愛煙家二人
天頂に君臨する狂暴な太陽が容赦なくアスファルトを焼き払い、周囲の気温は瞬く間に本日の最高観測値へと到達した。
八卦屋の店舗外、建物の陰にひっそりと備え付けられた愛煙家たちのための喫煙所。そこには直射日光を遮断すべく、傘のような形状をした新素材エアロ・パラソルの屋根が展開されている。これは最新の光学迷彩技術と熱音響冷却システムを応用し、有害な紫外線を完全に弾き返しつつ、内部に人工的な冷気の渦を作り出すという優れもの。
さらにその骨組みの各所には、微細な粒子状の水を散布するミストシャワーが完備され、灼熱の外界とは隔絶されたささやかなオアシスを形成していた。
筮麽と伽羅部は、暴力的なまでの脂と炭水化物の饗宴を終えた後の、至福の食後のタバコを心ゆくまで楽しむべく、その涼やかな日陰に並んで立っていた。
伽羅部は重装甲のような黒いトートバックの中をごそごそと漁り、色鮮やかなオレンジ色のタバコの箱を取り出した。銘柄はピール・スプラッシュオレンジ。メンソールと柑橘系の香りが特徴的な嗜好品。
彼女は手慣れた様子で一本を唇に咥えると、小気味良い音を立てて火をつけ、ゆっくりと一口吸い込んだ。紫煙を深く肺には入れず、あくまで口腔内にのみ漂わせる。メンソールの突き抜けるような爽やかさと、オレンジの人工的で甘い風味が、先程まで胃袋を支配していた家系ラーメンの強烈な脂っこさを完璧に中和していく。
これぞまさに、純粋に味と香りを楽しむためのクールスモーキングという嗜み。
「筮麽、アンタ、タバコちゃんと持ってきたの? 見たところ特に鞄とか荷物とか持ってないみたいだけど」
細く紫煙を吐き出しつつ、伽羅部が横に立つ筮麽に話しかけた。
指摘の通り、彼女の服装は薄手の上着とワイドパンツという身軽なもので、とてもタバコの箱や小物を隠し持てるような鞄類を持参していない、完全な手ぶら状態に見える。
「うん。ちゃんと持ってきたよ。こっちの方のポケットに入れてきた」
平坦な声で答え、上着の、スマートな財布の入っていない方の右ポケットに手を突っ込む。
だが、それはもちろん彼女特有の息を吐くような嘘に他ならない。というよりも、極度の面倒くさがりである彼女は外出の際、どうしても鞄でなければ入らない程の巨大な物品がない限り、余計な荷物は一切持ち歩かない主義を徹底している。
その身軽さを実現している絶対的な理由が、彼女がこれまでに集めてきた膨大なコレクションのひとつ、異次元空間に物を収納する能力の存在。
物理的な容積を完全に無視し、あらゆる物品を任意の亜空間へと格納できるこの絶大な力を用い、彼女は特にタバコ類の箱や、もしもの時のための現金の入った予備の財布などを常にここに収納しているという訳だ。
右ポケットの内部で密かに能力を発動。そして何事も無かったかのように手を引き抜く。
すっ、と手品のように、怪しげな茶色いタバコの箱と、鈍く光る銀色のジッポライターが彼女の左手に握られていた。その銘柄は、ブラックデビル・モカバニラ。真っ黒な巻紙と強烈な甘い香りが特徴の異端のタバコ。
慣れた手つきでジッポの蓋を開け、カチンと火をつけ、深く吸い込んだ。コーヒーとバニラが混ざり合ったような、極端に甘い煙を口の中でゆっくりと転がす。
「うえっ。アンタ、マジ? そんなの吸うの?」
伽羅部が、顔をしかめ、素っ頓狂な声を上げた。
「え? なんでよ」
筮麽が、甘ったるい紫煙を空へと吐き出しつつ聞き返す。
「いやいや、あんな暴力的なまでに脂っこいラーメンとか唐揚げとかをドカ食いした直後だろうが。よくぞまぁ、そんな吐き気がするほど甘ったるいもの吸えるわ」
心底呆れ果てたように言う。常識的に考えれば、脂っこい唐揚げや強烈な塩分の家系のラーメンなどを胃袋の限界まで詰め込んだ後の、デザート以上に甘ったるいタバコ。その味覚の崩壊ぶりには当然驚く。
「うちの柄長にもよく言われるんだよねー、それ。でもいいの。私はこの甘さが好きなんだから。それに、メンソールのスースーする感じ、そんなに好きじゃないし。クールくらいかなぁ、吸うのは」
筮麽はいつも一緒にタバコを吸う度に小言を言ってくる、世話焼きな小柄の友人を脳裏に思い浮かべつつそう返し、口内で再び紫煙を転がし、その濃厚な甘さを怠惰に楽しむ。
