感情で天候を変える能力について
一
「博士ー。起きてください」
時刻は午後十五時。天頂に座す太陽が、容赦なく灼熱の陽光を地上へと降り注ぎ、本格的な夏の日照りが街全体を焦がしている。路面は熱気を帯び、通行人の体力を無慈悲に奪い去るような苛烈な気候。
日本が誇る東京の最高学府、類稀なる高偏差値を誇る聖神大学も、すでに長い夏休み期間へと突入した。
星ヶ咲針我は、午前中の早い時間帯から自身のアルバイト先である、苑奈アゲハの個人所有ラボへと足を運んでいた。
分厚い防音と断熱の恩恵を受けた室内は極めて涼しく、空調設備が完璧に稼働し、外の地獄のような熱気とは完全に隔絶された快適な空間を維持している。
ただ、その快適な空気とは裏腹に、室内の惨状は目を覆うばかりの有様。最先端の異能計器や、一般市場には絶対に出回らないような複雑怪奇な実験器具、そして無数の難解な数式が殴り書きされた羊皮紙や電子ペーパーの資料が、足の踏み場もないほど乱雑にそこら中へと散らばっている。
「アゲハ博士っ。起きてくださいよー」
部屋の中央に鎮座する、希少価値の高い金絲楠木の重厚な執務机。その広大な卓上に突っ伏し、安らかな寝息を立てている雇い主の肩を、星ヶ咲は呆れ顔で揺すった。
机の上には、高価なクリスタルガラス製のワイングラスと、二本の赤ワインの瓶が堂々と置かれている。銘柄はコバ・サンタ・スゥイート・ガルナッチャ・ティントレラ。芳醇な果実味と力強いタンニンが特徴。赤ワインにしては極めて珍しい、清涼感のある水色のラベルが貼られている。そして、そのうちの一本は、あろうことか既に完全に空けられ、最後の一滴すら残っていない。
「ん、んんー? な、なんだねっ、言っとくが、この分子結合装置の特許はやらんぞっ」
乱暴に揺すられ、ようやく意識の泥沼から浮上した。
苑奈は、強烈な眠気を纏った双眸を瞬時に見開き、元の聡明かつ冷徹な研究者の顔つきへと一気に戻す。鼻梁からずり落ちていた丸メガネを、くっと人差し指で知的に整えた。だが、その取り繕った態度とは裏腹に、彼女の顔面は過剰なアルコール摂取により見事なまでに茹でダコのように赤く染まっている。
「夢の世界から戻って来ましたか? 博士、昼からずっと気持ちよさそうに寝てましたけど」
星ヶ咲はジト目を向け、責めるような声音で問い詰めた。
「ね、寝てないっ! これはだな、少しばかり高次元の思索に耽り、精神を限界まで集中させていたというか……」
「思い切り夢の話を口走ってましたよ。分子結合装置がなんとかって。そもそも、私が確認した限り、十二時過ぎからずっとその体勢で突っ伏して寝てましたけど」
「……」
苑奈はばつが悪そうに目を細めた。弁解の余地もなく、完全に寝ていた。先程まで、特許料で悠々自適に暮らすという極めて世俗的な夢の世界の住人となっていたのだ。現実でもそうなのだが、夢の中でさえ同じらしい。
「まぁ、いいですけど。貴方がそんなだらしない調子なのは、今に始まったことじゃないですしー」
星ヶ咲はふふ、と呆れ混じりに笑ってみせた。だが、その直後。彼女の頭上に異変が生じる。彼女の持つ異能、感情で天候を変える能力により、室内であるにも関わらず、漆黒の小さな雷雲が突如として形成され、バチバチと紫電を帯び始めた。
「わわわっ! ごめんっ! 寝てたっ! 完全に爆睡してたから、頼むから部屋の中で雷雲を発生させるのはやめてくれっ!」
苑奈は高価な機材への落雷を恐れ、あわあわと情けない声を上げながら両手を激しく振って命乞いをした。
「まったく、もう」
星ヶ咲は小さくため息を吐き、すっと怒りの感情を鎮めて雷雲を跡形もなく消散させた。
