同じ友人を持つ者同士
八
鴨紅柄長はこの日、機械的な電子音による起床の催促を設定することなく、深く甘美な睡眠の海に身を委ねていた。本日は木曜日。西圓寺郝躬と一堂に会し、自身の不透明な未来、すなわち進路についての重要かつ深刻な協議を行う日。
しかしながら、両者が顔を合わせる時刻は、街の飲食店が軒並み稼働を始める昼前。
平素であれば、午前六時半には規則正しく起きる柄長。だが現在は、学生に与えられた特権たる夏季休暇の真っ只中。狂気的な難易度を誇ったあのフランス語の課題も既に完全なる討伐を果たし、無上の自由を獲得した身。本日は労働の義務、すなわちアルバイトの予定も存在しないため、僅かばかり寝所の安寧を長く貪ったところで、天罰が下る謂れなどどこにもないと考えている。
それでも、柄長の生体時計は正確に機能し、午前七時には自然と意識の浮上を果たした。
重い瞼をこじ開けると同時、体内に眠る生体電流を微弱に励起させる。放たれた目視不可能な電磁の波が、ホロフォンの起動中枢を叩き、空間に投影された青白い発光文字が正確な時刻を告知した。寝床から這い出し、遮光カーテンを勢いよく左右へ開け放つ。途端、暴力的なまでの白光が室内を蹂躙し、柄長の華奢な網膜を灼き、強制的に肉体の活動準備を完了させる。
早朝の時刻であるにも関わらず、天空に座す灼熱の恒星は既にジリジリと容赦のない熱線を地上へと放射している。寝ぼけ眼を擦りながら洗面台へと向かい、口腔内の浄化と冷水による洗顔を遂行。意識を完全に覚醒させた後、腹の虫を黙らせるべく午前の糧の準備に取り掛かる。
冷蔵庫の重厚な扉を引き開け、安価な卵の挟まれたたまごサンドを確保。続いて、簡便な粉末状のインスタント・コーヒーの抽出作業へと移行する。ここで使用する水は、水道管から供給される平庸な液体ではない。以前、あの世界最強の怠惰な能力者こと亜鳴蛇筮麽が持ち込んできた、フィジー・ウォーターを利用する。
ボトルに備え付けられた蛇口から水を注ぐ。
どれほど安価でチープな粉末珈琲であろうとも、抽出の媒体となる水が極上であれば、その風味は劇的な昇華を遂げるというもの。
優雅な朝食の時間を終えると、本日の外出に向けた装いの構築へと移る。選んだのは、風通しの良い薄手のワンピース。
柄長がその身に宿す電気系の能力は、莫大なエネルギー変換の副産物として発生する焦耳熱から肉体を保護するため、異常なまでの熱耐性を付与している。故に、どれほど外気が灼熱地獄と化していようとも、体感温度という概念は彼女にとって完全に無意味。それでも、季節の移ろいに合わせた服飾の美学──ファッションを追求したいという、年頃の乙女としてのささやかな矜持は持ち合わせている。自身の平坦で未成熟な、ちんまりとした幼児体型にコンプレックスを抱きつつも、鏡の前に立ち、持てる技術の粋を集めて精一杯の自己研鑽に励む。
顔への最低限のメイクアップを施し、背中まで伸びた水色の豊かな髪を側面で束ね、サイドテール形状に固定。仕上げに可愛らしいリボンで結び目を隠し、髪型のセットを終える。
手提げ鞄の内部へ、思考を書き留めるための白紙の束と筆記用具を放り込み、全ての準備は完了。
出発の時刻まではまだ余裕がある。ベランダへと移動し、iQOSから立ち昇る蒸気を嗜みながら、活字の海に溺れる読書の時間を設けた。
ほどなくしてLINEを起動し、<カクミン>という登録名で紐付けられた西圓寺へと、本日の合流に関する最終確認のトークを送信。即座に肯定の返信が空間の幻影に浮かび上がり、両者の意思疎通は完了をみた。
西圓寺は東京住み。長野県在住の柄長が彼女と対面を果たすためには、現代科学の粋を集めた空間跳躍移動網を利用し、物理的な距離を一瞬にしてゼロへと還元しなければならない。平素であれば、あの怠惰な巨女、筮麽の瞬間移動の異能を足代わりに利用することで莫大な交通費を完全に無視していた。しかし、現在あの女には<課題完了までの接近禁止令>という厳罰を下しているため、自らの足と財力を頼る他ない。
