもさ、ちょっと心配じゃない? 大丈夫かなぁ、その能力暴走させちゃって、いきなり国家指定になっちゃった子』
「ん、ニュースの速報じゃ、私らと同じ年頃の女子大生なんだってな」
『うん。なんだか、すごく心配しちゃうよ。ほら、私も昔、能力を制御できなくて国指認定された身でしょ。なんというか、同じ境遇の人間として他人事とは思えないと言うか……』
星ヶ咲の沈んだ声。同じく、かつて己の強大な天候操作能力を制御できず、国家指定危険能力者として厳重な監視下に置かれたという壮絶な過去を持つ星ヶ咲にとっては、この前代未聞の珍事も決してただの笑い話として消化できるものではないようだ。彼女の持つ底抜けの優しさが、見ず知らずの能力者を気遣っている。
だが紫吳は、そんな友人の過剰な心配を払拭するように明るく言い放つ。
「ま、大丈夫だろ。画面見る限り、建物が倒壊したとか怪我人が出たとかいう物騒な報道は出てねぇし。それに、インタビューに答えてる学生たちの顔見ろよ。なんかもう、完全に非日常のゲリライベントみたいになって楽しんでるっぽいってことは、星ヶ咲が深刻に心配する程の悲惨な状況じゃないってこった。その主犯の子も、意外とケロッとしてるんじゃないか?」
口の利き方こそ乱暴でぶっきらぼうだが、その声色には、過去のトラウマに囚われかける友人を優しく労るような、確かな温もりがこもっている。
『うーん、まぁ、紫怨がそう言うなら、そうなのかなぁ。確かに、みんな美味しそうにクレープとか食べてるし……』
唸る星ヶ咲に、紫吳は手元の分厚い本をパラパラと捲りながら、
「それよりだ、星ヶ咲」
『うん? どうしたの?』
「さっき、わざわざあの菓子地獄に私を誘ってきたってことは、お前、今暇だろ」
『だねっ。今日は大学の講義もお休みだし、アゲハ博士のとこのラボでバイトの予定も入ってないよ』
「よし、丁度いい。実は今、ちょうど東京の最新のグルメ本読んでてな。中々に美味そうな店があったんだわ。訳の分からない菓子パンデミックのおこぼれに参加なんかじゃなくて、そっちの店に一緒に飯食いに行かねぇか」
再びグルメ本の鮮やかな写真に目を落とし、自信満々に提案した。
『えーっ! なになにっ、何のお店!? お肉? それともお寿司!?』
先程までの沈んだ声はどこへやら。
星ヶ咲星ヶ咲の弾んだ明るい声がスピーカーから響き渡る。
「ラーメンだ。濃厚な魚介ベースのスープだってよ。写真見る限り、美味そうだぞ」
『行くっ!』
一切の逡巡を挟まない即答。
「よし、決まりだな。今から支度するから、一時間後に神保町駅の改札前集合で」
『おっけー! すぐ準備するねっ!』
通話を切った。
エメラルドグリーンのホログラム画面がフッと虚空に溶ける。
再び視線をやった部屋の空宙に浮かぶニュースの報道は、すでに菓子・パンデミックから、現内閣総理大臣の安倍伸晋傘の国会での名言集という、全く別の馬鹿みたいな内容に切り替わっている。
『私は幅広く募っているという認識で、募集しているという認識ではなく──』
「その発言はなんだよ」
苦笑いし、画面を閉じた。
「いやぁ、にしても本当に良かったわ。うちらの通ってる聖神大学が、あんなピンクと黄色の菓子まみれの世界になったら最悪だったな」
本を閉じた。
https://ncode.syosetu.com/n5136mf/
作中に出てくる書籍<孤高の少女>