「……とりあえず、言いつかっていた第七実験棟の過酷な片付け作業は終わりました。それと、言われた通り、超常霊子波動観測記録の膨大な紙資料は、一枚一枚日付とシリアルコードの順番通りに整頓してファイリングして並べておきました。本当に骨の折れる作業でしたよ、まったく」
「ん? あぁ、そうか、それは大助かりだ。ありがとう。お疲れ様」
苑奈は安堵の表情を浮かべてそう返し、咳払いを一つ挟む。
「それと、ついでにゴミ溜めの本館の方のゴミ出しも頼みたいのだが……」
「あのぉー、アゲハ博士。助手という役職が本来どういう業務を担うものか、分かってます? 都合のいい使いっ走りの家政婦かなにかと勘違いしていません?」
「う……ま、まぁ細かいことはいいじゃないか。これでも君には、学生のアルバイトとしては破格の時給五千円という高額な対価をちゃんと出しているんだぞっ。文句はないだろう」
苑奈は己の非を誤魔化すように、ははは、と小さく乾いた笑い声を漏らしてみせた。
「あー、それは確かにそうですけど」
星ヶ咲も、その圧倒的な金額を提示されると、流石に強くは言い返せない。本日も、朝の早い時間帯からこの広大なラボへと出勤してきた。本来、名目上は天下の苑奈アゲハの助手という輝かしい肩書きだが、それは完全に名ばかり。実態は、基本的にこの傍若無人な天才が乱雑に散らかし、そのまま放置した部屋の清掃や片付け、資料の整理整頓ばかりを押し付けられている。
本日の業務も、別棟に存在する広大な第七実験棟の物理的な片付けと、山のように積まれた難解な書類の整理整頓。いくら空調が効いてよく冷えたラボ内とはいえ、何時間も重い機材を動かして動き回り、膨大な数の書類を規則通りにまとめるとなると、流石に若い体でも疲労が蓄積するし、汗もびっしょりと掻く。
それなのに当の雇い主たる本人は、白昼堂々ずっと高級な酒を呑み続け、昼過ぎにはそのまま机に突っ伏して寝てしまうという、研究者にあるまじきぐーたらっぷり。
しかし、星ヶ咲も口でこそ不満の文句を溢すが、心の底から本気で怒っている訳ではない。時給五千円という破格の高待遇なのはもちろんだが、それ以上に深い恩義があるのだ。かつて、制御不能な自身の気象操作能力のせいで、周囲に甚大な被害をもたらし、国家指定危険能力として政府機関に厳重にマークされていた自分。そんな絶望の淵にいた彼女を救い出し、能力を自意識の制御下に置けるように尽力してくれたのが、他ならぬこの苑奈アゲハなのだ。そのおかげで、今の平穏で幸福な学生生活を送れるようになったという、決して忘れてはならない人生を救われた恩があるのは間違いない事実。
「まぁ、そろそろ休憩したまえよ。ずっと一人で動き回って疲れたろう」
「ではお言葉に甘えさせてもらいます」
彼女がそう勧めるので、星ヶ咲は遠慮なく応接用の最高級の本革ソファへと腰を下ろし、苑奈の隣に座る。
「どうだね、君も一杯」
苑奈が目の前に置かれた、手付かずのもう一本の赤ワインの瓶を指さした。
「あっ、いいですね。私、赤ワイン、結構好きなんです」
星ヶ咲も喉の渇きを覚え、遠慮なく肯定の意を示す。苑奈が右手を軽く上げた。瞬間、その細い指先から、銀色の金属光沢を放つナノテクの触手がシュルルと音を立てて無数に生え出す。
物質をナノテクノロジーに変換する能力の行使。
周囲の無機物を変換し吸収したナノマシンを体内に内包し、自在に身体から生やし操るという、常軌を逸した異能。チャキチャキと冷たい金属音を響かせながら、蛇のように長く伸びた触手が部屋の隅にある大型冷蔵庫の取手を器用に掴み、静かに開ける。その中に保管されていた、よく冷やされた銀色のタンブラー。それを触手で丁寧に包み込むように持ち上げ、空中を這わせて執務机の上まで持っていき、コン、と小気味良い音を立てて置いた。
「酒のつまみはどうする?」
苑奈の問いかけに、
「何があります?」