最寄り駅の最深部に設置された、青白い光を放つポータルエリア。無機質な受付端末を操作し、莫大な電子通貨を対価として転送権を購入する。これがまた、女子大生の細腕にはひどく痛手となる高額な出費。この巨大な装置は、特定の空間転送系能力者の異能の因子を抽出し、最先端の物理工学と融合させることで人工的なワープを誰にでも可能にした代物だが、その維持稼働には莫大なコストがかかる。故に、末端の利用者に課せられる運賃も必然的に跳ね上がるという寸法。
背に腹は代えられない。それに、本日はあのブラックホールの如き胃袋を持つ筮麽に高級な食事を奢る義務も発生しないため、金銭的な収支は実質的に均衡を保っていると自身を納得させる。
深く息を吸い込む。
光の渦巻くポータルの門へとその身を投じた。
◆❖◇◇❖◆
昼前。合流の協定時刻。
光のトンネルを抜け、柄長の視界に広がったのは、アスファルトの海が煮えたぎる大都会、東京の街並み。
直ちに『東京ついたよ』とごく短い文字列をLINEにて送信した後、集合場所として指定された緑の乏しい公園へと足を運ぶ。
頭上から降り注ぐ陽光は信州のそれとは比較にならないほど凶悪で、周囲を歩く市民たちは皆一様に生気を奪われ、亡者の如き虚ろな足取りで徘徊している。柄長はこのような地獄絵図を目の当たりにする度、自身が高出力の電気能力に付随する熱耐性を持ち合わせていて本当に良かったと、心の底から安堵する。
公園の入り口に到達。
到着の旨を改めて送信しようと端末を起動しかけたその刹那。
「やほー、柄長」
背後。
ひどく間延びした声。
振り向いた。
先に立っていたのは、西圓寺郝躬。
黒髪の毛先にカクカクとした不自然な波打ち処理を施したセミディヘアー。目元には濃密な赤茶色のアイシャドウが塗布され、白く細い首筋には束縛を暗示する革製のチョーカー、そして両耳には痛々しいまでに無数の金属片、すなわちピアスが突き刺さっている。以前、ケンタッキーの食べ放題イベントで遭遇した時と全く変わらぬ、地雷系女子大学の生徒という肩書きに寸分違わぬ退廃的な外見。
しかし、本来であれば病的なまでに蒼白であるはずの彼女の肌は、連日の猛暑のせいか、わずかに健康的な褐色味を帯びて日焼けしている。上半身を覆う布面積の極端に少ないキャミソールトップス。肩から先までが惜しげも無く露出している。そして、大腿部を大胆に露出した極端に短いスカート。その露出狂まがいの装いから、彼女の暴力的なまでに豊満な双丘の谷間が、これでもかとばかりに主張している。スカートの裾から伸びる、健康的にふっくらと肉付きの良い太もももまた、圧倒的な質量を伴って柄長の視覚を蹂躙する。
柄長は、自身の絶望的に平坦な胸部と、目の前にそびえ立つ豊穣の山脈とを脳内で無意識に比較し、一瞬だけひどく苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたが、
「おーす郝躬、久しぶり」
すぐさま外面を取り繕い、人畜無害な笑顔を張り付けて応じた。
「長野から遥々お疲れさん。どれくらいぶりだっけ?」
「んーと、この前のケンタッキー食べ放題でしょ、一ヶ月半前くらい?」
「まじか、結構間が空いちゃったね」
「でも、筮麽のやつはあんたの友達ともう会ってたらしいよ、伽羅部だっけ」
柄長の口から滑り出た名前。西圓寺の腐れ縁にして、大食いの異能を持つ友人、伽羅部瞰。
「あー、瞰ね。聞いたよ、なんだか家系ラーメン行って二人でドカ食いしたらしいね、前言ってたよ」
「……食ってばっかだな、私らの友達」
類は友を呼ぶとはよく言ったもの。
柄長の口角が引き攣り、力無い苦笑いが漏れる。
西圓寺は手で顔の周囲の空気を掻き回しながら、ひどく気怠そうな表情を浮かべた。
「今日、気温のピークは四十四度超えらしいよ。やばいよね、熱中症になるわ」
「え? あぁ、そうらしいね」
柄長は一滴の汗すら流すことなく、涼風の吹き抜けるような清涼な顔つきで返す。
「なんで君、そんなに余裕そうなのさ。汗もかいてないっぽいし……高級な日焼け止めでもつけてきたの?」
「ん? あぁ、いやいや。ほら、私って電気系の能力じゃん? 熱に耐性あんの。なんでこんくらいの暑さは余裕だよ」
「いいなぁ。羨ましいよ」
西圓寺の瞳に、隠しきれない羨望の光が宿る。
しかし、すぐに思考を切り替えたのか、