誰もが思わず振り返るほどの整った目鼻立ちを持つ長身の美女と、そして見るからに過激な地雷系ファッションと濃いメイクで身を固めた、同じく長身の美女。
並んでタバコを吹かす二人。
その対極に位置する絶妙なコントラストは、このうらぶれた喫煙所において謎の美しい調和を見せていた。
「まぁ、メンソールは好き嫌いはっきりと別れると思うけど。でもこのピールは初心者にオススメだよ? そこまでメンソール感が強烈じゃないし、なにより香りがすごくいいの」
伽羅部は、手慣れた美しい手つきでフィルター部分を指先で摘む。パキッ、という小さな破裂音。内部に仕込まれた香料のカプセルを潰した。
再び深く吸い込む。カプセルが潰されたことにより、さらに強烈なオレンジの芳醇な風味が煙にプラスされ、周囲の空気を柑橘の香りへと染め上げる。
「へぇ、そんなギミックのあるタバコがあるんだ。初めて知ったよ」
筮麽は視線を戻し、僅かに関心したように言う。
「他にも色んな種類があるよ。グレープとか、レモンハニーとか、レッドワイン、変わり種だとスイカとか。甘いのが好きなら、ヨーグルト味もあったりして」
オレンジの煙をゆっくりと吸いつつ、手元の箱を筮麽へと手渡した。
「百聞はなんとやら。ほれ、香りだけでも嗅いでみな。火をつけて吸わなくても、本体の巻紙にもうしっかり匂いがついてんのよ」
「どれどれ」
箱を受け取った筮麽。蓋を開ける。鼻。近づけて、その香りを嗅いだ。
鼻腔からダイレクトに伝わる、まるで炭酸飲料のファンタオレンジのような、強烈で甘い柑橘の香り。
「おー、すごい。本当にいい匂いだね」
素直に感心する。伽羅部は、自分のタバコをゆっくりと吸いつつ、誇らしげに胸を張る。
「火をつけて吸ってもいい匂いだし、ちゃんとオレンジの味もするよ。お試しで一本あげよっか?」
「ほんと? いいの?」
「さっき美味しい餃子もらったからねぇ。これはその対価よ、対価」
「やったー」
筮麽はオレンジ色の箱からタバコを一本、そっと引き抜いた。そして箱を伽羅部へと返す。
「じゃあ私もなんかお返しにあげよっか? 一本。他の銘柄、まだ持ってきてるよ」
左手でオレンジのタバコをもてあそびながら続けて言った。現在、筮麽の中でこの伽羅部瞰という地雷女への好感度が急激に爆上がり中。
驚異的な大食いであり、さらに愛煙家でもあるという深い志を共にする彼女に対し、いつの間にか確かな仲間意識を持ち始めていた。
「え、何があるの? そのブラックデビルみたいな、極端に甘いやつ以外で頼むよ」
「ええと、ちょっと待ってね。持ってきてるから」
再び右ポケットに手を入れ、深淵なる異次元へと手を差し入れた。無数のガラクタの中から目当てのものを探し出し、ガサゴソと音を立てて、箱をひとつ取り出す。
黒を基調としたシックでお洒落な見た目をした、ベントレー・ブラック。それを伽羅部に手渡した。
「え、なにこれ、初めて見た」
伽羅部が不思議そうに箱を開け、本体の匂いを嗅いでみる。ブラックデビルのような極端な香りは一切しない。純粋な無着香のタバコ。
「ベントレー・ブラックだよ。ちょっとお高めの、質のいいタバコ。フィルターの構造が特徴的なんだよね、TPEフィルターってやつを採用してるの」
モカバニラの紫煙を燻らせつつ、さも博識であるかのように得意げな解説を付け加えた。
「ふむふむ、なるほどね」
伽羅部は箱から一本取り出してまじまじと観察し、感心する。確かに、フィルターの中心部分にぽっかりと空洞の穴が空いている。なるほど、こんな特殊な形状のものは今まで見たことがない。
お互い、丁度一本目を根元まで吸い終え、短くなった吸殻を水の張られた備え付けの灰皿へと投げ入れた。
そして、今しがた交換されたばかりのタバコを互いの口に咥える。ジッポライターの火を共有し、お互い同時に火を付ける。筮麽はピールを一口吸い込み、おっ、と小さく驚きの声を漏らした。
「おー、確かにすごくオレンジの味がする。メンソールもそこまで強めじゃなくて、程よい清涼感だね。これなら私でも美味しく吸えるな」