「極上の合鴨スモークと、三年熟成の生ハムが冷やしてあるな」
「では、合鴨スモークの方でお願いします」
「わかった」
そのまま、冷蔵庫内に待機していたもう一本のナノテク触手が、密閉された保存用タッパーを器用につまみ出し、それを滑らかな動作で机の上に置いた。
用を済ませた銀色の触手たちは、瞬く間に液状化して彼女の指先へと吸い込まれ、元の白い肌の手に戻る。
「ささ、遠慮なく。ぐいっといってくれたまえ」
「ありがとうございます」
星ヶ咲は素直に礼を言い、ワインのキャップを慣れた手つきで開け、よく冷えたタンブラーに並々と注いだ。ひとくち、静かに喉へ流し込む。冷蔵庫で極限まで冷やされたタンブラーのお陰で、液体は心地よいほどに冷たい。舌の上に広がるのは、凝縮された果実のとても甘い風味。だが、すぐに豊かなタンニンや複雑な酸味が追いかけてきて、決して嫌な甘ったるさは感じさせない、極上の味わい。
「おっ」
その予想以上の美味しさに、思わず感嘆の声が漏れる。すぐさま、タッパーの中のつまみの合鴨スモークを素手で一枚掴みあげ、口の中へと放り込む。鴨肉特有の濃厚な脂の甘みと、スモークされた香ばしい旨みが、口いっぱいに爆発的に広がった。そこへすかさず、またワインを流し込む。ワインの酸味が鴨の脂を綺麗に洗い流しつつ、互いの風味を引き立て合い、つまみと抜群に調和し、まさに「合う」という言葉を体現していた。
「美味しいですねっ! このワインも、合鴨スモークも最高ですっ!」
緊張が解け、頬がだらしなく緩み、心からの喜びで声が明るく弾む。
「そうだろうそうだろう。数あるワインの中でも、私の特に好きな銘柄のひとつだからね」
苑奈も、自身の卓越した味覚を褒められたように自慢げに胸を張る。
「はいっ。でもアゲハ博士、私が汗水垂らして頑張って掃除してる間、涼しい部屋で何もせずただ飲むお酒は、嘸かし極上の美味しさでしょうね」
「は、ははは……そ、それはだな、昨日から徹夜で|虚数領域波動共鳴実験《きょすうりょういきはどうきょうめいじっけん》のデータ解析をしてたもので、その疲労回復も兼ねてだな……」
星ヶ咲のチクリと刺すような嫌味に、苑奈は動揺を隠すように誤魔化しながらグラスの酒を一気に煽り、合鴨を取り上げて咀嚼した。そして、それを嚥下した後。
しばし、他愛のない雑談に花を咲かせる。大学での最近の講義内容の退屈さや、巷で流行している若者向けのスイーツの話、あるいは苑奈が過去に出会った奇妙な能力者たちのトンデモエピソードなど、話題は尽きることなく続く。そうして会話を交わしつつ、星ヶ咲の脳髄にもほんのりと心地よいアルコールの酔いが回ってきた頃合い。
「ところで、君のその能力についてだが」
不意に、苑奈が研究者の顔に戻り、真剣な声音でひとこと切り出した。
「私のですか?」
「ああ。本当に君の、その感情で天候を変える能力は、何度見ても極めて興味深いよ。私も能力研究の第一人者として世界中を飛び回り、数多の類似能力を実際にこの目で観察してきたがね。それでも、大気そのものの構成要素を書き換え、雨、風、雪、雷、晴天などと、全ての気象属性を網羅して操るなど、世界的にみても本当に稀有かつ強大すぎる能力だ」
熱を帯びた口調でそう語りつつ、再びワインを喉へと流し込んだ。
星ヶ咲は、その絶賛の言葉を受けても喜ぶことはなく、
「うーん……私は自分の能力にあんまりいい思い出は持っていませんね。こうしてコントロール出来るようになった今はともかく、少し前までは、ちょっとした悲しみで大雨が起きたり、怒りで落雷を頻発させたりと、本当に苦労の連続でしたから」
忌まわしい過去の記憶を呼び起こし、少しばかり重々しく、影を落とした顔つきをする。