「とりあえず早く行こう。店は開いてる時間だし、暑くてたまんない」
ぱたぱたと、自身のキャミソールトップスの胸元を引っ張り、内部に風を送り込む。その無防備な動作のせいで、余計に暴力的な胸の谷間が深く露わとなり、同性である柄長の目にも猛毒のごとき刺激を与えてしまう。
「そ、そうだね」
柄長は目のやり場に困り、不自然な早口で同意した。
灼熱の地獄をしばらく練り歩いた後、二人は目的の大衆向けファミレスへと逃げ込んだ。
店舗の看板に掲げられた名称は<ギウヤホ>。
二十一世紀後半、異能普遍社会の到来と共に急成長を遂げた、関東圏限定の巨大チェーン店。特定の異能による食材の保存技術と、現代の高度なオートメーション技術を極めて高い次元で交差させることにより、信じられないほど高品質な料理を底値で提供する、庶民の力強い味方。
自動扉の奥へと足を踏み入れた途端、二人の全身を鋭利な冷気が包み込む。空調設備が過剰なまでに稼働しており、肌寒さを覚えるほどの冷気に満ちている。ようやく生命を脅かす猛暑から解放され、西圓寺はふぅと長い息を吐き出し、安堵の表情を浮かべた。
営業を開始した直後ということもあり、待つことなくスムーズに座席への案内が行われる。店員の先導に従い、大きなガラス張りの窓際テーブル席へと腰を下ろす。店内を見渡せば、この過酷な気候から逃れるように、既に数組の客が涼を求めて居座っている。
「ここは初めて来たな」
柄長が、卓上に配置された重厚な装丁のメニュー表を押し開く。
色鮮やかな写真と共に、多種多様な料理の群れが紙面を埋め尽くしている。なるほど、物価の高騰が著しい帝都東京の中心部にあって、この価格設定は異常なまでに安価であり、庶民の財布に優しい。
「あ、そう? まぁ関東にしかないからね」
「何かおすすめはある? 無難なので」
「ならこのハンバーグのセットがいいよ、ランチタイムだとご飯、スープがおかわり自由」
「ならそれにしようかな」
意思が固まったところで。
「すみませーん」
西圓寺が右手を高く掲げ、フロアを巡回する店員を呼び止めた。
「はい、ご注文ですか?」
「はい。私はランチのキラキラ銀粉末のスパゲティで」
「あ、私はこのハンバーグランチで。ソースはデミグラスソースでお願いします」
西圓寺の不可解なネーミングの料理に一瞬思考が停止しかけたが、柄長も無難な選択を店員へと伝達する。
店員が手元の携帯端末を操作し、注文内容を復唱する。
「ライスはおかわり自由、スープセルフサービスになってます。こちら伝票です、少々お待ちくださいっ」
言葉少なに業務上の伝達を終えると、店員は伝票を卓の端に置き、風のようにその場を立ち去った。
「スープ取りに行く? ご飯が来るまで時間もあるだろうし」
西圓寺が、フロアの中央に設置されたセルフサービスエリアを指差す。
「お、そうだね。行こっか」
柄長も同意して立ち上がる。
並んで歩き、保温釜の蓋を開ける。本日のスープは、黄金色の液面に鶏肉の脂が輝き、ふんわりとした卵が舞うチキンと卵のスープ。
二人はそれぞれ備え付けの陶器の杯にスープを波々と注ぎ込み、自陣のテーブルへと帰還する。柄長は熱々のスープの表面にふーふーと息を吹きかけ、慎重に温度を下げた後、ずずりと一口喉の奥へと流し込んだ。
濃厚な鶏の出汁の旨味と、舌の上で解けるふわふわの卵の感触。この完成度の高さと美味さは本物。
「お、美味いね、これ」
柄長は感嘆の息を漏らし、思わず笑みをこぼす。
西圓寺は、にっと口角を上げ、
「でしょ? 瞰のやつなんて、一緒に来ると平気で十杯はがぶがぶ飲むんだよ。さすが大食い能力者だよね、惚れ惚れするわ」
「あはは、うちの筮麽も絶対飲みまくるだろうなぁ、下手したら釜の中身全部行きそう」
「うひひ、お互い難儀な友人を持ったねぇ」
柄長は底無し沼の如き怠惰を体現する巨女、筮麽の姿を。
西圓寺は他者からの注目を浴びることに命を懸ける承認欲求の化身、伽羅部の姿をそれぞれ脳裏に思い浮かべる。
全く異なる性質を持ちながらも、規格外の大食らいという一点において共通する厄介な友人たち。その扱いづらさに振り回される苦労人同士として、二人の間に確かな連帯感、すなわちシンパシーが静かに共有されていた。