「でしょ。てか、アンタのくれたこのベントレーってのも中々いい感じじゃん。変な雑味がなくて、タバコ本来の芳醇な味って感じ? うん、すごく美味しい。メビウスの味をさらに濃くして、上品にした感じかな?」
お互い、紫煙を吐き出しながら真剣な面持ちで味の感想を言い合う。
「ただ、燃焼剤がしっかり入ってるから、火をつけるとすぐ吸いきっちゃうのが唯一の難点だけどね。あんまりバカスカ連続で吸うもんじゃないけど」
「なるほど、確かにこの減りの早さだと長くは吸えなさそう。で、アンタが吸ってるそのピール、フィルターに丸いマークが着いてるでしょ? そこにカプセルが入ってんの。それプチッと潰せば、さらに風味が加わって味が劇的に変わるよ」
「どうやってやるの? これ」
「こうやって、指先で強く摘んで割るの」
親指と人差し指を合わせ、力を込めてつまむ仕草を実演して見せた。
筮麽はそれに習い、左手の指先でフィルターのマーク部分を強く摘む。プチッと言う微小な音を立てて内部のカプセルを潰した。
おお、と分かりやすい変化に感心した後、もう一度唇に加えて深く吸い込む。
なるほど、先程よりもさらにオレンジのフレッシュな味が強烈になり、口内を満たしている。
「いいね、これすごく気に入ったよ。で、これピールだっけ? いいじゃん。メンソールだからって食わず嫌いするもんじゃないかも」
筮麽も心底満足気に新しい味を楽しみつつ。
いつもの癖で口を尖らせ、ぽん、ぽん、と器用に煙を綺麗な輪っかの形にして虚空へと放ってみせた。
「お、煙の輪っか作れるんだ? アタシ、それ昔から何度練習しても出来ないんだよねぇ。ちょっとコツ教えてくんない?」
「ふふん。これにはちょっとした技術とコツがあってね、無理に息の力入れないで、唇で煙をふわって押し出す感じにするの」
筮麽は極めて得意げな顔になりつつ、先輩風を吹かせて教える。伽羅部は見よう見まねで口をタコのように尖らせ、必死に輪っかを作ろうと奮闘している。
だが、何度やっても上手くいかず、ただ不格好な煙の塊がだらしなく吐き出されるだけ。
「あー、もうダメだっ! これ難しすぎるっ」
悔しそうに唸り、吸いきってしまったベントレーの吸殻を灰皿へと叩き入れた。筮麽は完全に勝ち誇った表情を浮かべ、
「まぁ、こういう繊細な技には生まれ持った才能がいるからね。私みたいに選ばれた天才じゃないと、そう簡単にはできないんだよ」
ぽんぽん、とさらなる見せびらかすような連射で、見事な煙の輪っかを連続で吐き出して見せた。勝った。以前、ケンタッキーの大食いというジャンルにおいては屈辱的な敗北を喫したが、このタバコの輪っか作りバトルにおいては完全なる圧勝を収めた。
その小さな優越感が、筮麽のしょうもないプライドを優しく癒していく。
「ぐっ……悔しいっ! 次一緒に吸う時までには絶対マスターして、出来るようになってやるっ」
伽羅部は、憎まれ口の一つでも言いたかったが、自分が出来ない高等技術を涼しい顔でこなす目の前の美女に対し、ぐうの音も出ず、言い返す言葉を見つけられなかった。
「瞰、この後何か予定ある?」
最後の煙を吐き出しながら、筮麽がふと思いついたように尋ねた。
「特にないけど。帰ってシャワー浴びるくらい」
「じゃあ今からタバコ屋いかない? この近くに、東京で一番でっかいタバコ屋あるんだよ。品揃えがヤバい、愛煙家の間じゃ超有名なとこ」
魅力的な提案をした。今しがた出会い、すっかり気に入ってしまったピールという新しい銘柄。
それに、同じく紙巻タバコを深く愛する同胞との出会い。友人の柄長もタバコは吸うが、彼女は電子タバコであるiQOS派の人間なので、こうして紙巻特有の燃焼の匂いや種類の豊富さなど、深い魅力を語り合うことはできないのだ。
「え? あー、もしかしてバコタのことでしょ? アタシもよく行くし、知ってるけどさ、アンタ、ついさっきラーメン食べる前、金ないって言ってなかった?」
伽羅部は鋭いツッコミを入れ、思わず訊き返す。
「何言ってるの。タバコは別腹って言うでしょ」
だが、筮麽。一切悪びれる様子もなくニヤリと不敵に笑い、およそ世間の常識からかけ離れたとんでもない言い訳を堂々と並べ立てた。