声もやや曇っていて、その沈んだ感情に呼応するかのように、彼女の頭上の空間の水分が急速に凝結し、灰色の層積雲がモクモクと現れ始める。
「その悲惨な境遇は本当に気の毒だったと思うがね。だが、今出ているこの雲だって、君が自らの意志で意識的に出したんだろ? 君の脳波の変動ベクトルは、私が調整を施して以来、もう完全に安定の域に達している。かつてのような無軌道で暴発的な変動は、もはや起こり得ないはずだ」
苑奈が赤らんだ顔のまま、冷静な分析を下し、頭上に広がりつつある暗い雲を指さす。
「あはは。流石博士、バレましたか」
星ヶ咲は悪戯がバレた子供のようににぱっと無邪気に笑い、一瞬にしてその分厚い雲を霧散させてみせる。
「ところで。博士は能力のメカニズム研究のために世界中を飛び回っているらしいですけど、実際のところ、私と全く同じような能力を持った人間も海外にはいたりしたんですか?」
ふと沸き起こった純粋な疑問を、好奇心と共に問いかける。
「似たような者はいたさ。だがね、彼らの出力はせいぜい、今の君が遊びでやっているように、自身の周囲数メートルの範囲に小さな雲を出したり、局地的な突風を吹かせたりする程度が関の山だ。それも、雨雲だけ、あるいは雷雲だけといったように、発生させられる気象現象が完全に固定されている単一属性の者がほとんど。ごく稀に、雪雲を発生させつつ冷たい風を起こす能力など、多重属性の特性を持つ希少な者もいたがね。それでも、君のように数キロメートル四方もの広大な一帯の天候そのものを根底から変異させ、さらに自然界に存在する全ての天候現象を完璧に網羅しているような能力者は、歴史上ただの一人もいなかった」
苑奈は淡々と、しかし確信に満ちた口調で事実を語り始める。泥酔しているとは思えないほど、その流れるような言葉の端々には、底知れぬ聡明さと探求心が溢れ出ている。
「そ、そうなんですか……」
自身の能力の異常性を改めて突きつけられ、星ヶ咲は複雑な思いを抱えた微妙な表情をしている。
確かに、苑奈の尽力によって能力のオンオフや影響範囲の選択は自在に行えるようになった。とはいえ、相変わらずその時々の自身の感情の色彩に合わせた気象現象しか起こせないという縛りはある。苑奈自体も、彼女のその規格外の能力の源泉に非常に強い学術的興味を持っており(そもそも、高給で彼女を助手として雇い入れた最大の理由が、身近で観察するためなのだが)、能力を制御化におけた後も様々な検証実験を執拗に行った。しかし、やはり「発生させる気象現象は、当人の感情の起伏に絶対的に呼応する」という強固な法則は、どれほどアプローチを変えても完全に固定されていたのだ。
「もし君が、自身の感情の揺らぎに関係なく、完全に理性のみで自在に天候を操る事が出来たとしたら。それこそ、戦略兵器すら凌駕する、名実ともに世界最強クラスの能力者になれたのだろうがね」
苑奈は惜しむようにそう言い、ふっと口角を上げて笑ってみせる。だが、星ヶ咲は首を横に振り、
「ちょっと、物騒なこと言わないでくださいよー。世界最強とか、そんな血生臭い称号、私は一切興味ないです。まぁ、これが感情抜きで自在に操れたら、お出かけの時に雨を降らせないようにしたり、夏場に涼しくしたりと、日常生活で結構便利だったとは思いますけどね」
「すまんすまん。いささか少年漫画的で短絡的な考えだったね。ただ、私的な研究者の視点から言わせてもらえば、もし自在に操れれば、その人為的な天候の変化から、計り知れない莫大な自然エネルギーの抽出が出来ただろうなと、少しばかり夢想したくらいだよ。感情のブレという制御不能なトリガーがあると、エネルギーの安定供給という面では色々危なすぎるからね」
