天然な黒角
「こらこら。あまり河海をからかわないの」
黒角が苦笑いを浮かべつつ、歩み寄りながらなだめる。
「ごめんごめん。悪かったね、河海」
口では謝りつつも、にやけた表情を崩さずに笑う。そして、わざとらしく胸の下で両腕を組み、自慢の胸をぐっと持ち上げ、さらにその質量を強調してみせた。圧倒的な暴力とも言えるそれを見せつけられ、うぐぐ、と屈辱に項垂れる河海。その耳の近くに、黒角がすっと顔を近づけた。
「大丈夫だって。あの無我見、杏璃はタイプじゃないらしいし、安心していいよ? 無我見のやつなら、そのままのちんちくりんな河海を気に入ってくれるって」
「……はぁっ!?」
無我見。その男の名前を出された瞬間、河海の顔が限界を超えて沸騰した。無我見友成。それは、彼女の数少ない男友達の一人。
すでに二人は下の名前で呼び合うほどの気安い仲に発展しており、周囲から見れば最早付き合って居ないのがおかしいほどの密接な距離感にある。
なので、たまに黒角は内心で親友の不器用な恋路を応援しつつも、こうして面白がってからかうのだ。
「だ、だから違うってっ! あいつはただの私の愚痴相手っ!! あんたには関係ないのっ!」
顔を朱に染めて大声で張り上げるが、黒角は意地悪くにやにやと笑っている。さらに、当の普並木ですら、目の前の本人が全くの無自覚でいるその不器用な恋心のようなものを察していて、同じように、にやにやと悪戯っぽく笑い始めた。
ふと、河海は自身の大きな怒声によって、更衣室に居る他の利用客たちの怪訝な視線が一斉に集まったことに気付いた。彼女は慌てて咳払いをし、その気まずい空気を誤魔化すように叫ぶ。
「うっさいわ黒角っ! 普並木も、いいから早く服着ろっ! 他の人の目も考えろぉっ!」
自身が普段、大学で傍若無人な不良として振る舞っていることなどすっかり棚に上げ、いっそ清々しいほどの常識人ぶった発言を放つ。
「はーい」
くすくすと笑いながら、ようやく温かい半袖のTシャツを着ようとした。だが、その瞬間。いつの間にか音もなく接近した黒角が、あろうことか自身の豊かな谷間を至近距離からじっと凝視している事に気付いた。まるで獲物を狙う猛禽類のように、顔を限界まで近づけてきている。
「えっ、ちょっ、何さ?」
思わず困惑の声を漏らす。それでも、黒角の視線は外れない。じろーっと、瞬きすら忘れたかのように胸元を凝視してくる。いくら気の知れた同性と言えど、流石にこの至近距離で見つめられれば、僅かな気恥しさを感じずにはいられない。
「鏡乎ー?」
「はっ!」
不審がる問いかけ。彼女ははっと我に返ったように大きく後ずさった。
「なんなのさっ」
「い、いやなんでもないっ。気にしないで」
黒角は、明らかに動揺した様子で誤魔化した。頭の上に巨大なはてなマークを浮かべつつも、普並木はとりあえず素早くTシャツを被り、身支度を整えた。
「え、あんたどうした訳。シャワーの熱で脳みそまで火照った?」
流石にいつもと違う様子に、河海もきょとんとした表情を浮かべる。言葉遣いこそ乱暴だが、その実、黒角の異常な様子を心底心配している。
「あー、いや、本当になんでもないんだけどね」
これは黒角にとって紛れもない真実だ。決して嫉妬や羨望などと言った、変な意味で彼女の肉体を凝視したわけではないのだ。
実際、黒角は能力同様、自身の極めて平凡なスタイルに関しても、特に気にしたことなど一度もない。普並木の規格外のスタイルに関しても、ただ単に良い発育をしているな、程度の客観的な感想しか抱いていない。彼女のその立派な谷間が惜しげもなく披露されたなどという出来事も、去年の暑い夏、三人で共にプールへと遊びに行った時にすでに目の当たりにしているし、その時も特に何も感じなかった。
「え、なんなのっ。ちょっと怖いんだけど」
普並木が心底怪訝な顔をした。先程の黒角の視線には、卑俗な下心などは一切感じられず、まるで無機物を観察するかのように、ただ感情なくガン見されたのに近い。それゆえに、一種の得体の知れない不気味さを感じていたのだ。
「いやー、実は」