伽羅部もそのあまりにも潔いクズっぷりに呆れるのを通り越し、同意するようにニヤリと笑い返す。
「おっけー。じゃあ早速行こっか! アタシも、アンタともっとディープなタバコの話、語り合いたいし」
伽羅部の友人の西圓寺も喫煙者ではあるが、彼女とは別に出来た、マニアックなタバコトークを気兼ねなく出来る貴重な相手。
彼女が現在通う地女大こと地雷系女子大学には、その名の示す通り喫煙者の学生も数多く生息しているが、その殆どは単にニコチンを摂取するためだけに安タバコを肺に入れる、典型的なニコチン依存性のヤニカスばかりなので、こうした銘柄の味や歴史について深く語り合うタバコトークに花を咲かせることは全く出来ないからだ。
筮麽もまた、二本目のタバコを吸い終え、灰皿へ投げ入れた。
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再び灼熱の街中を歩き出す二人。
上空から降り注ぐジリジリとした殺人的な熱気が、二人の肌を容赦なく照らしつける。
筮麽は歩きながら、再び体温を下げる能力を起動させる。八卦屋の強力な冷房内で引き上げた体温を、この猛暑における最適な温度へと自在に調整し直したが、隣を歩く伽羅部は汗を拭いながらかなりきつそうに息を吐いている。
ふと、伽羅部は道の横へと視線を向けた。緑豊かな広い公園。そこには夏休みを満喫する小学生の集団が、けたたましい声を上げて集まっていた。
「みんなっ! おれの周りに集まれっ!」
ひと際元気良さそうに叫ぶ、半ズボンの男子。驚くべきことに、彼の体の周囲、およそ二メートルほどの円形範囲には、目に見えるほど濃密な水色の冷気フィールドが展開されていた。その涼を求めて、すぐさま公園中を走り回って遊んでいた他の男子たちが群がるように集まっていく。
「涼しいだろー? おれの能力ぅ」
冷気の発生源である男子が、胸を張り、非常に自慢げに言う。
「いいよなぁー、おまえのその冷たい空間を作る能力。こんなクソ暑い夏はマジで最強じゃん」
「それそれっ。おれなんて、足からぶどうの匂いを出す能力だぜ? 戦闘にも生活にも、全く役に立たねーよ、こんなの」
「あはは、でも靴下は絶対に臭くならねーんじゃないかな?」
他の男子たちも汗を引かせながら笑い合い、無邪気に談笑している。
伽羅部は、その光景を日向から恨めしげにじっと眺めていた。
「いいなぁー、あんな便利な冷気系の能力。夏のお出かけにはめちゃくちゃ重宝しそう。まぁ、アタシは自分の大食い能力に全く不満はないけどさ」
「見た目も水色で涼しげで綺麗だね」
筮麽も適当にそう相槌を返すが、その実、極めて自然な視線の誘導により、ちゃっかりとその男子の冷たい空間を作る能力を自身のストックへとコピーした。
これ自体は、既に無数の冷気能力を保有する彼女にとっては全く役に立たない下位互換の能力ではあるが、視覚的な見栄えの良さと、他の着色系の能力などと適当に組み合わせれば、自身の本当の能力を知っている柄長に対して、ちょっとした幻想空間のように見せびらかす程度の暇つぶしにはなりそうだと踏んだのだ。
「そういえば、筮麽は別にないの? 自分の能力に対する不満とか」
「え?」
「だって、さっきラーメン屋で言ってたじゃん。せっかくの激レアな多重属性の触手能力なのに、極端に燃費が悪すぎて、実戦や日常生活じゃほぼ使い物にならないんでしょ?」
「あー……」
伽羅部の真っ当な問いに、筮麽は虚ろな瞳のまま暫し考えるふりをする。
「んー、特にはないかな。その燃費の悪さのお陰で、こんなに美味しいものをいっぱいたくさん食べれるから、むしろこの体質には大満足」
先程伽羅部に対して適当に語った偽装設定に矛盾が生じないよう、見事な論理的帰結を用いてその旨を伝えた。
「あはは。なるほど、大食いを楽しむためのスパイスと思えば、それならいいのかもね。逆にエコで燃費がよかったら、あんな特大ラーメンと無限ライス、絶対にそんなに食べれてないでしょ」
伽羅部は納得したように明るく笑った。
筮麽もその笑い声に釣られるように、いつもは感情の起伏の乏しい彼女にしては珍しく、少しではあるが、ふふっ、と声に出して笑って見せた。
「だねー。不幸中の幸いってやつ」