苑奈も自身の不用意な発言を反省し、直ぐに素直な謝罪を口にする。彼女とて、異能というものは他者を傷つける戦いの道具などではないという信念を持っている。自身のナノテク能力も、出先で襲ってきた相手への対応───以外には極めて個人的かつ平和的な実験にのみ私的利用し、他者の持つ特異な能力に対しては、ただ純粋な知的好奇心を満たすための研究対象として没頭する。これこそが、苑奈アゲハという孤高の天才研究者の本質なのだ。
「えー? ほら、私って基本的に明るく前向きな性格な自覚あるので、能力を発動させれば基本的に周囲がぽかぽかな心地よい陽気になるじゃないですか。その熱気を集めて、そこから熱エネルギーとか効率よく抽出できないんですか?」
星ヶ咲はにこにこと太陽のように笑い、再び能力を薄く発動させる。
瞬間、周囲の空間は仄かに温かくなり、室内の少し強めの冷房の冷気と絶妙に混ざり合い、まるで秋の初めの程よい涼しげな気候のようになり、極上の快適さを生み出した。
「エネルギーの抽出と変換というのは、そう都合よくいくものではないんだよ。発生する気象が完全に固定されていれば、それに合わせた専用の超域気象異能集積炉を構築して対応できるのだが、君の感情起因というシステムの場合、あまりにも不確定要素が多すぎる。例えば、基本が陽気だとしても、突然の怒り以外でも、ふとした拍子に驚いただけで無意識に雷が落ちるだろう? その一瞬だけ都合よく集積システムを遮断し、能力を解除するなど、システム的にも物理的にも困難なはずだ。そんな不安定なものを運用すれば、エネルギー抽出装置どころか、最悪の場合このラボ全体が雷撃で破損しかねない。費用対効果を考えても、あまりにもリスクが高すぎるんだ」
苑奈は己の野望が実現不可能であることを悟り、非常に残念そうに肩を落として言った。
「あはは。確かに、一時の感情の乱れで高価な装置やこのラボが壊れちゃったら、元も子もないですね」
星ヶ咲も、その恐ろしい被害額を想像して苦笑いを浮かべた。生まれながらにして個人の遺伝子配列に深く刻み込まれる異能というものは、どれほど修行を積もうとも、その根本的な性質が大きく変わることは絶対にない。苑奈が心血を注いで開発した思念波動鎮静式霊環という特殊なイオン発生装置を用いて彼女の脳内に施した処置は、あくまで荒れ狂う脳波を強制的に変異させ、無意識下で暴発していた能力の発動を、意識下での制御に引き上げたに過ぎない。
世界の名だたる最先端の能力研究機関の頭脳を集結させようとも、世紀の天才たる苑奈アゲハの力をもってしても、魂に根ざした「固定された能力特性」という概念そのものを変質させることは不可能なのだ。
それが、この世界における絶対的な理。
「だが、この天才たる私とて、君の規格外の能力に関しては、未だに解明できない分からないことが多すぎるんだ。天候を人為的に操作するエネルギー総量は、人類が作り出した核兵器なんかより遥かに巨大で圧倒的だ。そんな天文学的な莫大なエネルギーが、一体君の小さな身体のどこから湧き出ているのか? なぜこれほどの強大な力を発しながら、君の肉体や精神には特に異常もなく、平然と日常生活を送っていられるのか。どういう物理的、異能的な原理で、はるか高度一万メートル以上の空域の気圧配置を瞬時に変化させているのか。考えれば考えるほど、疑問が尽きないね。君の生体組織から発せられる、未知の特殊なマイナスイオンと重電子を帯びたプラスイオンの相互作用が、大気中の電子と複雑に関係していることまでは解析でわかったのだが………」
かなり酔いが回っているのに関わらず、苑奈はブツブツと、止まらない知的好奇心に任せて凄まじい早口で専門用語を並べ立て、独自の考察を呟き続ける。その思考回路の回転速度は至って正常であり、恐ろしく鋭利だ。