困ったように自身の頭をポリポリとかいた。なのに、先程まで彼女の胸部を穴の開くほど凝視した理由。それは、極めて単純かつ拍子抜けするような事実。
「胸。ホクロついてた」
指を真っ直ぐにさした。ここら辺、と正確な位置を指し示すように。
「なっ!?」
ぼんっ、と爆発音でも鳴りそうな勢いで、次は普並木が極度の羞恥で顔を真っ赤に染め上げ、思わず両腕を交差させて自身の胸をきつく覆い隠した。一切の悪気なく、ただの事実として胸のホクロを堂々と指摘されるという、予想外の不意打ち。流石に年頃の乙女として、耐え難い恥ずかしさが一気に込み上げてきたのだ。
「ぷっ、アハハハっ! んだよそれ、ホクロって! 黒角ぃ、あんた、たまにめちゃくちゃ面白いじゃん!!」
その光景を見ていた河海が、さっきまでの羨望やからかわれた羞恥も全て忘れ去り、腹を抱えて大爆笑した。顔を近づけてガン見した挙句、ホクロあったよとただ淡々と報告するだけ。普段はこの破天荒な二人の暴走を止める保護者兼常識人のポジションにいる黒角が、突如として起こした予想外の奇行に、笑わずにはいられなかったのだ。彼女は涙を流しながら、手で黒角の背中をバンバンと乱暴に叩く。
「えっ、ちょっ、ええっ!?」
一人だけ事態が飲み込めず、困惑の極みに達する黒角。そう、彼女はこの三人組の中で一番の、筋金入りの天然だ。思ったこと、視界に入って気になったことを、特に悪気も他意もなく、そのまま行動に移し言葉にしてしまう。今回の一件も、ただぼんやりと見ていたら、よく見たら胸に何か小さなホクロがあったなー、くらいの極めて軽い気持ちで行われた、悪意なき所業。
「やめんかっ! あんたの背中も同じように叩いてやろうかっ!」
黒角は背中を叩く河海の方へ振り返り、瞬時にその右手を眩い光を放つ金剛石へと宝石化させた。
何故彼女にここまで腹を抱えて笑われているのか。
そして何故自分の背中が容赦なく叩かれているのか。
その理由が全く分からなかった。
これぞ天然たる揺るぎない所以。
だが、とりあえずその場のノリに任せることにした。
目には目を、歯には歯を。
そして、手には宝石の手を。
「うおっ!? ばかやろっ! やめろっ! 黒角、あんたのそのバケモノみたいな怪力で背中叩かれたら、マジで背骨が真っ二つに折れるわっ!!」
慌てふためき、河海は脱兎の如く逃げ出し、だっ、と疾風のように普並木の後ろへと回り込み、その長身を盾にするように身を隠した。
「わわわっ、何さっ!?」
突然背後に隠れられ、普並木が驚きの声を上げる。
「うっさい、あんた背高くて無駄にデカいんだから、私の立派な盾になってよっ!」
そう身勝手な理屈を叫び、背後にぴったりと張り付いて隠れる。普並木の引き締まった脇腹にしっかりと両腕でしがみつく。だが。その瞬間、嫌でも視界に入ってしまった。背後から少し覗き込んだだけでも十分にわかる、普並木の圧倒的な胸のボリュームと柔らかな質量感。しがみついたまま、ぐぐぐ、と怨念めいた低い唸り声を上げる。自分の悲しき平坦な胸とまたしても嫌でも比べてしまい、悔しさと理不尽さでぷるぷると両手が小刻みに震え始めた。その怒りの振動が普並木の脇腹にもダイレクトに伝わり、
「ひゃははっ! く、くすぐったいって、河海っ! ぎゃははっ!」
たまらず普並木は、脇腹を刺激されるくすぐったさに耐えきれず、大きな声で笑い始めた。
「うぐぐ、私はどうせ永遠にちんちくりんだよっ!! この巨乳めっ!!」
八つ当たりのように。
そのまま普並木の脇腹を指先で執拗にくすぐり始めた。
「ひ、ひぃー! やめっ、ひゃはははっ!」
容赦なくくすぐり続ける河海。涙目で腹を抱え、身悶えしながら大爆笑する普並木。
そのじゃれ合いを眼前にして、黒角はすっかり蚊帳の外に取り残されてしまった。
無言。
凶器と化した宝石の手。元の滑らかな肌へと戻し、静かに下ろした。
そして、心底呆れ果てたように息を吐く。
けれど、この他愛のない平和な日常。
ふふっと優しく微笑む。
「なーにやってんだか、本当に」
その後も暫くの間、普並木の楽しげな爆笑と河海の喚き声が、更衣室の空間に響き渡っていた。