彼女の恐るべき頭脳は、アルコール如きの麻痺作用では決して狂わないらしい。だが、星ヶ咲は、その難解な考察を耳にしながら、
「でも……」
ひとこと。暗い影を落として、ぽつりと零した。
「私なんかが、こんな、人智を超えた恐ろしい力を持ってて、本当にいいんでしょうか」
心の奥底に封じ込めていた重い不安が、不意に言葉となって零れ落ちてしまう。もし、何かの拍子で本気でこの能力を限界まで解放してしまったら。もし、再び脳波が乱れ、制御が全く出来なくなってしまったら。
天候という、自然の猛威そのものを操る強大な力。下手したら、一つの国を滅ぼし、世界すらも氷河期や大洪水で滅ぼしかねない、本来であれば神として畏怖されるべき、一個人が持つには余りにも巨大すぎる能力。
「私は、今でも拭いきれない不安はあります。たまに恐ろしい夢にも見るんです。もし、あの時のようにまた能力が暴走して、取り返しのつかないことになったらって……」
自分のような、どこにでもいる一端の女子大生が、こんな世界を揺るがす力を保有したまま生きていってよいものなのか。星ヶ咲の感情が急速に暗く沈み込むのに連動し、室内の気候が急激に変化を始める。先程までのポカポカとした心地よい陽気は消え失せ、視界を遮るどんよりとした重苦しい濃霧が、じわじわと足元から立ち込めそうになっていくが───。
「針我くん」
苑奈は独り言のような考察をピタリとやめ、研究者の顔から保護者のような真剣な眼差しへと切り替え、不安に揺れる助手の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「人間と、その身に宿る能力というものは、切っても切り離せない不離一体のものだ。外科手術や投薬で、それを根こそぎ無くすことは絶対に出来ん。だが、決して忘れてはいけない。その畏るべき力も、紛れもない君の一部であり、君自身なんだ。恐れるだけでなく、自分自身の業として、一生向き合っていかねばならんのだよ」
腹の底から響くような、力強い声音で諭すように言う。丸メガネの奥で光るその理知的な瞳には、彼女への信頼と、一点の曇りもない確固たる意志が宿っている。
「博士……ですが」
「それに、君にはこの天才、苑奈アゲハがついているだろう? 万が一、また君の力が暴走するような事態に陥ったとしても、その時は私が全知全能を傾けて必ずなんとかしてやる。まぁ、私の施した処置により、君の脳波の安定性は完璧に保たれているから、万が一にでもそんな事態は起こり得ないだろうがね。もっと自分と、この私を信じ給え」
「……そうですね。博士がそう言ってくれるなら」
星ヶ咲は、その傲慢なまでに自信に満ち溢れた力強い発言に、すっと肩の力が抜け、深い安心感を覚える。不安の靄が晴れ、いつもの明るい笑顔を作って見せた。
「ささ、感傷に浸るのはそのくらいにして、それより、足元に広がり始めているこの鬱陶しい濃霧はなんとかしてくれないか? 湿度が上がれば、貴重な紙の書類や、数億単位の精密機器がショートしてダメになってしまう。君の過去の辛い境遇を考えると、こうして能力を自分の意志で自由に使えるのは楽しいし嬉しいだろうが、私の神聖なラボ内でこれ以上被害を出されると本気で困る」
苑奈は冗談めかして、わざと大げさに困ったような顔を作って見せる。
「あっ、ごめんなさいっ」
星ヶ咲はすぐに快活に笑い、感情を明るい方向へと完全に切り替え、室内に充満しかけていた濃霧を一瞬にして消し去る。だが、霧が完全に消え去るその瞬間、彼女の心が完全に晴れ渡ったことを証明するように、それはまた心地よく暖かい陽気な光へと変質し、室内を優しく包み込んでいた。
星ヶ咲は安堵の息を一つ吐き、自身のタンブラーに残っていた極上の赤ワインを、喉を鳴らしてぐっと一気に飲み干した。




